第11話:渇き

 時は数時間前に遡る。


 いつもの調子で梓を送り、監視用に猫の眷属を放ち、屋敷の自室に戻ってきた紅哉は、付けているコンタクトを外す事も無く、備え付けてあるベットに自分の身を投げて苦しそうに息を吐いた。

「…喉が渇いた」

 そう一言漏らす。仰向けになり、自分の髪をわしゃわしゃと掻き回した。

 体がだるい。頭が重い。手足がしびれる。全身を駆け巡る貧血に酷似した、しかし、それの何十倍も酷い症状が吸血衝動に変わり、紅哉は小さくうめき声をあげた。

(血が飲みたい…)


 発端は紅哉が自分の力を過信していた事からだった。そもそも“吸血鬼”というのだから、血を飲むことが通常で、飲まないことが異常な事なのだ。まずその認識から紅哉は間違っていた。自分は飲まなくてもいい。飲まなくてもやっていける。と、そう思っていた。確かに紅哉は、何年も、何十年も、血を飲まずにやり過ごしていた。しかしそれは“やりすごしていた”のであって“飲まなくてもやれていた”ではなかったのだ。大量の獣たちに襲われた時に確かに感じた“渇き”を気の迷いにしてしまったのもその辺が大きかった。

 確かに、百目鬼紅哉の力は強い。血を飲まなくても自身が自然に回復していく血の量で大概の事は今まで出来ていたのだろう。しかし、それは単なる日常生活を過ごし、Fと呼ばれるかつての同胞の首と胴体を切り離す作業をする事が出来る程度なのだ。血の質は魔力の質だ。血の量は魔力の量だ。どんなに質が良くても、量が多くても、補充もせずに使いすぎればいつか枯渇する。それが今の状況だ。つまり単純に言うと。


 力を使いすぎていた。

 

 必要量に対して供給量が足りてないのだ。一か月前に梓から血を貰っているにもかかわらず、足りない。それだけ今まで体に無理をさせてきたという事。言うなれば、借金みたいなものだった。毎日、毎月、毎年、少しずつ借金をする。そして、それを今支払わされそうになっているのだろう。


 紅哉は寝返りを打ちながらそう考えた。ガンガンと頭を叩くような頭痛に。少し込み上げてきた吐き気が思考を邪魔する。思い通りにならない体が情けない。

 気分を切り替えるように頭のチャンネルを先ほど放ってきた猫と同調させる。カチリと音がして瞼の裏の視界が入れ替わった。右目と右耳だけ猫の視界と聴覚に切り替える。途端に学校特有の騒がしい喧騒が頭に流れ込んできて、慌てて聴覚を遮断した。

(頭が痛いのにこれはしんどいな)

 そして、視界が普通に授業を受ける梓を捕らえた。授業中に何かが起きるとは考えづらいのでとりあえずはこのままで大丈夫だろう。そう思った矢先に視界に映った者を見て、紅哉は思わず舌打ちをした。

 月玄だ。聴覚は切っているので何を言ってるのか聞こえないが、恐らくいつもの『教科書忘れちゃったから見せてー』だろう。梓もいつもの事のように嫌々ながらも机をくっつけて教科書を真ん中で開く。

(アイツは…また)

 沸々と怒りが込み上げてくる。月玄にでもあったが、梓にもその矛先は向けられていた。

(何度注意させれば気が済むんだ! 気を付けろと言っているのに。ほっとけばいいものを…)

 そして、月玄と目が合う。その口元は勝ち誇ったような笑みをしていた。それは明らかに紅哉に向けられたものだ。

(ぶん殴りたい…っ)


==========


 そして、時間軸は現在に戻る。


「何か言い残したいことはあるか?」

「何もないです。はい」

「俺が何を言いたいかわかってるな?」

「承知してます。すみません」

 梓は自室の床で正座。紅哉はその前で仁王立ちで梓を見下ろしていた。誰もが凍りつくような氷の表情で。もう小一時間、梓はその状態で説教を食らっていた。説教の内容はいつもと同じなのだが、今日はいかんせん、怒り方が段違いだった。

「で、言質を取られたお前は、明日どうする気だ?」

 明日というのは、月玄と約束したお昼の話だろう。梓はうーんと首を捻る。

「気を付けながら昼食を食べます!」

ちっ

 舌打ちをされた。どうやら間違えてしまったらしい。先ほどの回答に気分をさらに害した紅哉がさらに声を低くした。

「一緒に昼食は食べるわけか」

「一応、約束は約束なので…」

「そうか」

 その『そうか』は同意の意味ではなく、明らかに脅しだった。たぶん『そうか』の後に『これ以上怒らせる気か』みたいな言葉が入るのだろう。怖い。今だけで言うなら月玄よりも怖い。

(紅哉さんってこんな人だったっけ?)

 半分泣きべそをかきながらそう思う。最初は冷静沈着って言葉がぴったりの印象だったはずだ。あまりしゃべらないし、感情も読み取りにくい。しかし、最近の彼はどうだろう。言葉数も増えて、感情は前よりも明らかに読み取りやすくなった。前々から紅哉を知っている昴がそんな風に思ってる節は無いので、変わったのは紅哉の性格ではなくて、紅哉との関係性だろう。少しだけ踏み込める間柄になってきたという事だ。梓はその事がとても嬉しくて、そして、今だけはそんな関係になったことを後悔した。

「聞いているのか?」

「あ、はい」

「上の空とはいい度胸だな」

「紅哉さん、敵は私じゃないです! そんな仇敵を見るような目で睨まないで! 怖いから!」

「まだそんなことを言うだけの精神的余裕があったとはな。これはもう少し灸を据える必要性がありそうだ」

「怖い! 怖い! 怖い! やだやだ怖い! 落ち着きましょう!」

「お前はそもそも、危機感ってものが…」


 それからさらに説教は一時間以上続いた。


「俺も見てるし、陽太もいるからと言って、明日は安心しきるな。いいな?」

「はい」

「言質を盾にまた脅されかねないから、今回は承諾しただけだ。二度目は無い」

「はい」

「それが分かったならいい。明日からまた気を付けろよ」

「はい」


 正直半分泣きながら説教タイムをが終了した。学校に行くようになって本当にさんざんな目に遭ってる気がする。学校に行くと決まった時のあのワクワク、ウキウキとした気分はどこに行ってしまったのだろう。死ぬほど暇なのも耐え難いが、死ぬほど怖いのもそれ以上に耐え難い。わりとどっちでも地獄だなと思う。

 正座を長時間した梓の足は正直もう殆ど感覚が無かった。それを無理やり立たせて、扉から出て行こうとする紅哉に「明日もお願いします」と声をかけようとした時だ。ふらりと感覚のない足がよろめいた。

「――っ!」

 梓が倒れ込む前に、その体を紅哉が支えた。

「ごめんなさいっ。紅哉さん! え? わわっ!」

「っ!」

 しかし、紅哉はその梓の体を支えきれずに、一緒に倒れ込んでしまう。紅哉の上に梓が倒れ込む形になって梓がまず考えたことは


(え? 私太った?)


だった。

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