昇降口
「夕。怒ってる?」
「何も怒ってません。」
そうです。私は何も怒っていないのです。怒る権限など、私にはないのです。
「いやいや、怒ってるじゃん。」
「怒ってません。」
怒っていいのは、理不尽な事をされた時、体に故意の痛みを加えられた時、そして嘘をつかれた時と決めてあるのです。
「いやいや、完璧怒ってるじゃん。」
「怒ってません。」
「今日の昼、日替わりパン食べたい?」
「怒ってません。」
「やっぱ、怒ってんじゃん。」
「え、いや、これはその…」
言葉と言うものは、時に脆いもので気持ちをそのまま表してくれないこともあり、時に言葉以上の意味を相手に伝えてしまうこともあるのです。
今、私と優さんは昇降口のいつも待ち合わせで使う右側にある太い柱に体を預けながら二人並んでいます。
二人でこうやって並んで同じ壁に自分の体重を預けると言う行為に、幸せを感じるようになったのは最近で、それまでは緊張してこの時間を楽しむ事ができずにいました。
「何でよりによって、相談する相手の第一候補に森川があがってきちゃうんだよ。もっといるだろ、その話題にふさわしい奴がさ。」
「森川君しか思いつきませんでした。」
だって森川君が一番話しやすいし、後の人達…本当に怖い…ピアス何個開いてるんだろうって思うし。
そうそう!内君なんて舌にも何個か開けそうな勢いだし。舌ってそういうの為にあるものではないのですよ。
それにあの眼光…うっかり目が合ってしまったら、きっとその鋭い瞳でずたずたにやられるに違いない。
でも、優さんが前に言ってたっけ。確か内君の彼女は黒髪だって。でもきっと勝ち組タイプの黒髪さんに違いな…
「夕さ、前からちょくちょく思ってたことあんだけど、今聞いていい?」
「はい。」
「絶対にタイプだろ?森川の事。」
「それは違います。」
よし、ちゃんと即答できた。タイプはないのですよ、優さん。
私はきっと、恋をしたことがないから、好きなタイプとか好きな仕草とか、そういう履歴がないのです。ブラウザバックできないんです、何もないんですから。だから、ちゃんと知って欲しい。私のOSの更新は、優さんの指示一つで決まるのですよ。
「じゃあ、もし俺と森川の二人が目の前から歩いてくるとします。ねえ、想像してよ。それで、夕はどちらかに絶対に話しかけなければなりません。さあて、山下さんはどちらの男性に声をかけますか?」
「…」
「タイムリミットは1分だよ。」
「決まりました。」
「あ、早いな。どっちかな?」
「も…あ、宮下さんです。」
今の聞こえちゃったかな。でも、ちゃんと名字言えたし、きっと大丈夫だ。
幸運な事に、優さんは地獄耳ではないのだから。
「3つある。文句3つあるわ。」
「3つもですか?」
頭をくしゃくしゃ掻いた後、一呼吸してから優さんは再び話し始めた。
「あるある。本当は4つだけど、とりあえず3つにする。」
結構あるんですね。しかし優さん、少しペナルティが厳しすぎるのではないですか。
「優さん…」
私はその優しい目に、少しだけ自分の影を重ねたくなって、そっと手を伸ばした。
この衝動を抑える方法を、例え知っていたとしても、今はそれを知らないふりをしたい。
「駄目。今触るのはナシ。今夕に触られてたら、きっと俺、全部許しちゃうから。」
「許さなくていいですよ。」
そう。許さなくていいのです。
私はもうあなたのものなのですから。
「まず、その最初の“も”っていうのの言い分を聞きましょうか。」
やっぱり聞こえてたか…とりあえず何か上手い言い訳を考えなければ…
「名字で言おうとしたんです。でも、優さんのこといつも優さんって呼んでるし、そう言えば、森川君は名字で呼んでたなって思って、それ考えてたら“も”が出たんです。…すみません。」
「まあ、言い訳としては75点かな。」
意外と高得点なのではないですか?今回の古典の小テストも同じくらいの点数だったはず。
でも、平均点は68点だから、あんまり…というか、全く喜べないんですけども。
「あの、マイナス分は?」
「目を見てない。俺の目を見て言ってない。それは信用できませんよ、山下さん。」
優さんは食い気味に私にその言葉を言い放った。もうこの時点で完敗ですわ、こんなの。
「すみません…」
「2つ目ね。さっきから結構な割合で敬語なんだよね。俺さ、後輩から彼女さんにもう少し優しくしてあげたらどうですか?って言われたんだよ。それってさ、俺が怖すぎて夕を無理矢理彼女にしてんのかって思うじゃん。それってさ、彼氏として、男として…なんか淋しいじゃん。こんなに好きなのにさ…」
優さん…私はあなたの…
「しても…いいですよ。」
「え?」
「だって私は優さんを傷つけたんだから…」
私の全部は、優さんだけのものだから。
「え?いや、あの、まあ、俺も盗み聞きしてたわけだしそれはまじで申し訳ないっていうか…ごめんって!夕!なあ、ごめんな。」
「怒ってないですから。本当に。」
「じゃあさ、ちょっとお願いがあるんだけど。」
「何ですか?」
優さん。今日こそはいいよ、好きにしても。
「キス。ほっぺにして。」
「へ?!」
「聞こえない振りしないの。ほっぺにキスしてって言ってんの。はい。」
「だって人が…」
やばい状況になってきております。やばいですね、この状況は。とてもやばい。
今まで、“やばい”なんて言葉、こんなに使うことなかったのにな…
「俺って、夕の何?」
「…恋人です。」
「彼氏なわけでしょ?それは間違ってないよね?」
「はい。合ってます。」
「夕はさ、俺の彼女なわけじゃん。それは合ってるよね?」
「はい。合ってます。」
「付き合ったら、何するんだっけ?」
「抱き合います。」
「は?!!」
「え。」
何でそんなに驚くんだろう。やっぱり私じゃ…駄目なのかな…
「あ、いやいや、まあそうなんだけど、それはそうなんだけど、えっと…そうじゃなくてさ、今はそこまで飛躍しなくてもいいというかなんというか…」
「違うんですか?」
「いやいや、合ってるよ。合ってるんだけど、そういう答えが夕の口から…」
「私は魅力ないですか?」
「あるよ!もちろんあるよ!何言ってんの!」
「だって優さんまだ…」
「え?……えっと……いいの?」
「…」
いいよ。
「いやいや、この話はやっぱナシにしよう。お昼だし、昇降口だし、人来るし…」
「人来るのにキスしてって言ったの、優さんですよ。」
「それはそうでしたね…失礼しました。」
「行きましょう。日替わりパン、森川君に奢ってもらうんですよね、急がないと売り切れちゃう。」
「そうだった…え?夕それ何で知ってんの?」
やっぱ、優さんは鈍感なんだ。それなら私にも手はありますよ。
あなたをびっくりさせる、いい方法。
「私も地獄耳なんです。先に行ってます。」
「は?え?てか夕、廊下つっぱしって行ったじゃねーか。」
「隣のクラスに入ったんですよー!」
私はまた振り返らずに、角ばった昇降口の地面を颯爽と走って見せた。
「ほんと可愛い奴。はあ、好きだわやっぱ。」
その言葉が、しっかりと聞こえるように走るスピードを調節しながら。
今日のお昼は、一段と楽しい時間になりそうです。
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