第6話:逃走

梓が軟禁状態になって早一週間。ここの生活もだいぶ慣れてきたように思う。

最初はどんな生活が待っているのだろうかと思っていたが、基本的には壱を連れていれば屋敷の敷地内では何をしても怒られなかった。用意してほしいものを伝えるとすぐに手配され、次の日には届くという好待遇。

なので今では掃除、洗濯、食事の支度まで自分の事は自分でするようになっていた。

そんなことは使用人がやるからと何度か壱にも止められそうになったが、それらの事を譲ってしまうと、もうとにかく暇なのだ。暇で暇で仕方なくなるのだ。そう壱に告げると困ったように笑って許してくれるので、申し訳ないがとてもありがたい。

今日も今日とて梓はお菓子作りに励んでいた。

「手際が良いですね」

近くに立って眺めている壱がそう言う。焼き上がったクッキーを片手に梓が小首を傾げた。

「そうですか? お菓子は買うより作る方が安いのでよく作ってたんです。アイスボックスクッキーは一回でたくさん作って冷凍庫で保存してればいつでも食べれるので常備してました。クッキーは混ぜるだけですし誰でもできますよ。壱さんも作ってみますか?」

「いえ、私は…」

「あ…」

言葉を濁す壱に梓は先日の出来事を思い出す。

2日前、お菓子作り手伝うと言ってくれた彼女はパイ生地を空に飛ばし、リンゴを丸焦げにし、砂糖を煮詰めてべっこう飴にしたのだった。ちなみに、作ろうと思ったのはアップルパイである。

「今まで料理なんてしたことが無かったので、申し訳ないです」

「だ、大丈夫ですよ! 今度簡単なのから始めましょう」

「はい。その時は御指導よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします」

お互いに頭を下げ合う。この一週間で壱とも良好な関係が築けている気がする。しかし、

「ところで壱さん。次に父に会えるのはいつになりますか?」

「それは…」

この質問にだけはどうしても答えてくれなかった。

「私もいつになるかはわからないんです。一応、申請はしているのですが…」

歯切れが悪い。わからないのも申請してくれているのも本当なのだろうが、この事に関しては彼女はどうも梓に隠し事をしている気がしてならなかった。

「そうですか。一応、父の分も焼いたので渡してもらえますか? あと、手紙も」

そう言って包んだクッキーと手紙を渡す。お菓子を作った日には決まって父の分も作り渡してもらっていた。

返ってくるのは父のあまり上手ではない字で書いた手紙。決まって便箋1枚程度なのだが、近況と謝罪が書いてある。もう良いというのに何度も綴られる謝罪の文章に少しだけ愛を感じているのは秘密だ。

「はい。では、係りの者に渡してきますね。梓さんはここを動かないようにお願いします」

「よろしくお願いします」

厨房から出ていく壱を見送る。そしてはたと気づく。今1人だ、と。

壱に手紙とお菓子を頼むのは初めてじゃない。実際に届けてくれる人のところに持ってくのも壱がいつもしてくれる。しかしその時、いつも誰か代わりの使用人を自分に付けるはずなのに今日はそれが無かった。

「それぐらい信用されてきたってことかな?」

逃げないだろうと。

梓も逃げる気などなかった。ここで暮らした一週間、何度か壱とランニングをしたことがあるのだが、梓の全力疾走に呼吸も乱さずに笑顔で話しながらついてくる彼女はやはり人間ではないのだと確信した。

吸血鬼など未だに半信半疑なのだが、こうも見せつけられると信じざるをえなくなってくる。

そんな壱から逃げきれる自信もなかったし、逃げれないならせっかく築いた彼女との信頼関係をここで壊してしまいたくなかった。なので梓に逃げるという選択肢は今のところない。

「お父さん喜んでくれるかな」

クッキーを受け取る父を想う。今日は父が好きだったジンジャークッキーにしたのだ。きっと喜んでくれるだろう。

最初に昴に話を聞いた時のもやもやとした気分はもうない。責め立てるように『娘だと思っているのか』と問いただしたことも早く謝りたかった。でも、現状はそうもいかない。

クッキーを食べる時に一緒に飲もうと思っていた珈琲を、戻ってこない壱より一足先に淹れて飲む。

ほぉ。と息を吐いた先に、一匹の蝶を見つけた。青く揺らめくその羽に目の前が霞んだ。

鱗粉が目に入ったのだろうか。そう思い目を擦ると、ぼんやりと空中に何かが見えた気がした。何か声も聞こえる。あれは…


『…さん、かわいそうに』

『でも、自業自得じゃないの? どうせ殺されるなら娘にでも会わせてやればいいのにとは思うけれど、ずっと会いたいって言ってるんでしょ?』

『梓さんもお父さんに会いたがっていたのにね。このままじゃ会えないまま殺されるだけだわ』

『査問会が開かれたらもうおしまいね。梓さんのお父さんはこのまま殺されるでしょうね』


ここの世話をしてくれている使用人の人たちだった。3人集まって話している。その光景が見えたのだ。

「お父さんが殺される?」

査問会とやらにかけられて、このままだと殺されるかもしれないと話していたのだ。

(助けなきゃ! お父さんが!)

ほぼ反射的に動いていた。見えた光景が本物なのか疑う事もせず、梓は走り出していた。

青い蝶はひらひらと扉に吸い込まれるように消える。それを追うように、梓は扉を開けて飛び出していた。

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