第30話:吸血
梓の手首から溢れた血は少量だった。手首から伝い、地面にいくつかシミを作る程度。それを仰向けになった紅哉の口の中にボタボタと落とす。
「紅哉さん?」
うっすらと瞳が空いた紅哉を覗き見る。その瞳はゆっくりと梓を見ていた。
「足りないかな? 待ってて、今っ!」
「いい」
もう一度ナイフをもって自らの手首を裂こうとする梓の腕を紅哉は止める。そしてそのまま、血が流れてる梓の手首を自分の口許へ持っていった。
「いっ…!」
走ったのは皮膚を切り裂く傷み。ナイフで割いたときは痛いと言うよりは熱かったが、今度は明確に痛かった。それもそのはず、紅哉が噛みついたのだ。人間のそれよりも鋭い犬歯が手首に深々と突き刺さっている。
紅哉の喉がごくりと音を立てた。その音で、自分の血が紅哉に飲まれていることを知る。
「アカオニっ! 梓から離れろ! それは僕のだ!」
今まで聞いた事のない月玄の鋭い声が耳朶を打つ。
月玄の方を見ると、彼の傍にあったありとあらゆるものが浮いて今すぐにでも攻撃せんと待ち構えていた。
その形相は鬼かと見まがうばかり。
そんな彼の様子を気に留めるでもなく、紅哉はまた一つ喉を鳴らす。
「―――っ!」
動物で例えるなら、全身の毛が逆立っているような状態。月玄は大きく目を見開いて、全身で怒りを表した。
その時、月玄の方から一筋の光が梓の頬をかすめた。目に留まらない速さで飛んできたのはあの銀のナイフ。
頬の切り傷からじんわりと血がにじむ。
「梓。離れないとアカオニと一緒に攻撃しちゃうよ? それでもいいの?」
「やれるものならやってみなさいよ!」
「―――っ!」
今度は右肩を銀のナイフが掠める。服と皮膚を裂き、肩から血が流れ、肘の方まで伝った。
身を引き裂く痛みに唇をかみしめながら、梓は月玄に背を向けたまま紅哉を抱え込む。こうしていれば紅哉が殺されることは無いはず、そう踏んでの事だった。それが月玄の癇に障る。
「梓。君は僕の運命で、僕は君の運命だって、そう何度も言ったよね? 僕たちの間に彼は入って欲しくない。今すぐ離れて。君の血は僕の物だ」
「運命とかわけのわからないこと言ってないで現実見なさいよ! 私の血は私の物よ!」
「離れて、梓」
「いやっ!」
今度は左肩にナイフが突き刺さる。
「―――っ!」
「痛いでしょ? 梓の為に毒は拭っておいたけど、それでも痛いよね? そうまでして彼を守る価値なんてないよ。君を連れ戻しに来たって言っても、所詮モルモットとしてだ。実験を進める便利な道具としてしか見ていない。君を一個人として見てないんだよ、彼らは」
「…それなら、あなただって一緒じゃない! 私の血の事しか考えてない! どっちに居たってモルモットとしてしか見られないなら、私は居心地がいい方を選ぶわ!」
「僕は違うって言ってるのに…」
月玄は悲しそうにそう言って、またナイフを飛ばしてきた。梓は痛みを耐える様にぎゅっと身を固くして、紅哉に抱きつく。
しかし、そのナイフが梓に刺さる事は無かった。寸でのところで止まって空中に浮くそれを梓は恐る恐る見る。
瞬間、月玄の体が宙を舞った。木に叩きつけられ、そのまま空中に放られたかと思うと、何か重しが付いているのではないかと思うような速さで地面に激突した。そしてそのまま動かなくなる。
「え?」
「悪かった」
耳元で紅哉の声がした。
ゆっくりと視線を戻すと、血の気の戻った彼の顔がそこにあった。腹部にあった月玄に空けられた穴も、もう完全に塞がっている。いつもと変わらない彼の姿。しかし、瞳の色だけがとても鮮やかな赤に塗り替えられていた。焔のようにゆらゆらと揺れるそれは、宝石に閉じ込められた夕焼けのよう。
彼の指が手首の傷を撫でる。
「痛かったな」
数回撫でるとその傷はあっとゆうまに塞がって、元のなんの傷の無い状態に戻ってしまう。
「なにこれ…」
「今お前は、俺の眷属と言う扱いだからな…このぐらいはできる」
そう言ってゆっくりと立ち上がると、彼女の両肩の傷を見て顔をしかめた。
膝を折り、右肩の傷に触れる。こちらも数回触れただけで治った。痛みも同時に消えていく。
「俺を守ってついたのか?」
「え? なにが?」
「この傷だ」
「これは、紅哉さんは悪くないですよ! 私が勝手にでしゃばっただけと言うか…。月玄を怒らせるような事ばっかり言うから向こうも怒ったからってのが、正しくて」
「悪かった。今度改めて詫びはする」
そう言って、紅哉はいきなり左肩のナイフを抜く。
「いっ――!」
抜いた先から血が溢れた。とめどなく溢れる赤は梓の服を染める。
そして、その傷口に紅哉は口を這わせた。
「は? や、あの、紅哉さん!?」
「なんだ?」
紅哉が顔を上げた時にはもう梓の左肩の傷は塞がっていた。わずか数秒程度の出来事。しかし、梓の頬を染めるのには十分すぎる時間だった。
「い、い、い、いま、口でっ!?」
「もったいないだろう?」
さも当然のように言われて、そうだこの人は吸血鬼だったんだと実感する。彼らにとって血は飲み物であり、食べ物なのだ。そりゃ垂れ流していたらもったいない。というか…
「紅哉さん! 血! 飲めるんですか? 私が無理やり飲ませてしまってから言うのもなんですけど!」
「荒療治だ。なんとかなった」
「そりゃ生死かかってましたもんね」
生死がかかっていたこの場面で、飲めないのなんだと体も言えなくなったのだろう。
吸血鬼にとって血を飲むことは人間にとっての食事と同義なのだ。飲まなかった今までが体にとって異常だったのだ。
「このまま飲める様になると良いですね!」
「お前の血をか?」
そう返され言葉に詰まる。嫌なのかと聞かれれば、先ほどの行為に嫌悪感は感じなかったが、どうぞどうぞと血を差し出すのもなんだか違う気がした。なにより、想像するだけで恥ずかしい。昴と壱の行為を見たことあるが、あの平然とした態度は吸血鬼だからだと思う。
「それは…」
「冗談だ」
梓の百面相を見て笑ったのだろう。紅哉は咳払いをするような恰好で口元を隠し、そっぽを向いた。
「笑いましたね!」
「笑ってない」
元の仏頂面に戻るとそう言った。この人は思ったより表情豊かなのかもしれないと梓は思う。
そんなひと時訪れた和気あいあいとした雰囲気に水を差す様に、二人の背後で月玄はゆっくり立ち上がった。
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