第6話:自分の世界
幼い頃、母親が世界の全てだった。
物心ついた時には、俺の赤い瞳に畏怖や侮蔑を向ける奴か、利用しようとする奴の二種類しか周りにいなかった。たまに好奇の目を向けてくる奴もいたが、そいつらは総じて時間が経てば自分に負の感情をぶつけてくるようになる。周りからの刷り込みか、親からの脅かしか。
嬉々として話しかけてきた奴らが周りからいなくなっていくことに、寂しさを感じなくなっていったのはいつからだっただろう。思い返せば、五歳の時にはすでに周りから人は消えていくものだと理解していたし、自分が他の人からどう見られているのかもなんとなくだが理解できていた。
赤い目の化け物
それが周りからの自分の評価だった。
何をしたわけでもない。ただ生まれてきて、たまたま瞳が赤かっただけ。運命を呪うほど未来に絶望はしていなかったが、幸せな未来を願うほど期待もしていなかった。それが幼少期。
そんな中、母だけは愛情を示してくれた。ごく当たり前の母親の愛情。時には叱り、褒め、泣き、共に喜んでくれた。
丹に宛がわれた森の中の木造のログハウス。そこで母親と過ごす何気ない日常。それが世界の全てだった。
母は元々体が弱い人で、吸血鬼としても強い人ではなかった。度々体を壊してはその度に俺は看病にいそしんでいた。
父親である丹は月に一度顔を見せに来たが、特に会話というものをしたことが無かった。「元気か?」「喧嘩はするなよ」などといった言葉に頷いた記憶はある。父親という認識はあったが、当主という認識の方が遥かに高く、馴れ馴れしくすのがはばかられたからだ。
学校に行き始めても俺の世界は広がらなかった。寧ろ狭くなったように感じた。
同じクラスになった奴らで自分から話しかけてくる奴は皆無で、たまに必要に迫られてこっちが話しかけに行っても、恐怖に駆られた奴とはまともな会話にならなかった。
気の強いクラスメイトが嫌がらせをしてくることもあったが、腹が立ってやり返すと次の日からは躾けられた犬のようにおとなしくなるのが常だった。
(もっとやってくればいいのに)
それが正直な感想だった。無視されるより、居ない者と扱われるより、嫌がらせされる方がずっと良かったからだ。
そんな世界に変化があったのは十歳を過ぎた秋。
自分の前に兄と名乗る二歳年上の少年がやってきて、果たし状を突き付けてきたのだ。
話を聞いてみると彼は腹違いの兄弟で、複数いる兄弟の中で自分が最強だと示すために決闘を申込みに来たらしい。ちなみに自分は三人目で先に果たし状を受け取った二人はボコボコにしたと本人は言っていた。
俺はとにかくびっくりした。自分に兄弟がいるなんてそこで初めて知ったし、そしてその兄弟が、自分の瞳を怖がるどころか決闘を申し込んできたのだから。勿論、売られた喧嘩はきちんと買って、勝利を収めた。
そいつは
初めての友達で、兄弟だった。
それから俺の世界は母親と知輝の二人で構成されるようになる。
知輝は事ある毎にログハウスに来て決闘を申し込む。何でそんなに必死なのかと問うてみれば、父親である現当主の後を継いで当主になりたいのだと、彼は目を輝かせて言った。それが彼の母親の願いなのだと。
一通り殴り合って、笑い合って、遊ぶ。それが知輝との日常だった。
楽しかった。とにかく楽しかった。人との関わりがこんなに楽しいものだと初めて知った。
そしてそのまま、あっとゆう間に一年が過ぎ、知輝とはさらに仲良くなった。一年のほとんどの時間を彼と一緒に過ごしたような気さえした。そして、もう一年。
二人とも少し背が伸びて、思考も年相応に落ち着いてきて、もう大声を張り上げて笑う訳ではなくなったけれど、それでも仲はとてもよかった。
知輝も、決闘、決闘とは言わなくなっていた。そして、当主になりたいとは相も変わらずずっと口にしていたが、どこか上の空で言うようになっていた。
彼の母親がヒステリックを起こして、狂ったように家に文句を言い始めたのもこの頃からだった。家で勉強をしていると『彼を取った!』『息子を取った!』そんな台詞が玄関から聞こえてくることが多くなった。
最初の頃は助けに向かった事もあったのだが、『これは女同士の事なのよ』と母親に諌められてからは、なんだか行くのが躊躇われて、ただ二階で知輝の母親のトチ狂った声を聞くことに徹した。
そして、知輝の母親がエスカレートしていくのに反比例して知輝が家に来る回数が減っていった。
知輝の母親のヒステリック攻撃が始まって半年を過ぎるころには、もう知輝が家に来ることは無くなった。
静かだった。知輝が来る前に戻っただけなのに、その静けさに酷く苛立った。
学校で少し荒れた時期があったが、まさしくこの時期だ。
知輝は十五歳、自分は十三歳になったばかりだった。
そして運命の日は訪れる。
その日、俺たち兄弟とその母親は急に当主の家に呼び出された。そこで俺は兄弟たちと初めて顔を合わせる。全員で五人。男が四人で女が一人だった。勿論そこには大人しく座る知輝の姿もあった。数ヶ月ぶりに見る彼は、どこか少し大人びていて、愁いを持っているように見えた。
名目は親睦会だった。一緒に食事をして泊まる。ただそれだけだった。愛人どうしを鉢合わせて何を考えているのかと思ったが、知輝の母親が丹に会えて嬉しそうにしていたから、これでヒステリックが少しでも収まるのならいいか、と納得した。
その日の夜。俺は知輝に呼び出された。
当主の屋敷の庭で、知輝はぼーと月を眺めていた。月が綺麗な夜だった。
俺は少し浮足立った気分で知輝の名を呼び駆け寄った。そして知輝のその手にあるものを見て、息を飲んだ。その時の知輝の顔と声は今でも鮮明に思い出せる。
「久々に決闘をしよう。紅哉」
暗い瞳の知輝は今にも泣きそうな表情だった。右手に持つのは銀色に光るナイフ。柄尻まで銀で出来ているだろうそれは相当純度が高いのだろう、ナイフを持っている知輝の手まで、音を立てて少しずつ溶かしていた。溶ける肉の匂いと共に知輝がゆっくりと近づいてくる。正真正銘、本物の殺意というのをはじめて身に受けて俺は動けなかった。
状況が呑み込めない。そこからは全てスローモーションに見えた。
走り出し、ナイフを構える知輝。何もできずに見守る自分。その間に滑り込んだ影が誰の者なのかは一瞬理解できなかった。
俺を庇って母が刺された。
簡潔に言うとそういう事だ。母は心臓を一突きされていた。銀のナイフの周りの母の肉が刺された瞬間に沸騰してはじけ飛ぶ。母が倒れると目の前に返り血で真っ赤に染まった知輝が立っていた。その手は未だにナイフを握り締めていて、カタカタと震えていた。
震える歯でしきりに「お前がいけないんだ。お前がいけないんだ。お前がいけないんだ」と呟いているのをどこか遠くに聞いた。
それからはあまり覚えていない。
母から溢れた血だまりの中で知輝は寝そべっていた。心臓があった場所には大きな穴が開いていて、自分の右手は真っ赤に染まっていた。その事実を飲み込んで、やっと自分がしでかした事の大きさに気が付いて狼狽えた。これでもかという声で叫んだ。
「お前が赤い目を持って生まれたから、紅哉という名前になったから、だから俺は母さんに愛されない…。全部お前がいけないんだ。化け物め」
知輝の最期の言葉はまるで呪いのようだった。たどたどしく、それでもはっきりと。友人で兄であった彼は最期に自分を化け物だと言った。
泣いたと思う。己に流れる血の色が透明でないのなら、目から溢れたそれは涙だったのだろう。
初めて生を恨んだ。目を抉り出せば最初からやり直せるならそうしたかった。けれど、現実はどうにもならないほどに残酷で…
母が死んだ。
知輝を殺した。
自分の世界が崩れていく音を、その時俺は確かに聞いた。
==========
ふっと意識が浮かび上がる。見上げる天井を見て少し混乱した。ここはどこだ?と。
革張りの椅子から体を起こして周りを確かめた。そしてやっと頭が状況についてくる。
「一体何年前の夢を見てるんだ…」
そう一人ごちる。溜息が自然に漏れて蹲りたい気分になった。情けない。
部屋の真ん中にあるローテーブルに置かれている夕食がふと目についた。梓が数時間前に置いていったそれはもう完全に冷たくなっている。
目の前のソファーに座り、サンドイッチをつまんだ。軽食のようなそれはきっと食べやすいようにと梓が用意した物なのだろう。こういう気遣いが出来る女は良いなとふと考えて、慌てて頭をガシガシと掻いた。
「女ってなんだ…」
四歳の頃から知ってる彼女を、女性として意識するはずなんてないと自分に言い聞かせる。最近変な噂が流れていたから自分もそれに感化されてしまったのだろうか?そう考えて、泣きたい気分になった。
多分、最近自分は浮かれている。
彼女はいつも驚くことばかりする。いつもそばにいて機嫌が良さそうに笑いかけてくるし、平気で触れてくる。怖くないと怒ったように言い、忌々しいこの瞳の色をルビーのようだと表現した。
幼い頃から変わっていないその感性を注意するべきだろうに、俺はまだそれが出来ないでいた。昴だって壱だって、陽太だって、最初はこの目を見て怯んだのだ。でも彼女にはそれが無い。
もし、今後彼女が自分の瞳を見て恐怖に顔を歪めることがあったら、俺はきっと立ち直れない。
誰に怯えられても良い。ただ彼女に怯えられるのは我慢できなかった。
たった三人なのだ。今まで自分が出会った中でたった三人。最初からこの赤い瞳を怖がらなかった人。
そのうち二人は死んでしまってもういない。
さっきの夢は調子に乗るなと言われている気がした。誰かにではなく、自分自身に。
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