第8話
店に入り、左側に座る。ミリは右側に座る。僕は左側が好きで。それは自分の顔の右半身の法が好きだからかもしれない。できれば自分の好きな半分を相手に見せたい。こういう時に「私は左側がいい」という女性とは、基本的に長続きはしない。相性が会わないのではない。続かないのだ。そういう時は、僕は「では左にどうぞ」と言って、いつもと違う風景に違和感を感じ、その違和感がいつか関係性を崩壊させる。座り方ってのは、そういうガラスに入った一筋のヒビのようにいつしか全てを崩壊させる。
彼女は右に座る。メニューを僕が渡す。彼女は生を選び、僕も生を飲む。この店のうまい食べ物の話をして「よく来るの?」という質問に凡庸な回答をして。そして、ビールが来て、乾杯と共に泡を流し込む。そこから時間は始まる。いわば、それまでの会話は助走のようなもので、アルコールの入っていない会話なんて、モッツァレラの入ってないマルガリータのようなものだ。とはいえ、その助走があるからこそ、この一杯の味が引き立つのだけれど。彼女は見た目よりも、ずっと力強くビールを飲んだ。女性が一口で飲む量の3倍は飲んだ。グラスの3分の1ほど飲んで、「おいしー」と呟いた。ああ、素敵な女性だな、と思った。純粋にビールを楽しめる心を持っていて、そして、その感想を素直に口に出せる。大人になればなるほど、このビールの「美味しさ」を純度高く感じられなくなってくるのだ。明日の仕事のことや今日言われた嫌なこと、あるいは、週末のメンドクサイ予定のことを思い出し、ビールの味を残ってしまう。彼女は全身でビールの美味さを感じていて、それは、雨を全身で受ける舞茸のようだった。舞茸のようなビールの飲み方ができる人はそんなにいない。
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