第8話:夜が明ける
「……」
「……」
どうしたらいいのかわからず無言で見つめ合って早数分。押し倒したままの体勢はどちらの精神衛生上にもよろしくないだろうと、俺は身を起こそうと体をよじった。
「――!」
その動きをどう取ったのか、梓は覚悟を決めたようにぎゅっと目をつむった。そして、首をさらけ出すために横を向いて、口を真一文字に結ぶ。恐怖の為か小刻みに体を震わしているのが見えて、どうしようもなく自分を殴りたくなった。こんなに怖がらせてどうする。
「…悪かった。冗談だ」
そう言って体を起こし、梓を元の体勢に座らせた。そして、自分は離れた遠くの革張りの肘掛椅子に座った。このぐらい離れていれば怖くないだろう。
「飲まなくて良いんですか?」
「大丈夫だ」
「体、大丈夫です?」
「いたって健康だ」
「じゃぁさっきのは?」
「…冗談だ」
本当のことを言うのもどうかと思い、そう言った。当然ながら怒るだろうと罵詈雑言を待っていた俺に届いたのは安心しきったような梓の声だった。
「よかったぁ。体調悪かった訳じゃなかったんですね。吸血鬼の皆さんは血がないと大変なんだって壱から聞いてたし、もしかして紅哉さんも血が足りなくて体調崩してるんじゃないかって心配していたんですよ。一応、力及ばずながら紅哉さんと契約しましたし、血を飲まれる覚悟はしてますので、いつでも言ってくださいね! あ、そもそも、飲めるようになったのかって聞くのが先でしたかね?」
重篤なお人よし患者だと思った。あんなに怖がっていたのに、その胸中では人の心配をしていたのかと頭が痛くなる。そもそも俺は嫌がる奴の血を無理やり飲むほど飢えてもいなかったし、そんな趣味も無い。
「考えておく」
そう一言言うと満足した様に彼女は頷いた。
実際その場面が来ることは恐らく無い。今までだって平気だったのだ。これからだって血が無くたって平気だろう。そう思うと、先ほどの状況が少しもったいなく感じて頭を振った。
「そう言えば、紅哉さんって今まで一回も血飲んだことなかったんですか?」
ふとそう聞かれて、どう答えたらいいのか迷った。正直に言うのは気が引けるし、嘘を並べるのは性に合わない。ゆっくり逡巡して、前者を選んだ。
「飲んだことはある。成人の儀の前にな」
「成人の儀?」
「あぁ、平たく言うと、最初の契約をする日だ。俺達は二十歳前後に吸血鬼として覚醒するって話は前にもしたな? それの一年か二年前、もう殆ど体が吸血鬼化してるって段階であらかじめ決められた相手と契約を結ぶんだ。お前も知ってる通りに契約するには二回の吸血が必要だ。二、三日前に一度、当日に一度吸血して契約を結ぶ。俺は当日をすっぽかしたが、最初の血は飲んだ」
「じゃぁ、その人は紅哉さんの恋人だったんですか?」
「レイナがか? 無理があるだろう」
あの気の強い“お嬢様”って言葉がぴったりの女を思い出して、少し吹き出しそうになる。アレは隣にいるととてつもなく疲れる類の女だ。
「でも、契約者は男女の仲になるとか何とか…」
「あぁ、その事か。最初の契約は、まぁ、良い奴が見つかるまでの間の契約者ってやつだ。そのまま結婚する奴もいるが、そうでない奴もいるし、様々だ。ちなみに、契約はしばらく血を飲まないと消えてなくなるからな。簡単だ」
「そう、なんですね…」
どこか安心したような、落胆したような声が梓から出て、俺は首を捻った。
「どうかしたのか?」
「いえ、わかんないんです。なんだか、ちょっと、おかしくて…」
「お前の方が調子が悪いんじゃないのか?」
そう言って近くまで行き、おでこに手を当てる。少し熱い気もしたが、多分平熱だ。
「今は大丈夫そうだが、気分が悪いならいい加減部屋に戻れ」
「いやです!」
「あんな目に遭っておいてぬけぬけと…」
「え? 私なんかひどい目に遭いました?」
思わず舌打ちをした。この件に関して言えば俺は悪くないと思う。梓はその舌打ちにびくっと体をひきつらせて、身を縮まらせる。
「明日不安なんです! 今日だけですから、お願いします!」
「……だから何で俺なんだ?」
言外に、壱を叩き起こせばいいと言ったつもりだったのに…
「じゃぁ、昴さんのところに行ってきます。起きてるかもしれないので」
と、訳の分からないことを言ったので、止めた。自分でもびっくりするぐらいの速さで立ち上がりそうな梓をその場に座らせた。
「……」
「……」
「…交換条件だ。お前のことを話せ。話している間だけここに居ても良い」
「はい!」
良い返事だった。
しばらく、学校でどういう先生がいたとか、どういう友達がいたとか、楽しそうに梓は話し出した。
それは俺とは違う普通で愉快な学校生活で、羨ましくもあり、疑似体験できているようで楽しくもあった。同時にそれは俺達が奪ってしまった日常だと思い出して、申し訳ない気持ちも湧いてくる。
話の中の梓は、今の彼女と同じように強くて、元気で、少しおかしくて。半年ごとに届いてた調査報告書とは違った印象を受けた。あぁ聞けて良かったな。と素直な感想が湧く。
思わず口から出た案だったが、良いことを提案した気がする。俺はどこか夢中になってそれを聞いていた。
「…で、その…先生が………で、それで……あの…」
「梓?」
梓の方を見ると彼女は舟を漕いでいた。一定のリズムでこっくりこっくりと体が揺れる。
「…どうするか」
彼女の部屋に連れて行ってもよかったが、寝れないと言っていたのだ。せっかく連れて行って、起きたらかわいそうだとベットの方から毛布を持ってきてその体にかけてやる。
「本当に今日だけだからな」
そう言っても答えるわけがないとわかってはいたが、そう言わずにはいれなかった。
==========
「紅哉さん! 失礼します! 梓が居ないんですが知りませんか!?」
早朝、そう言って飛び込んできたのは、血相を変えた壱だった。俺はもうすでに起床していて、着替えもすましていたが、梓はまだソファーでぐっすり寝ていた。
あ、まずい。咄嗟に思った。そしてその予感は見事に的中する。
「こ、こ、こ、紅哉さん!! 梓に何をしたんですか!? 何でここに梓が居るんですか!? まさか何もしてないでしょうね!」
「……何もしてない」
全く何もしてないとは言えないが、心配することは何もしていない。
「即答してくださいよ! 何で溜めるんですか! あなたの事は多少信用していたのに! これだから男は! これだから男は!」
どうやら俺は壱の男嫌いに触れてしまったようだった。壱は大慌てて梓を起こし、逃げるようにその場を後にする。勢いよくしまった扉を見て、今日の朝食は一人で取ろうかなと憂鬱な気持ちで思った。
案の定、梓から壱、壱から昴に、昨夜の話は伝達され、朝食で俺は昴に盛大にからかわれる事となった。
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