第5話

カフェを出て、彼の姿を目で追う。幸い、彼は歩くのは早いわけではないらしく、4軒先の店先で彼を見かけた。早足で追いかける。同時に、なんて声をかけようか悩む。そもそも何語で声をかけようか。フランス語で「ボンジュール」といったところで、後はフランス語で続かない。では英語で続けようか。そんなことを考えながら彼との距離を見つける。幸いフランスは東京のように混雑はしておらず、すぐに追いつく。思わず「すいません!」と彼の服をひく。冬で良かった。コートで良かった。


彼は思わず振り返り、何かを言う。ミリは聞き取れない。「マイネームイズミリ。アイラブユー」と一気に言う。ジェイムズは立ち止まり、指で鼻を引っ掛ける。そして10秒ほど、物事について、もしかすると世の中の理について考える。ミリにとって、その時間は数分にも思えた。ただ、ジェイムズの顔をじっと眺めていた。「目はそらしてはいけない」という強い意思がなぜかそこにはあった。「マイネームイズジェイムズ」といった少しはにかんだ笑顔で彼は言う。ミリは、笑顔にならなくちゃと思うけれど、顔の筋肉が動かない。冬の寒さのせいかもしれない。「メルシー」と彼女は言った。ジェイムズは、また何かを言った。でも、ミリは理解することができない。ミリは、自分自身がどうしたいんだ、と考える。セックスをしたいのかもしれない。ただ、そんなことを言えるわけはない。ミリは言葉に詰まる。ジェイムズは、またも何か言うが、ミリは理解できない。ジェイムズは、時計を指差す。きっと予定があるということなんだろう。ミリは連絡先を渡そうか、とも思った。でも渡さなかった。ミリは手を振った。ジェイムズも笑顔で手を降って、町の雑踏に消えていった。


ミリから聞いた話はざっといえばこんな感じだ。僕がディテールを補足したけれど、大枠はこのような物語。これに対して、ミリはいう。あの時に、私は何かを決定的に失ってしまった。あるいは、自分が欠陥を持った人間として気づいてしまったの、と。

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