第9話

明くる日、僕は作業に取り掛かっていた。ロボットに任せる以外の、自分の手でやらざるを得ない部分に取り掛かっていた。旧式のフィルター部分だ。あまりにも古すぎて今のロボットのAIでは正確な修復ができないのだ。どうしても知識のある人間がこなさざるを得ない。僕はレンチで必死にボルトを外していた。一日で乾くはずのないフィルターは実に湿っていて僕は水浸しの状態になっていた。まったくひどい思いだった。

「お疲れ様、飲み物持ってきたよ」

 彼女だった。手にはボトルが2つ握られていた。僕はそのうちの一つをもらった。どことなくぎこちなくなってしまう。目の前の彼女が、まさしく犯罪者である事実を否応なしに理解しているのだから。

「わ、本当に手作業なのね。どう、大分かかりそう?」

「まぁ、そうだな。余裕を持って作業するとして3日くらいあればなんとかなるよ」

「案外かからないのね」

「これでも長い方だよ。命に関わる機械だから丁寧にこなさなくちゃならないからね」

「仕事ができて結構結構」

 彼女はうっすらと笑いを浮かべていた。恐らくは、努めて薄く笑っているのだろう。僕は、黙っておくことにする。何事も無く、このまま彼女が僕の知らないところで犯罪をやめてくれること望みながら。実に意気地のないことだった。

「シノ君。昨日、私のファイルを見たでしょう」

 彼女は唐突に言った。

「・・・・・・何のこと」

 しらばっくれたが、隠しようがないことは明らかだった。一応僕なりに隠蔽工作はしたが無駄だったらしかった。彼女は僕があの情報を見たことを知っている。僕が彼女の企みを知っているのを承知のうえで、いつもどおりに接してきたらしかった。

「隠しても無駄だよ。バレバレの隠蔽だったんだから」

「・・・・うん。そうだね。僕は知ってるよ」

「そう。私を公安局に差し出す?」

「まさか。昔からの付き合いだ。まずは、止めてほしいと言うだけにとどめるよ」

「ありがとう。でも無理。もう後戻りはできないから」

 彼女は笑っていた。今度こそ感情にあふれた笑顔だった。大昔、僕らは皆こういう笑顔を浮かべていたのだろうと思った。というか、僕も薬の服用をやめれば数日と経たず浮かべられる笑顔だった。

「何故無理なんだ。今すぐにあのデータを破棄して薬の服用を始めればいい」

「ダメだよ。私はこの体勢を壊すことがもうただ一つの目標だから」

「何でそこまでするんだ。不条理だって目をつぶればいいじゃないか。それだけでいいんだ。薬がそんな目標に対する執着も忘れさせてくれる」

「もう思い出した感情を捨てるのは無理だよ。それに、知ってしまった怒りもね」

 彼女は鋭い視線で言った。さっきから彼女が浮かべる表情は、ことごとくが産まれて初めて見るものだった。僕たちはこんなにいろんな顔ができたのだと思った。そして、それには別段違和感を覚えなかった。

「どうして、薬の服用をやめたんだ。何か事故があったのかい」

「自分でやめたよ。君も感じているでしょう。この社会に対する疑問は」

「ああ、ないことはない。でも薬のおかげで深く追求する気は起きないよ」

「そこが私の違うところでさ。私は薬を飲んでいてもなお、その感覚が消えはしなかった。多分私は、どんな時代のどんな場所に居ても薬をやめたと思う。そういう意味じゃ異常者だね」

「異常者だろうがいいじゃないか。この社会に背を向けるなよ。犯罪行為なんだぜ」

「それが犯罪行為だってことがもう、私には我慢できないんだよ」

 彼女の意思は強固だった。薬をやめた人間はこんなにはっきりとした言葉を使うのだ。なんだか眩しかった。羨ましくもあった。

 彼女は恐ろしく意思が強いのだ。その意思は薬でも抑えることはできなかったのだ。こうなったのは必然だったのかもしれない。でも、僕には彼女に犯罪に走ってほしくはなかった。逆らうものをこの体制は許さない。きっと殺されてしまうのだ。それはなんだかとても嫌だった。

「それでも駄目だよ。君は反乱なんかするべきじゃない」

「何で。何でそんなに拘るの。感情が薄れているんなら私一人死んでも苦痛を感じることもないでしょう」

「ダメだよ。やっぱり。なんだかわからないけど、君が消えるのは耐えられない気がするんだよ」

「本当に? 本当にそう思うの?」

「ああ、本当だよ。薬を飲んでいてもこうなんだ。きっとやめたら自殺でもするんじゃないかな、ぼかぁ」

 なんだか分からないがそんな気がした。自殺なんて歴史の教科書でしか見ない言葉だ。大昔、人は耐えられない苦痛を抱えると命を断ってそこから逃れることがあったという話だった。

「そう、良かったよ。それは」

 そう言って、彼女は吐血した。かなりの量の血が、その口から吹き出した。

「え?」

「もう後戻りはできないっていうのはこういうことでもあってさ。もう、私は目をつけられてたんだよ。今日の朝は強烈な胸の痛みで目が覚めたよ。得体のしれないナノマシンが私に入ってるみたい。ワクチンでなんとか保ってるけど、もうすぐ時間切れなんだ」

「そ、そんな馬鹿な。あんまり唐突じゃないか」

「死とは唐突なものだよシノ君」

 彼女は血みどろの口を拭いながら不敵な笑みを浮かべた。今まで暗くてわからなかったが、よく見ると彼女の顔色は蒼白だった。僕は近づいて彼女の体を支える。医療用ナノマシンを探すが、あいにくと持ち合わせはせいぜい傷を塞ぐような外科的な、それも簡易のものだけだった。そもそも、恐らく統合政府が使用したであろう未知のナノマシンに対応できうるものを僕が持ち合わせているはずもなかった。

「そんな。なんだってこんな」

「もう私は助からないよ。だから、これを君に託しに来た」

 そう言って、彼女は懐からメモリを一枚出した。恐らくは、いや間違いなく、あのファイルが入っているメモリだった。

「そんな。こんなものを僕に渡してどうしようっていうんだ」

「君が母星に持って行って。そして体制を変えて欲しいんだ」

「僕も巻き込もうっていうのか。あんまり傍若無人が過ぎるよ」

「君なら頼みを聞いてくれると思ってさ」

「昔なじみっていう僕の良心を利用しようっていうのか。度を越えた卑怯だよ。ここに来て君の人格を疑うよ」

 他人の良心を利用するなんていうのは悪人のすることだと昔から習っている。感情の薄い僕達に道徳の授業が何の意味があったのか今でもよく分からない。

「好きな人にはわがままを聞いて欲しいのが女心ってもんらしいよ。私も良くは知らないんだけど」

「いや、いくら付き合いの長い友人でもそこまでは」

「鈍いなぁ。私が言ってるのは恋愛感情だよ」

「れ、恋愛?」

 それこそ遥か彼方になくなった風習だ。試験管で子供が生まれる現代には意味がなく必要とされない男と女の間に生まれる特別な感情のことだ。恋というやつだ。なんだか分からないが僕は実にいい気分だった。

「そ、そんな、突然何を言い出すんだよ」

「私も薬を止めてから驚いたんだ。まさか、君に恋してたとは思わなかったよ。ずっと一緒にいると落ち着くとは思ってたけどさ」

「僕はこんなに大したことないのに一体全体どうしたっていうんだ」

「そういう、ダメな所が好きなのかもね。君と居ると面白いんだと思う」

「や、やめてくれよ。なんだかむず痒いよ」

 そう言いつつ僕のいい気分はどんどん加速していく。彼女が僕について話せば話すほどいい気分になっていくのだった。今までに感じたことのない感覚だった。

「それでね、多分君も私のことを好きなんだと思う」

「へ?」

「うぬぼれだと思うけど、きっとそうだよ。さっき私が居なくなるのが嫌だって言ってくれて、そうなんじゃないかなって思った」

「そうなのかな。すまない、僕には分からないんだ」

「そうだよね。うん、本当のところは分からないけど、私はきっとそうなんだって思うことにするよ」

 彼女はそう言って笑った。実にいい笑顔だった。そうして彼女は僕にメモリを握らせた。

「頼んだよ」

「だ、どれとこれとは話が別で、いや、別じゃないのか。いやいや、でもこれは、でも、うーん」

「無理を言って本当にゴメン。でも、どうか聞いて欲しいんだ。本当にゴメン」

「いや、でも考えさせてくれよ。確かに僕も疑問はあるけど、そんな行動に出すには・・・・ん? おい、どうしたんだよ」

 突然彼女は僕の言葉にピクリとも反応しなくなった。それが何を意味するのかはさすがの僕も分かった。

「おいおい、本当に死んだのかよ・・・・・」

 僕は彼女の亡骸を抱えてしばし、呆然とした。しかし、やはりこれといって思い浮かぶ感情はなかった。さすが薬だ。大切な人の死に立ち会ってもここまで何も感じないとは思わなかった。ただ、なんだかすごく胸が寒かった。

 しばらくどうする事もできずに僕は動きを止めていた。しかし、やがて向こうから足音が近づいてきた。部屋のゲートの陰から伺うと。黒い服を来た男が3人、この施設の代表者に何やら言われている。あれが彼女を殺した政府の人間だと理解した。

 すぐにこのメモリを差し出せば、僕は無罪放免ですぐに仕事に戻れるだろうと思った。しかし、僕は一目散にその場を離れた。横たわる彼女の亡骸を一度だけ振り返って、後はひたすら走った。

 施設を出て、自分の基地に戻った。それから船を一台拝借して、宇宙に出た。

 僕は逃げ出した。彼女の言葉を受けて、彼女の使命を受け継いだのだ。あまりに実感がなかった。というか実際のところ、まだ彼女の言葉を受け入れたわけではなかった。しかし、あそこでメモリを渡す気にはなれなかった。あのまま連中に従う気にはなれなかった。だから逃げた。逃げて、しかしあてはなかった。僕はとりあえず政府の連中の手が及ばない僕が活動できる星に一旦隠れることにした。

 旅は長かった。ワープを繰り返しながら10日ほどかかった。その間に僕の体の薬は抜けていった。抜けるに連れて、頭の中は彼女のことでいっぱいになっていった。今まで共にしてきた中での会話や表情が鮮明に思い出された。そして彼女の死に顔が思い出された。僕は悲しかった。それもとてつもなく。悲しいという感情がこんなにくるしいものだというのを本当に初めて知った。僕の文明にこれを知るものは多分居ない。だが、自殺はしなかった。死んだ方がましかもしれないとは思ったが止めておいた。

 僕はやはり彼女に恋をしていたらしい。彼女の予想は当たっていたわけだ。両思いというやつだったわけだ。両思いなのに結ばれない、なんとも不毛な社会だ。

 10日目にさしかかるころ、僕はとうとうこの星に辿り着いた。そこで船は壊れた。元々長距離をワープ航法で移動するためには作られていないかったからだろう。

 そして、船を作りかけてやる気をなくして現在に至るわけだ。

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