第13話:涙の理由

 月玄と陽太の二人と別れた梓は廊下を走っていた。慌てた様子で教室に入り、自分のカバンをひったくってすぐに教室を後にする。途中でクラスメイトに声をかけられたような気もしたが、梓はそんなことにかまってられる心の余裕はなかった。

(紅哉さんが死んじゃうっ!)

 心臓がバクバクと嫌な音を立てる。もちろん、紅哉が死ぬのは最悪の事態になった場合の話だろう。今がその最悪の事態だとは思わないが、そんな可能性があるということだけでも嫌だった。梓もその辺は重々理解している。理解はしているが、焦る気持ちは止められなかった。


 駆け足で校門を出る。その時、首根っこを誰かにぴっぱられた。シャツが首に食い込んで、ぐえっと変な声が漏れる。

「どこに行くんだ? 午後からも授業はあるだろう?」

「こ、紅哉さん?」

 梓が振り返った先には紅哉がいた。呆れたような顔も本当にいつも通りだ。しかしその顔が梓の顔を見た瞬間、だんだんとこわばって、最後には無表情になった。

「紅哉さん?」

「月玄か?」

「はい?」

「誰にやられた?」

 紅哉はそっと親指で梓の目の縁を撫でる。彼の手に水滴がついているのを確認して、梓は自分が涙目になっていることに初めて気が付いた。ごしごしと制服の袖で拭って笑って見せると、低かった紅哉の声がますます低くなった。

「何された?」

「え?」

「あいつに何かされたんだろう?」

「いや、大丈夫! 大丈夫だよ! 紅哉さん!」

「屋上で何か言われてたな? それが原因か?」

「確かにそれが原因って言ったら原因なんだけど、月玄は関係なくて…」

「庇うのか?」

「違う! 違う! 紅哉さんその顔怖い! むしろ原因って言ったら、紅哉さんだから大丈夫! 私なにもされてないし、してないし!」

「…俺が原因? お前になにかしたか?」

 安心したのか紅哉の表情が元に戻る。いぶかしげに眉は寄せてるが、先ほどの最高に不機嫌な表情ではない。梓はそのことに胸をなでおろした。

「とりあえず、帰りましょう」

「午後からの授業はいいのか?」

「今日はサボることに決めました! そして今から紅哉さんとの話し合いタイムにします!」

「…そうか」

 よくわからないままうなずく紅哉の腕を引っ張って、梓は家路についた。


==========


 なんでこうなったのだろうか、そう思わずにはいられない状態だった。紅哉は自分の腹の上にまたがる少女を見て溜息をつく。彼女の手にはカッターナイフが握られていてそれを自らの手首に這わせていた。

「私が直接飲ませるか、自分で飲むか、選んでください」

「……」

 場所は紅哉の部屋。床の上。帰宅してすぐの出来事だった。

「押し倒したのは謝ります。でも、いつもの紅哉さんなら私がいくらタックル食らわせても倒れませんよね? でも、倒れたってことは、血が足りないからじゃないんですか?」

「……お前が気にすることじゃない」

「つまり、足りないんですね?」

「大丈夫だ」

 紅哉の返答から血が足りないのはおそらく間違いないだろう。しかしその態度からは梓の助けを必要としてない様がありありと伝わってきて、梓は怒気をはらんだ声を出す。

「何が大丈夫なんですか! 聞きましたよ、血が足りないのって放っておくと死んじゃうって! つまり紅哉さんもこのままだと死んじゃうかもなんですよね!?」

「まだ平気だ。これ以上どうにかなるようなら、その時に考える。とりあえずそこをどいてくれ」

「まだって何ですか! まだって! つまり将来その可能性があるってことじゃないですか! どきませんよ、紅哉さんが飲んでくれるって言ってくれるまで! さぁ、選んでください! 私がこの手首切って無理やり飲ませるか、紅哉さんが自分から飲むか、です。もしまだ体が飲めないって反応するようなら私が無理やり飲ませますので、その時は言ってください」

 紅哉は梓に聞こえるぐらい大きなため息をつく。こちらを向いている瞳が少し揺れたようにな気がした。

「必死になる意味が分からない」

「そりゃ紅哉さんに死んでほしくないからですよ!」

「…今までだって何とかなったんだ。これも放っておけばそのうち何とかなる」

「何とかならないかもしれないじゃないですか!」

「もし、そうなっても、お前には関係ないだろう。契約は壱にでも引き継いでもらえばいい」

「関係ありますよ! 私、紅哉さんが死んだら悲しいです! 泣きます! 目が真っ赤になっちゃいます! 知ってますか? ウサギは寂しくてたくさん泣いたから目が真っ赤なんですよ?」

「……」

 紅哉はその言葉に驚いた顔をして梓を見つめる。そして、少し苦笑いしながら、変わらないな。と呟いた。

「俺が死んだら寂しいのか?」

「そりゃ、好きな人が死んだら寂しいですよ! あ、えっと、『好きな人』っていうのは、人としてですよ! 人として!」

 急に真っ赤になって否定する梓を見て、紅哉がくつくつとのどを鳴らして笑い始める。手で口元を隠しているが、持ち上がった口元は隠し切れない。その紅哉の様子に梓は怒ったように彼の胸元を叩いた。

「紅哉さんっ!」

「悪い、悪い。それでさっき泣いていたのか?」

 全然悪びれる様子もない謝罪をして、先ほどよりも柔らかくなった態度で紅哉はそう聞いた。

「それももちろんありますけど、そんな状態の紅哉さんに頼ってもらえなかったのが悔しくて…。いつも助けてもらってるのに、私は何も返せていないし。更に言っちゃうなら、今回血が足りなくなった原因だって、私の所為なんですよね? 監視する為だけかもしれないけど、一応契約だってしたのに、肝心な時は頼ってもらえなくて、私って本当に役立たずだなぁって…」

「そんな風に思ってたのか?」

 びっくりしたような顔でそう聞くと、梓はゆっくりと頷いた。その顔はどこか拗ねているような顔で、紅哉はそれをとりなすように、彼女の頬をゆっくりと撫でた。その瞬間、梓の目が涙で潤む。大粒の涙を湛えたそれを梓はゴシゴシと袖で擦った。

「あまり擦ると腫れるぞ」

 そう言って紅哉は梓の腕を掴んで止める。すると不服そうな梓の瞳と目が合って、彼は困ったように笑った。

「悪かった」

「ほんとですよ!」

「すまなかった」

「それで済んだら警察はいりません」

「ゆるしてくれ」

「ゆるしません!」

「どうしたら許してくれるんだ?」

 そう聞くと、梓は余計唇を尖らせて、まだわからないのか、と言いたげな表情をする。少し腫れてしまったその目で睨まれても怖くないが、あまりそういうことを言うと怒られそうなので紅哉は口を噤んだまま梓の言葉を待った。

「…もう少し頼ってほしいです」

 ぼそりとそう告げられて、そっぽを向かれる。紅哉は彼女の顔を両手で持って自分の方へとを向かせた。

「血をくれるのか?」

「違います」

「…飲ませてください?」

「他人行儀すぎます」

「飲ませてくれ」

「…はい、どうぞ」

 そう言って梓は嬉しそうに笑う。紅哉もそんな彼女につられて笑顔になった。

「もうカッターナイフはしまえ、自分で飲む」

「飲めます?」

 梓が心配してるのは、紅哉が過去のトラウマで飲めなくなってたことだろう。そんな心配をよそに紅哉は機嫌がよさそうな笑顔で彼女の頭をわしわしとかきまぜた。

「お前なら不思議と大丈夫な気がするな。まぁ、無理だったらその時考える」

「そんなんで大丈夫ですか?」

「何とかなるだろ。それより、ん」

 紅哉が両手を梓の方に伸ばし、彼女のことを待つような仕草をする。それはつまりこのまま梓に抱きついてこいということで……。そのことに思い至り、梓は顔を真っ赤にして声を荒げた。

「それは抱きつくって感じになっちゃうかとっ! 私、重いですし! 最近太ったし!」

「大丈夫だ。別にお前ぐらいどうって事はない。来ないのか?」

「『来ないのかっ?』って、なんか紅哉さんおかしくないですか!? そんなこと言う人でしたっけ?」

「そうだな、わりと自分でも驚いている。…来ないのか?」

「また言った! 無理です! 無理です! 恥ずかしくて死んじゃいます!」

「じゃぁ、逆になるか」

ぐるりと視界が反転する。気が付いた時には梓は天井を見上げる形になっていた。目の前には赤いルビーのような瞳。自分が置かれてる体勢に気が付いた時にはもう遅く、彼の口は首元にあった。梓は紅哉の服を掴んでその衝撃に耐えるようにぐっと目を閉じる。その様子を感じ取ったのか耳元で優しい彼の声がした

「やめとくか? 怖いんだろう?」

 梓がその声にゆっくり目を開けると苦笑いの紅哉と目が合った。右手で優しく梓の頭を撫でている。

「前の時も怖がっていたしな。またの機会にするか。俺だってすぐどうこうなるわけじゃない」

 前の時というのは恐らく梓がこの部屋で寝てしまった時の事だろう。あの時もこんな風に押し倒されていた。梓は今更ながらにそれを思い出し、染めきっている頬を更に染めあげた。そして、勢いよく顔を左右に振る。

「怖いんじゃなくて、恥ずかしいだけです! あと、痛いのが嫌ってだけで…。大丈夫ですから、どうぞ続けてください!」

「じゃぁ、噛んどくか? 恥ずかしいのはどうにもできないが、痛いのはこれで多少は緩和されるんじゃないか?」

 そう言って紅哉は自分の首筋を指す。そしてそのまま梓の首元に顔を埋めた。

「痛かったら噛めよ?」

 そう耳元で聞こえたと同時に、皮膚が裂ける音がした。

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