Ⅰ.図書室のできごと 8:45 



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 八時四十五分のチャイムが鳴った。

 普段なら一時間目の授業が始まる時刻だ。今日は金曜日だから、たしか体育だったはずだ。壁一面にとられた大きな窓から外を見てみる。校庭には一人もいない。連日の記録的な猛暑と晴天続きのためか、周囲を取り囲む木々もどことなく乾ききって見える。窓を明ければ蝉やらなにやらの声も聞こえてくるだろう。あいにく、窓は開かない。その代わりに、冷房が肌寒いほどの冷気と鈍い音を送ってくれている。

 夏休みにもなって学校に出向いてくるというのは、我ながらかなり物好きなほうだろう。もっとも家にいても暑いだけだし、公共の図書館は込み合っている。どこかに遊びに出かける予定もない。一学期と終業式、そして半ば強制的に行われた「夏期講習」からの一連の流れのまま、いわば惰性で、ぼくはここのところひたすら学校に通い詰めているのだ。

 飲食禁止というところを除けば、椅子は教室より柔らかいし、騒ぐ奴もいないし、先生たちも図書室を事務的に開けてしまえば、あとは覗きにくることもない。発想を変えれば、適当に時間を過ごすには最適な場所だと言える。

 夏休みの終わりまで、まだひと月ある。懸案の文化祭まで三カ月。

 壁に貼られたカレンダーを目で追い、残る日数を改めて確認する。宿題と同様、こういった期日というのはあるように見えて、実際には短い。

 全体練習、道具の準備、それに使える日数や時間を考えると、どうやってもこの夏休み中には脚本を仕上げなければならない。少なくとも、全体像は見えるようになっていなければならないはずなのだ。困った。

 ぼくたちの高校では、文化祭は全員で演劇を行うことになっている。しかも、完全に脚本から組み立てて。創立からずっとそうだ、と言われれば従うしかないのが我々の責務であり、やるからには何か、面白いもののほうが良い。

誰もやらないようなことをやる。期末テストの返却日、その全体方針は固まったが、誰一人として具体的な案など持ってはいなかった。ものの勢いというものは恐ろしい。およそ不可能なことを言いだす奴、(いったいどうやって講堂の舞台で消失イリュージョンができるのだろうか)不可能ではないにせよ、自らの能力を顧みない奴、(いったいどうやって一時間の枠内で大河ドラマができるのだろうか)そもそも事態を把握していない奴。(アンドレ・ブルトンの理論に忠実に基づきながら、近代演劇の手法を逆手にとって上演される前衛的実験演劇。いったい何のことだというのだろう?)

 問題に直面した時に取る行動はたいてい決まっている。誰かに責任を押し付けてしまうのだ。これが世の常だ。冷たい。ぼくがついうっかり、時代劇ならできるかも、と、言ってしまったのがいけなかった。いや、いけなくもないか。後悔はしていないが反省はしている。

たしかに時代劇なら少なくとも前例はないし、ぼくたちの能力でも不可能というほどのものではない。全員がいっせいに飛びついたのも今となっては理解できる。ものの勢いというのは本当に恐ろしい。

 というわけで、ぼくはなんとしても時代劇的な何かを考え、仕上げなければならないのだ。

 これが、夏休みにも関わらず図書室登校を続けているもう一つの理由である。

「やれやれ困ったもんですなぁ」

「困ったものね?」

 自分でもわざとらしい独り言に唐突に声が重なり、思わず椅子から跳ね上がりそうになってしまった。

 振り返ると、並ぶ書架の間に人影が見えた。一見、鋭く見える視線と、曖昧な笑み。なつきさんだった。

「いつの間にいたんですか!?」

「けっこう前から。気付かなかったの? もしかして」

 口元に小さな笑みを浮かべたまま、首を傾げる。

「まさかこんな時間からいるとは思わなかったですよ」

「自分一人だけだと思っていたのかしら。まあ、気分は分るけれども」

 周囲を指先で小さくひとめぐりさせ、頷く。

「夏休みだものね?」

「一時間目ですしね」

 そうそう、と、なつきさんは頷いた。

「ねえ、実は私はあなたを待っていた、といったら信じる?」

「そうなんですか?」

 自分でも声がうわずるのが分った。情けないことに、さっそくペースに飲まれつつある。

「冗談よ」

 そう言いながらも、なつきさんは長机の周囲をぐるりと回り、ぼくの目の前に来た。

 椅子の背もたれに両手をかけ、覗きこむようにぼくに視線を向けてくる。

 整っている、というのはこういう顔の時に使う表現なのだろうか。

 どこか、冷ややかな、でも、どこか愛嬌のある顔立ち。

「あなた、昨日の今頃、何をしていたか覚えている?」

「ここにいましたよ。昨日も会ったじゃないですか」

 返答に詰まりそうになりながら、なんとか答えることに成功した。

 なつきさんは一度頷き、ぼくをまっすぐに見つめてきた。

 切れ長の目。細い唇。

 顔の造形だけを取り出せば、やっぱりどこか冷たいと言っても良いと思う。一年違いといいっても、年上の女性に可愛いという言葉を使うのはどうかと躊躇われるが、やっぱりどこかに可愛いらしさを感じる。それはきっとその表情のためだろう。

「じゃあ、去年の今頃あなたが何をしていたかはどうかしら」

 見つめられるまま、こちらも見つめ返しているうちに、なんだかおかしな気分になってきた。ぼくは自分がほとんど冷静さを失っているのが自覚できたけれど、なつきさんはまったく動じることもなく、淡々と、質問を続けてきた。

「なつきさんと、出会いましたよ。まさに、ここで」

 緊張すると喉が渇く、というのは、水が飲みたくなるということではなくて、喉の奥が張り付くような感覚なのだ。初めて知った。我ながら情けない。

「そう。そう」

 他愛もない問題と、その正解。確認するように頷くなつきさんも楽しそうだったのは、ぼくの錯覚ではないと信じたい。

なつきさんと僕が出会ったのはちょうど一年前の今日のことだった。

 出会った、ではなく、見かけた、と言う方が正しいかもしれない。その時は会話を交わすこともなく、ただ一瞬、目が合っただけだったのだ。お互いに名前を知ったのはそれからさらに後のことで……

 いや、ごまかすのはやめておこう。

 やっぱり、出会った、と確信を持って言い直そう。そのほうが誠実な気がする。

 というのも、ぼくは初めてなつきさんを目にした時、ほとんど直感的に惹きつけられていたのだ。

 そこに理由はない。

 何の部活にも属さず、学校のいかなる委員会やイベントと無縁だったぼくは、放課後の時間をたいてい図書室で過ごすことにしていた。

 遊び友達がいないわけではないけれど、毎日連れ立って帰るような友人も、特にいるわけでもなかった。男女を問わず。

家に帰っても結局はすることもない。アルバイトは学校で禁止されているし、予備校や塾に一年生の時から通うのも気が進まなかった。クラスメイトの誰かがどうやって時間を潰しているのか、当時も今も詳しくは知らないままだ。

進学校という環境のせいかもしれないけれど、ぼくのように図書館で放課後を過ごす生徒は決して少なくない。その意味では、たとえば、なつきさんも「図書館派」の一人ということになる。

 今でも鮮明に思い出すことができる。

 そのとき、なつきさんはちょうど書架の間に立ち、本を一冊、棚に戻しているところだった。楕円形のレンズのついた眼鏡を軽くひねるようにして外し、そのまま無造作に制服の胸元にひっかけたのだ。

 たった、ほんとうにたったそれだけの動作。時間にして数秒ほどの光景に、ぼくは目を奪われてしまった。

 なつきさんは一度、ぼくを見て微笑を浮かべると、そのまま歩き去ってしまった。

 ぼくはなつきさんの姿を追うのではなく、ただぼんやりと、午後の陽のさしこむ書架の間を見つめ続けていた。

 周りから見ても、きっととんでもなく間の抜けた顔をしていたと思う。けれど、誰からも何も言われなかったのは……おそらく幸いだ。

 それから約一年、図書館で見かけたり、おそらく、見かけられたりもしただろう。まとまった会話を交わしたことはほとんどなかった。ごく稀に、誰も周囲にいないときにだけ、読んでいる本や読み終わった本について、二言三言、感想を話す。長くても数分間。それだけの関係が続いていた。今日までは。

 だから、さっきなつきさんに声を掛けられたこと、回りに誰もいないこと、それがぼくにとって嬉しくないわけがなかった。

そんなことを考えていると、なつきさんは思いがけないことをさらに問いかけてきた。

「十年前。あなたが六歳の時ね。どうかしら、覚えてる?」

 十年前?

手元にアルバムでもあれば、あるいは、日記でもつけていればなんとか思いだせるかもしれなかった。しばらく考えたけれど、その頃の記憶などほとんど消えかかっている。

「だめです。ぜんぜん思い出せません。たしか家族で海に出かけたはずなんですけど、それが十年前なのか九年前なのか、七月だったかもわかりません」

「まあ、それはそうよね。アルバムでもあれば別でしょうけれどね?」

 びっくりした。

 なつきさんはあいかわらず小さく笑みを浮かべている。まるで、「驚いた?」とでも言っているように。

「多くの場合」

 つられるように、ぼくも窓の外を見る。校庭が風に煽られ、土埃が薄い膜のように舞っていた。まだ数分しかたっていないのに、日差しが強くなっているのがわかる。

「というよりも、ほとんど全ての場合」

 窓の外を見たまま、なつきさんは言葉を続けた。

「記憶なんて片端から消えてなくなって行くのよ。それは個人的な思いでだけではなくて、歴史もそう。まあ、考えてみたら歴史なんていうのも、結局は個人個人のいろいろな記憶の集合だものね?」

 何も言わずに頷くぼく。遠くを見たままのなつきさん。

「そういう意味では、私たちはあらゆる歴史を忘れ去った状態で生きている。たとえば……あそこ」

 窓の向こう、校庭の先。産業道路が走っている周囲を指さし、くるりと指先を回した。

「ずいぶんと車が走ってるけれど、百年前は海だったのよ。知ってるでしょう?」

 トラックが行き交い、その僅か先には工場やタンクが立ち並んでいるのが見える。日本のだいたいの海岸線がそうであるような埋立地。たしかに百年前は海だろう。

「たった百年でさえ、こんなに変わってしまうわけ。いま私たちがこうして向かい合っているこの学校の下にだって、歴史の古層が眠り続けてる。遺跡とか、そいういうのじゃなくて、いいかしら。それってね、忘れ去られたままの記憶そのものなのよ」

 わかるかしら、とでも言いたそうに、なつきさんがぼくに顔を向けて微笑んでくる。

 ぼくは何も言わなかった。いや、言えなかったというのが正しい。

「ねえ。もし、もしも……意図的に歴史を葬っていたとしたら、どうかしらね。それを探り当てることができると思う?」

 話がいったいどこに向かっているのか、まったく分らなかった。意味不明の動悸が高まってくる。

「まあ、難しく考えないで。ねえ、ここ、座っても良いわね?」

 机を挟んだ正面に、なつきさんが座る。

「あなた、悩み事を抱えてるでしょう」

 また、唐突に話が切り替わる。

 何か言葉を返さなくては。しかし、なつきさんの声が先に続いた。

「大丈夫。あなたの秘密を聞き出そうなんて思っているわけじゃないから」

 机の上に軽く手を組む。長い指。

「もし暇なら、少しだけ……もしかしたら長くなるかもしれないけれど、私のお話に付き合ってくれないかしら」

 ぼくは頷くことしかできない。

 何が始まるのか、まったく分らなかった。

ぼくの悩み事? ただの当て推量で言ったのだろうか。

なつきさんの表情からは何も読みとれない。

何も分らないまま、話が始まった。


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