第34話:契約
「え? あの人丹さんの弟さんなんですか? お兄さんじゃんくて?」
「驚くのはそっちなのか?」
げんなりとした顔で紅哉は梓を見つめる。先程までのやり取りの一部始終をどうやら紅哉は見ていたらしい。
会話がどこまで聞こえていたかは謎だが、慌てたようにやってきた事を考えると、男が大声を張り上げたのは聞こえていたのだろう。梓の精神もだいぶ削られたが、紅哉も同じぐらい疲弊しているように見えた。
二人がいるのは紅哉と再会した日に連れて行かれた森の中のログハウスだった。改めて来てみると梓が居る屋敷と意外に近い。
リビングに向かい合う二人はゆっくりとコーヒーを口に運んでいた。
「確かに兄弟だってことも驚きですけど、個人的には見た目五十代前後の叔父さんが、見た目三十代の丹さんの弟だって事の方が驚きです。落ち着いてる丹さんと性格も全然似ていませんし…」
「父親は同じらしいが叔父さんの母親は人間の女性だそうだ。兄弟でも力の優劣で寿命が違うからな。
性格に関して言えば、叔父さんは本来あんな人じゃない。あれは演技だろう。兄弟揃ってとてつもない狸だ」
「そ、そうなんですね。でもなんであんな酔いどれみたいな演技を?」
最後の方の紅哉の声のどす黒さに思わず身が縮んだ。恐らく紅哉にとってふたりは天敵みたいなものなのだろう。
「酔っていたのは本当だろうがな。まぁ、あれは恐らく兄である当主の名誉を守るためと、あともう一つは…気にするな」
そこで大きく紅哉はため息を吐く。なんだかとても嫌なことを思い出させてしまったみたいだ。
その紅哉の落ち込んだ雰囲気を振り切るように梓は努めて明るい声を出す。
「それにしても、見た目が当てにならない種族ですね!
あ、もしかして紅哉さんの年齢も、実は見た目よりすごく上だったりするんですか?」
「…気になるか?」
少しの間をおいて紅哉がそう聞く。いつもと変わらない表情に見えるが、声色が少しからかっているように聞こえた。
梓は少し身を乗り出すように前かがみになる。
「気になります!」
「じゃぁ、秘密にしておくことにする」
「ひどい! 教えてくれてもいいじゃないですか!」
「お前よりは年上だ」
「それはそうでしょうよ!」
見た目十七歳、実年齢十七際の梓より、紅哉は外見的に歳上なのだからそれは当たり前だ。唸るように梓がそう訴えても、どこ吹く風と言わんばかりに彼は珈琲を飲む。
それから梓が何度も答えを聞いてものらりくらりと躱すばかりなので、これは相当上なのだろうと勝手に結論づけて、本人から聞き出すことは諦めることにした。少し怒ったように頬を膨らましてみせるが、彼には全く効果を発揮しない。
「ところでお前は契約する気はあるのか?」
梓が口を尖らせたままコーヒーの二杯目に口をつけようとした時に、紅哉が改まったようにそう聞いてきた。
「契約…」
「するのか? しないのか?」
「…したいです」
今の生活にすごく文句があるというわけではないが、四六時中誰かが張り付いているのはそれなりに疲れるものがある。それから脱却できるのであれば是非ともしたいというのが梓の本音だった。
「手」
「て?」
「手を出せ」
「あ、はい」
訳も分からず差し出された手に、梓は自分の右手を乗せる。
紅哉はその手を取り、そして梓の親指を噛んだ。プチッと皮膚が裂ける音がする。
「痛っ!」
「…終わったぞ」
痛みに手を引く。梓は慌てて手のひらを確かめるが、先ほど確かに出来た傷はもうなくなっていた。
「今の…」
「これで契約成立だ。吸血鬼同士ならお前が俺の血を飲む過程もあるんだが、それはいいだろう」
「ありがとうございます」
紅哉は一滴舐めただけだが、あれも立派に吸血行為に入るらしい。梓は正直拍子抜けした。
首に噛み付かれ音を立てて啜られるのを想像していた自分が、なんだかとっても馬鹿らしい。
「人間が相手だと契約というより、眷属を作っただけの行為なんだがな」
「え? 私、紅哉さんの眷属なんですか?」
「正しくはな。吸血鬼に本来契約というシステムは存在しない。相互に眷属にしあう事を契約と呼んでいるだけだ。相手が眷属を作れない人間などが相手の場合はこうなる」
「なんだか一方的過ぎて、ずるいですね」
「しょうがないだろう。別にお前を眷属として扱うつもりは無いから安心しろ」
「そんなことは特に心配してません」
「それは心配しろ」
呆れたようにそう言われる。『安心しろ』と言った次の瞬間に『心配しろ』なんて、一体どうすればいいんだ! と、文句が喉まで出かけたが、自分を思ってくれた言葉だとわかっているので、梓はそれを飲み込んだ。
「紅哉さんも手貸してください」
文句の代わりにそう言って、梓は承諾もなしに紅哉の手を取る。そしてそのまま紅哉が梓にしたように、今度は梓が紅哉の親指を思いっきり噛んだ。
「おい」
「私血だけなら吸血鬼の物らしいので、多少はどうにかなるんじゃないかと」
一旦紅哉の親指から口を離し、顔を上げてそう言うと戸惑ったような紅哉の顔が見える。それに構うこと無く梓はもう一度紅哉の親指を口にくわえて噛んだ。しかし、犬歯の作りが根本的に違うようで、親指をぐにぐに潰すだけで、穴はいっこうに空く気配がない。
「おいっ!」
「?」
先程よりも強くそう言われて、梓はくわえたまま首をかしげる。
その瞬間に親指が抜かれた。梓が、あっ!と声を出すと、眉間の皺がいつもより深い紅哉と目が合った。ほんのり彼の耳が赤い気がするのは気のせいだろうか。
「こういうはしたない真似はするな」
「はしたない?」
「子供か。……子供か…」
前半は突っ込まれるように、後半はどこか諦めたように言われて、梓はますます首を傾けた。
紅哉は自分の人差し指をおもむろに噛む。そしてその指を梓の口の中に突っ込んだ。じんわりと鉄が錆びたような血の味が口の中に広がる。
「唾液が入れば良いだけの話だからこれで良い」
そう言って紅哉はすぐに指を抜く。梓は突然の事にポカンとしていたが、次の瞬間には笑顔に戻っていた。そして
「じゃぁ、これから24時間置いて、1週間以内にまたですね!」
「………。あぁ」
紅哉は突然の決定事項に少し固まって、諦めたように承諾。
梓はそんな紅哉にどこか満足そうに微笑んだ。
「これからどうぞよろしくお願いします」
今日一番の笑顔で梓はそう言った。
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