保健室
最近の楽しみと言えば、これ。
僕の目の前にいる、この真面目そうな黒髪の女の子、名前は山下夕さん。
彼女は今、おでこから少しだけ出血をしたようで、それにしては冷静な顔立ちでこの保健室に入ってきた。
「いつから痛いの?」
「朝からです。」
「ぶつけたの?」
「こけてしまって。」
「そういう風に見えないのにね。」
「初めてです。」
彼女は最近、眼鏡とコンタクトを併用するようになってからというもの、学校前の坂で良く転ぶとの事で。
そこまでしてまで、彼女が自分の見た目を気にするわけとは、そんな事は一つしかない。
彼女には、心に想う人が出来たのだ。そして、彼女は自分の傍に、その存在を留めておける権利を手に入れたのだ。
それは相手もしかりで、彼女は彼の想い人となり、彼女の存在は彼にとっても大切な存在になったのだ。
漫画か。これはあれか、きらきらした日常が描かれる大人気漫画のワンシーンなのか。
そんな事を心の中でぐるぐる巡らせながら、彼女の怪我の様子を診ながら、少し気分の落ち込んでいる様子の彼女の声に耳を傾けていた。
「何か悩み事でもあるのかな?」
「えっと…」
「無理に話さなくていいよ。話したくなったらいいし。」
「でも…」
「でも?」
「あんまりこういう経験ないので。」
彼女が初めてこの保健室に来た時の事は良く覚えている。
最初はそう…いや、この話はまたの機会にしよう。今はこの、おでこの少し腫れたこの愛らしい女の子の悩みを聴くことに集中しましょうか。
「何かされたの?」
「ちょっと、トラブルのような、困難のような…」
「同じだね、意味。」
「あ、そうですね、そうだ…」
「悩み相談できる人とかいないなら、僕相談乗るからさ。」
「先生には、あまり迷惑をかけたくないので。」
こういう控えめな子に惹かれる男子はたくさん世の中にいるのでしょう。
しかし、この可憐な女の子の心を射止めたのは、まさかの相手だったのだ。
それは職員室でも少しだけ話題になった、金髪で秀才の意外にも丁寧な態度をする一人の男子生徒、名前は宮下優さん。
金髪の男子生徒と黒髪の女子生徒が付き合っている。
何の共通点もなさそうな彼らの行動を、僕は密かに注目していたのだ。
「これが仕事だからね。できればその迷惑を、僕にかけてほしいんだけどな。」
「なんか先生…」
「今のはなんか駄目だったね。なんかごめんめ。」
「別に、優さんも結構…あ。」
彼女は自分の彼氏の事を優さんと呼び、優さんは彼女の事を夕と呼ぶ。
この奇妙な呼び合いをたまたま見てしまった僕は、彼らの関係性を少しずつ知っていくようになった。
二人は僕に比較的友好的に接してくれるので、僕もそれに応えていきたいと思っている。
「あ、例の想い人だね。最近どうなの?」
「最近はその…喧嘩中で…」
「あらら。何かあったのかな?」
「その、私優さ…あ、宮下さんの友達で森川君っているんですけど、その人すごく優しくて、すごく頭良くて、すごく…」
「それさ、宮下にそういう感じで話してるのかな?」
ここで登場する森川君は、宮下さんと言いなおされてしまった哀しき彼氏である男子生徒の友達で、比較的話しやすい好青年である。見た目はそれなりに派手だが、比較的面倒見の良い性格だという事は日頃の態度で伝わってくる。五人兄弟の一番上だと確か言っていた。
「そうですね。森川君私の事結構わかってくれてるというか、前も私すごく重い本3冊持ってて、それを後ろから来た森川君が無言で持ってくれて。しかも途中階段あって、明らかに森川君の方が大変な状況なのに、足元気をつけてねって言ってくれたりとかして。それでそのあ…」
「山下さん。」
「あ、すみません。私ばっかりすみません…」
ここでの問題点は、ただ一つ。
“嫉妬”である。
「いや、そうじゃなくて。それそのまま。宮下に言ったの?」
「え?あ、そうですね。最後まで言いました。」
「その時さ、宮下なんか態度悪くなかった?」
「あ…そうですね…用事が入ったとかですぐ帰ってしまって…」
「それは…帰っちゃうかな、俺でも。」
君はもっと、男の嫉妬について知るべきだ。
そういう助言もありなのだが、ここはやはり自分でわかってほしい。せっかく掴んだ恋を、自分の意志で、自分の決断で、その恋をきらりと光るものにしてほしいと僕は思っていた。
「私の話、面白いところないので…」
「いや、そうじゃないんだよな…」
「優…あ、宮下さんはご両親が関西の方だから、きっと笑いのハードルが高いのだと、日頃から考えています。」
「それは別に考えなくて大丈夫だと思う。」
「そうなんですか?」
「考えるべきところはそこではないね。」
「それはその…勉強すればわかることなのでしょうか。それともインターネットで検索すれば出てくる事なのでしょうか?図書室にはそれに相当する書籍がないのです。困りました…」
「それはまあ、そうだね。」
そんな本が発売されたら、僕も迷わず購入しに行くだろう。きっと保存用も買ってしまうのだろうか。
「あ、もうすぐ優さん来る時間だ。先生、本当にありがとうございました。こんな面白くもない話を聞いていただきまして。」
「優さんによろしくね。」
「優さん、あ!…あの…その…」
もう気付いているかもしれないが、彼女は人に話す時は宮下さんと彼の事を呼ぶ傾向にある。
なんだ、可愛いじゃないか。素敵な彼女に出会ったものだ、羨ましいぞ、宮下。
「そういう表情をさ、もっと彼に見せるべきだと思うよ。もっと好きな気持ちを表情にね。そうしないと、男って傷ついちゃう生き物なんだよ、意外にもね。」
「先生も、そうなんですか?」
「僕はそうでもないかな。」
「先生って女性に言い寄られるタイプですよね、絶対に。」
「絶対にってすごい威圧感ある言葉だね。」
「恋愛の相談とか、本当にした事ないから、私上手く伝えられたかどうか…」
「とても伝わったよ、もう伝わりすぎて笑っちゃうくらいに。」
「おかしな部分なんてありませんでしたよ。」
「あ、そうだね。ごめんごめん。」
彼女の真面目な面はとても好感が持てる。そこに気付いた金髪の彼にも、また同じように好感を持てる。
何とも素敵なカップルなのである。
「失礼します。あ、先生。ちょっとこれ怪我しちゃって、絆創膏あります?できれば三個欲しいんだけど。」
そんな中、待ち人が来た。相変わらずの金髪。この金髪が許される理由、それは彼の頭脳にある。
彼はほとんど勉強をしていないかのような、余裕の表情でテスト問題を完璧にこなす。その頭脳に、我々はとても期待しているのである。
「いいけど、何でそんなに怪我するのかね。この二人は本当にもう…」
「は?え?夕、怪我したの?いつ?何処で?見せて。」
彼の目の色が少し変わった。自分の大切な人を見る目だ。こういう目が出来るのかと、僕は最近になってようやく気付いた。
恋というのは、何とも素敵なもので、何とも神秘的なものだ。
僕はまさかここまで年下の同姓から、しかも自分より大分年下の生徒から教わるなんて、夢にも思っていなかった。
「別に大した事ないです。転んだだけで。」
「まじで。大丈夫かよ…」
「そろそろ帰りなさい。カップルさん。」
「もうそういうのほんとにいいから。じゃあ、俺の夕は返してもらおうか。」
こういう台詞を恥ずかしげもなく堂々と言える男に、僕もなりたかったものだ。
「何言ってるか全然わかんないね。」
「何だよ。ノリ悪いな。でもまじでありがとう先生。じゃあ行くわ。」
「ありがとうございます。」
僕は二人の後ろ姿を静かに見つめていた。この後の二人はきっと、またそれぞれの思惑に胸を震わせるのであろう。
嫉妬は、時にスパイスになるのだな。また勉強になった。
申し遅れましたが、僕は養護教諭の坂本と申します。保健室の先生です、勤続3年です。彼女はいません、募集中です。
「いいな。恋か。何年してないかな。」
もうすぐ夏が来る。
僕も恋をしよう。そう思った。
ふたりの anringo @anringo092
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