第8話:男の名は

ずるずると引きずられるようにして梓がたどり着いたのは一軒のログハウスだった。森の中の少し開けた場所にポツンとその家は建っている。

「入れ」

鍵を開けて、男は梓をその家に放り込む。自分も入り、鍵を閉め、そして梓を玄関に放置したまま男はリビングに消えて行った。梓はその様を呆けたように眺める。いまいち状況が呑み込めない。

てっきり屋敷に帰されるのだと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。

しばらくして帰ってきた男が持ってきたのはバスタオルだった。梓はそれを頭の上からかぶせられ、わしゃわしゃと髪の毛を拭かれる。その様はまるで濡れた大型犬とそれを拭く飼い主のようだった。

「な、なにするんですかっ!」

「その汚いままで入られると困る」

「へ?」

「血が滴っている」

確かに梓の髪の毛からは先ほどのゾンビ男から浴びせかけられた血が滴っていた。彼はそれを拭いていたのだ。

「あ、ごめんなさい」

「もう少しで終わるから大人しくしてろ」

そう言って彼は梓の頭を拭くのを続ける。梓は有無を言わせぬその言葉にただただ頷くしかなかった。

そして拭き終わった後、男は梓をひょいっと担ぎ上げる。

「え? ちょっと!今度はなんですかっ!?」

「…」

梓は手足を振り回して抵抗したが、男は何も答えず近くの扉を開けその中に入る。そして、梓をそこに降ろした。

「上がったらリビングに来い。逃げるなよ」

そう言って男は自分は出て扉を閉める。梓は遠ざかる足音に彼が離れたのを感じた。

「ここ…洗面所?」

1人になって改めて周りを見渡す。そこは確かに洗面所だった。洗面所と脱衣場、そしてその先にお風呂場がある。

洗濯機の上には新しいバスタオルと女物のワンピース。

「これは、シャワーを使えってことかな?」

バスタオルを手に取ると、その自分の手が汚れているのに気がついた。

はっとして、洗面台の鏡で自分を確認してみる。

「うわー。これはひどい」

森のなかで決めたトリプルアクセルで身体中に付いた土や泥。ゾンビ男から被った大量の血液。髪の毛にには木の小枝が絡まりついていた。一言で言うなら、汚い。二言で言うなら、本当に汚い。

最初再会したときに男がいぶかしげな表情をしていたのは、この状況を見てなのだとわかって、梓はなんだかとっても情けない気持ちになった。

「とにかく、シャワー浴びてこよ」

あの男の素性も名前も知らないが、梓は素直にその好意に甘える事にした。


==========


「お待たせしましたー…?」

お風呂から上がりました。と言うのも、先に頂きました。と言うのも変な気がして、『お待たせしました』と梓はお風呂場からリビングに入ってきたのだが、ふと考えるとそれもおかしい気がして、彼女は言いながら首を傾げる。

梓は用意してもらった白いワンピースに着替えて、開いた扉の前で固まっていた。これからどうしていいのかわからないのだろう。居心地悪そうにソワソワと辺りを見回している。

読んでいた本から顔を上げてその姿を見とめた赤い目の男は、梓を自分が座っている方のソファーに手招きした。そして梓を自分が座っている正面のソファーに座らせる。

「あの、シャワーありがとうございました。あと、着替えも」

そう梓が丁寧に頭を下げると、男は事も無げに机の上の珈琲を一口飲んだ。

「あぁ。怪我はしてなかったか?」

「はい。大丈夫です」

「そうか」

そこで、男は自分の読んでいた本をパタリと閉じて、梓に向き合った。

「斉藤梓。どうしてお前がここに居る? 確か壱が監視をしていたはずだが?」

「はい。えっと…あの…」

(きたー! やっぱりこの質問は聞かれるよねー!)

ここでの答え方によって今からの処遇が決まるような気がして、梓の背中に冷や汗が伝う。

しかし、青い蝶に父が査問会にかけられると教えてもらいました。とか、厨房の扉を開いたら森でした。とか、信じてもらえる気がしない。しかし、信じてもらえる気もしないが、適当な嘘も思いつかなかった。

「あの、信じてもらえないかもしれませんが…」

梓は起こったことを全部包み隠さず話すことにする。信じてもらえなかったら、それはその時考えることにした。


==========


「それは、青の奴らが仕掛けたことだな」

淡々と男にそう告げられる。梓もその答えはなんとなく予想していた。

先ほどシャワーに入っているうちに梓もだんだん冷静になってきて、あれはいわゆる青の奴らの企みだったのではと考えていたところだったのだ。

「恐らくあのFの奴にお前を捕らえてくるように暗示でもかけたのだろうな」

「あれが、F」

全ての事に合点がいったような気がする。それでも一つはっきりさせておきたい事があった。

「あの、父は査問会にかけられるんですか?」

「…それを知ってどうするんだ?」

男のその答えは肯定を意味していた。梓は机の上に身を乗り出す。

「父はどうなるんですかっ!?」

「それは俺たちが決めることじゃない。査問会を開く赤の当主とその取り巻きが決めることだ」

「じゃぁ、殺されたりとかも…?」

「ありえない話じゃないな」

「―――っ!」

その答えを聞いて、反射的に梓はとび出しそうになる。それを男の腕が止めた。

「行ってどうする? それにどこでやるのか知っているのか?」

「探しますっ!」

「大体、行かせると思っているのか? 先ほどみたいな目に遭ってもらったら俺達的にも困る。それに、お前もまたあんな目に会うと思ったら怖くないのか?」

「怖くないですっ!」

嘘だった。先ほどのゾンビのような男に襲われた時の事を考えると、今でも足がすくむ。しかし、父を失う事の方がもっともっと怖かった。

「たった一人の家族なんです!」

そう梓が叫んでも、男は掴んだ腕を離してはくれない。

「………」

「………」

しばらく黙ったままの睨み合いが続いた。どちらも譲る気配が無い。

「じゃぁ、貴方と一緒なら良いですか?」

「は?」

先に口を開いたのは梓だった。

「貴方達は私が1人でここから出ていって、青の人たちの手に私が落ちるのが怖いんでしょ? なら、案内してください! 貴方は査問会がどこで開かれるか知ってる。そうでしょ?」

「そんなことしなくても力づくでお前を止めるという手もある」

「何度だって逃げますよ。それをいちいち捕まえて回るより、今回一回案内する方が楽じゃないですか?」

実際の事を言うと、此処で捕まってしまったらもう二度と逃げ出せない事は分かっていた。警戒だって強まるだろうし、そもそも青の奴らが仕掛けてこなかったらこの脱走も本来ならあり得ない。それでも梓は強気に不敵な笑みを作ってみせた。

「査問会に行ってどうする? お前にはあの男の処遇をどうこうする権限はないぞ」

「じゃぁ、楽しみにしててください。良いものを見せてあげられると思います」

これもはったりだ。査問会に行ったら、なんとなくどうするのかは決まっているのだが、それが成功する確率は未知数だ。

男は黙って梓を見つめる。そして数秒後、諦めたように溜息をついた。

「準備をしろ。10分後には出発するぞ」

「―――っ! ありがとうっ!」

梓は男の手を握り、ぶんぶんと振り回す。そんな梓の態度に男は一瞬、豆鉄砲を食らったようになったが、すぐに元の仏頂面に戻ってしまった。

「よろしくお願いします! えっと…、あ、赤目さん?」

「…紅哉(こうや)だ。百目鬼 紅哉どうめき こうや

「紅哉さん! 待っててください。すぐ準備してきますね!」

嬉しそうに準備に走る梓の姿を、紅哉と名乗った男は何とも言えない表情で見つめていた。

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