おとぎ話はまた後で
高尾登
序章
歴史は、書かれたこと、書かれなかったこと、
ありえたこと、なかったことの間にまたがっている
宇野邦一「反歴史論」
関東南部 天慶二年十二月二十一日
月が森を淡く照らし出している。
身の半分を斬り落とされたような、くっきりとした半月だ。
あたりに歌声と楽の音、さざめくような笑いに、手拍子、そして、薪の弾ける軽い音が絶え間なく聞こえている。
管絃の音は、山の民とも蝦夷とも、時に「鬼」とも呼ばれる一団が奏でていた。
赤と黒を基調とした紋様。田植え唄や祝いの歌、神楽や挽歌、そのどれとも似たところのない遠方の楽。
円形に並べられたかがり火から火の粉が舞っている。
月と火とに照らされた、その中央には巫女の姿。
楽の音に合わせて、細い体が地を蹴り、回り、地に着く足がしなやかに伸び、すぐに縮む。
幾重にも重なり合う乾いた弦の音。風に溶ける暗色の笛の音。
革を張った鼓や、大小の鈴の響きが一度全ての頂点で鳴り渡り、残響を引き摺って森に消えた。やがて戻る静寂の中、巫女が動きを止めた。
「神に代わり――」
声は澄み渡り、周囲の闇を貫く。
「我は汝に真の名を授ける」
細い指先が一人の青年を射抜くように指す。
「汝の名を……左大臣正二位菅原道真朝臣、これを奉ず」
示された青年に、一同の視線があつまる。
「汝が御霊は遠き希臘の地にて人民の守護たる名にて語られ、今ここにその身を代に降り奉るもの……汝の名はこれを体す」
肌を震わせ、背に抜けるような声。
「地にある人々の声、途切れざる時の流れを超え、汝が魂はこれに在り。天つ声を地へと至らしめ、汝、地の人々らを救わんがため地の叫びを天に届けよ。汝が定めは天の定め。その身を天地人の義しさへと奉ぜよ。神に代わり汝に告ぐ。天帝に代わり人々らに告ぐ」
雲一つない夜空を照らす白い月。
舞い上がる赤い火の粉。
幾つもの目と耳が今、巫女の挙動に、その言葉に、注がれている。
「地を行く民らはいま鱗となり、天へ踊る龍となる。汝、真の名を得て今ここに、龍の眼睛となるべし。汝の名は―――」
澄み渡った声が消えたとき、周囲を雷鳴の轟音にも似た声が埋めた。
不安、恐怖、躊躇。一切がここに拭い去られた。
与えられた名、天与の命。
居並ぶ数千がここに一つの龍となる。
天慶二年十二月二十一日。
空には断ち割られたような月が、冷たく輝いていた。
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