第20話
「シノ、お前」
ツグミさんが言うとシノは顔を上げた。ぽろぽろと涙がこぼれている。
「なんだろうね。涙が溢れて止まらないよ。胸が詰まってたまらないよ。とても、このメモリを渡す気になれないよ。渡したくないよ」
シノの口調は相変わらず抑揚のないものだったが、確かな意思が感じられた。
「やっぱり、彼女を前にしてそれを忘れることなんてできないみたいだ」
「そうか」
シノは強くメモリを握り締め、また顔を下げた。少しだけ嗚咽が漏れていた。感情が完全に戻ったわけではないようだったが、それでもその欠片が確かにシノの中に戻っていた。
「いけませんね、ザルネ。薬が足りていないようです」
そんなシノにドゥが言う。この現状にこれといった感想はないようだ。
「アホか貴様は。こいつにもう薬は効かん」
「そんなことはありませんよ。さらに量を増やせば問題はありません」
「いいや、もう効かないな。こいつはどうなっても変わらないものを理解したんだ。だからどれだけ感情の起伏が薄れてもこいつの意志は失われない」
「いいえ、そんなことはない。心などというものはいくらでも形を変えるものです。どうなっても変わらないものなどありえない」
「いいや、ある。確かに絶対的なものが。それは確かに恋とか愛とか小奇麗なものではないかもしれない。でも、確かにあるんだ。我々自身の心というのは確かに。そしてこいつはそれをもって恋人が居なくなったことを悲しんでいるんだ」
ツグミさんは引かなかった。何があっても保たれるはあるだろうか。自分を失っても揺らがないものがあるだろうか。何もかも忘れ去っても消えないものがあるだろうか。そんなものあるだろうか。私たちの心なんて大したものではないのではなかったか。そもそもこの世の中で大したものなんてあっただろうか。何もかも変わってしまって、絶対的なものなど一つも無いのではなかったか。宇宙的に見ればどんなものも等しく無価値なのではなかったか。愛も友情も、夢も情熱も、全て信じるに値せず、我々にはすがるものなどなく、ただ嗚咽しながら這いずり回るしかないのではなかったか。私たちの世は、人生は、初めから絶望的なものなのではなかったか。
「そうですね。私にはツグミさんの言うことは良くわからないけど、シノさんは泣いている。確かに今悲しんいる。なんでかすごく胸を打ちますよ」
だが、シノは泣いていた。感情を完全になくされたはずなのに泣いていた。それは確かにシノに何があっても変わらないものがあるという証明だった。皮肉なことに感情をなくす薬がまさしく感情の普遍性を証明していた。
「まぁ、結局のところそういうことだろうな」
ツグミさんは一歩進み出てドゥに対峙する。
「シノは返してもらうぞ」
ドゥは「やれやれ」と額を抑えるジェスチャーをする。感情はなくただ決まりだから動かしたといった感じだ。
「いけませんねこれは。非常にいけません。どうにかしなくては」
そう言ってドゥがつい、と指を振ると床が一気に盛り上がりシノを襲った。
「うわ」
驚くシノ。しかし、その体は床に捕まる前にツグミさんが抱えて回避していた。ツグミさんはそのまま私を抱えると壁に向かう。
「脱出するぞ。この空間の中では分が悪い」
しかし、壁にはもう入口などなかった。スベスベした白い壁が広がっているだけだ。
「まずいですね」
「大丈夫、僕のガジェットがある」
シノがそう言ってボタンの少ない携帯電話のような機会を取り出す。シノがそのボタンを押すと私たちは一瞬で船の外に出ていた。
「瞬間移動か。これならこのまま」
ツグミさんがそう言った時だった。周囲に丸い光のドームが発生した。
「くそ、インデペンデントフィールドか。これじゃワープできない」
シノは歯噛みする。後ろにあるクモマシンが起動音を立てて動き出した。足を動かし、アームを解放した。合計で8本の足だ。4本でクジラの内壁をとらえ、残る4本にはウエポンが装備される。地上で戦ったものよりもやけに複雑で、いかついデザインだ。
「逃がしはしませんよ。ギャラクティカは必ずいただきます」
ウエポンが高い電気音を立てる。エネルギーがチャージされているようだ。
「まずいぞ。あれは」
シノが言うが早いかウエポンは溜まったエネルギーを開放した。今度はもったいぶって一発ずつ放つようなことはしない。一気に何十発というビームが私たちを襲う。
「サーキット全開!」
しかし、ツグミさんは後ろにいくつもの砲身を展開し、何十発というビームを跳ね返し、それをまたほかのビームに当てて対消滅させ、なんとか捌ききった。
「ほほう、サーキットの力を引き出すとそういう芸当も可能になるのでございますね」
「貴様、この光線、殺傷能力を持っているな。私たちを皆殺しにするつもりか」
「いえいえ、殺すのは知りすぎたザルネとそこのお嬢さんだけでございます。ターゲットの条件を指定していますからね。『ギャラクティカ』とあなたは当たっても無害です。まったく心というものは本当に面倒だ。こんな不確定素を発生させてしまう」
「ふん。心のないお前らには永遠に理解できんさ。これの素晴らしさは」
ツグミさんの言葉にドゥは眉をひそめた。
「そんなものなくとも何ら問題はありません。むしろない方が都合がいい」
「だが、お前らはこの世を理解することを目標とする種族だろう。残念だが心は計算や実験では理解できない。持ち得ないものには理解できない。お前らはこの世で間違いなく理解できないものを前にしている。そしてそれを無価値だとして現実から目を背けているだけじゃないのか」
ツグミさんの横を光が掠める。次の瞬間、私たちの後方で爆発が起きた。ツグミさんは砲身を引き伸ばし飛んでくるデブリを防ぐ。
「黙りなさい。それ以上我々を愚弄するならあなたも生かしてはおきません」
「そうかい。どうやら怒りくらいはうっすらあるようだな」
「忌々しい人間です。しかし、一体どうやってこの状況を乗り切るのですか。音に聞こえる『鳥墜とし』とはとても思えない脆弱な能力ですがね」
そしてクモマシンは再びチャージを始める。
「あの、『鳥墜とし』ってなんですか」
私は疑問を素直に口にしてみた。以前にもドゥがツグミさんを興味深そうにそう呼んでいた。しかし、言葉の意味は分からない。答えたのはシノだった。
「以前銀河を震撼させた宇宙怪獣が居たんだ。そいつは少しでもエネルギーの多い星を求めてなのか文明のある惑星系を選んでその星星を喰らい尽くした。大きさも惑星級。人間がまともに相手をできる存在じゃなかった。そうやっていくつもの文明を滅ぼした怪獣が『死兆星の大怪鳥』」
ウエポンから再びビームが放たれる。ツグミさんはそれをまた必死に凌ぐ。私たちも絶体絶命だ。しかし、ツグミさんはその中にある活路を必死に探している。
「そしてそれをただ一人で討伐したのが『鳥墜とし』。人の身で『ギャラクティカ』と呼ばれる7人の一人。『討滅のギャラクティカ』、オリオン船団の293号、それが彼女だ」
ツグミさんは今度もなんとか攻撃をしのぎ切った。しかし、本当にギリギリだ。後ろに私たちさえ居なければいくらでもやりようはあるのだろろう。ツグミさんはこの場所を動くことができない。
「人間が『ギャラクティカ』などと過ぎた称号です。実際の影響力などたかが知れている。所詮政治的な意味合いしかない中身のないものです」
ドゥはどこか感情的だった。その中身はおそらく嫉妬だろうか。ドゥはツグミさんに嫉妬しているのか。
「そうともそんな称号なんの意味もない。誰でもなれた役割に偶然私が選ばれただけだ。私もそんなものに興味はない」
「ふん、随分と余裕でらっしゃる。ですが本当ですかね。『ギャラクティカ』などと呼ばれて何一つ感じないとは思えませんが」
「そうかもな。だが、今そんなことはどうでもいいんだよ。今はこの状況をどうするかだ」
「ふん。決まっていますよあなた方の負けだ」
ドゥは若干不機嫌だった。
「どうかな。ESPも心の力だ。心のないお前にはこれもまた理解できない」
「本当に忌々しい人だ」
クモマシンは次々とビームを放った。
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