第23話 渡り

 最初に頭を出した雅弥の顔を見るなり、綾乃が駆け寄ってきた。

「よかった。無事で!」

そう言いかけて、彼に続いて、次々と三人もの高校生が次々と姿を現したので、目を丸くしている。

「あ、えっと、その・・・この人、諏訪清涼の藤森さん。で、こっちは・・・。」

雅弥は、慌てて、綾乃に三人を紹介した。綾乃は、ホッとしたように表情を緩めた。

「お友達も、無事だったんですね。」

相変わらず、ですます調が、直っていない。

「あ、あのさ、俺の携帯・・・。」

雅弥が言うと、彼女は素早くポケットから彼の携帯を取り出し、渡した。雅弥が、それを一番最後に出てきた小夜香に渡す。

「使いにくい。」

画面を睨み、メールを打ちながら、小夜香がぶつぶつと文句を言った。

「あんた、まだ、ガラケー使うの、いい加減、やめてよね。」

雅弥は、聞こえないふりをした。

 その間に、宗佑と康治は、月見櫓の惨状を検分して回っている。

「随分、傾いてるね。」

宗佑が呟いた。天守の床は、雅弥がここを出発した時よりも、更に一層、傾斜がひどくなっていた。宗佑と小夜香の持ち物や、床穴の重石代わりに使われていた鐘が、全て片側に転がって隅の壁に一塊に押し付けられている。

「あの後も、どんどん傾いてきて・・・。」

と、綾乃が説明した。康治は、横倒しになった鐘の前に座り込み、しげしげとそれを眺めた。

「なるほど、こんなんで蓋してたのか。そりゃ、持ち上がんねえわ。」

「うん、でも、もう塞がないよ。」

雅弥がきっぱりと言い放ったので、宗佑と小夜香は驚いた表情で、彼に視線を投げた。

「えっ、でも、なんで・・・?」

小夜香が言いかけると、

「ここを塞ぐのは、色々と・・・良くないからだよ。つまり・・・こういう状態になったり、とか・・・。」

月見櫓の床を指差しながら、とりあえず、雅弥はそれだけで、済ませた。詳しい説明なら、また、後ですればいい。今は、それより先に、済ませなくてはならないことがあった。

「ふうん。」

疑わしそうに小夜香は、じろじろと雅弥と鐘をと見比べた。

「まあ、あんたがそう言うならいいけど・・・。」

鐘の前の康治は、満足そうににやりとした。

「そいつはいいな。こっちとしては、好都合。試合再開だ。」

「ふん。」

雅弥の携帯を操作しながら、小夜香が肩をそびやかした。

「そんなのこっちだって、すぐやり返すから。」

「また、しつこく山賀のJ1ネタとかやるつもり? でも、こっちには、北陸新幹線ネタがあるんだぜ? 金沢まで行っちゃうんだぜ? ま、松本には新幹線、ねーけどさ。」

けれど、メールを打ち終えた小夜香は、もう康治のからかい半分の挑発を相手にせず、今度は、つかつかと綾乃の方へ行き、何やら女子同士でひそひそと話しこみ始めた。

「ねえ、やっぱこれ、どっかに通報すべきじゃね? どう考えたって尋常じゃないし。」

宗佑が、斜めになった足元の床を指しながら、雅弥に同意を求めるように訴えた。「このまま放っておいたら、じき天守ごと倒れるんじゃね?」

「いいや。」

静かに雅弥は、首を振った。

「水神を湖に渡らせてやろう。そうすれば、全部、元通りになるはずだ。」

「水神?」

宗佑が、信じられない、といった面持ちで、雅弥を見詰め返した。

「それって、あの龍のこと? おまえ・・・本気で言ってんの?」

「本気だよ。」

雅弥は肯定した。校長室での先生の言葉をひとつひとつ思い返しながら、彼の中で、どんどんと説明のつかない確信が強くなっていった。。

「それに、もう、そのための全部のことが揃ってるし。」

彼頭を寄せ合って話し込んでいる女子らの方へ、彼は進み出た。何を話していたのか、声を押しながら、交わしていた二人の囁きが、ぴたり止まった。

「藤森さん、あの梶の葉の校章、出してくれる? さっき、先生に渡されたやつ。」

綾乃の表情が、一転して真剣になり、頷くと、手早く鞄の中から校章を記した折り畳んだ布を引っ張り出した。その間に、雅弥は彼女に預けてあった自分のデイバックをごそごそ探り、康治の書の入った筒を取り出した。

「おい、それ、どうするつもりだ?」

康治が、雅弥の手にした筒を鋭く見咎めて、声を上げた。雅弥は彼のほうを振り向くと、にやりとした。

「おまえの書いたものを、役立たせるんだよ。」

雅弥はデイバックを背負い、筒を片手に、お堀を見下ろす朱塗りの欄干の前に立った。そこから眺める夜の城の庭園も、更に向こうの松本の街並みも、いつもと何一つ変わらない。なだらかな石垣の裾に続く堀は、満々と水を湛えている。水面は、鏡のように滑らかで、さざ波一つ立っていない。

「藤森さん、こっちに来てくれる? そして、よく見えるように梶の葉を、お堀に向かってかざしてくれない?」

緊張した面持ちで、綾乃は指示された通りに両手で諏訪清涼の校章を高く掲げ持ち、欄干の前へと進み出た。雅弥は筒の中から『飛龍吉祥』の文字が躍る和紙をさっと広げた。

 その瞬間、ぐいっと身体が引っ張り上げられる感覚があり、あっと思った時には、足が床を離れていた。手に握っているた薄紙は、龍の頭部に生えたふさふさとした純白に輝く長い毛束へといつのまにか変じている。綾乃が驚きのあまり思わず一歩退き、その拍子に欄干にぶつかってよろめいた。

「危ないっ!」

咄嗟に、雅弥は片腕を伸ばして、彼女を掴んだ。そのまま二人の身体は、ぐんぐんと空高く昇っていった。その間、雅弥は必死になって綾乃を引っ張り上げ、どうにか二人で白龍の頭頂部によじ登った。先端が細く尖った二本の角が生えていて、振り落とされないよう各自その根元を一本づつ片手でしっかりと掴み、もう一方で龍の毛足の長い頭髪を強く握りしめた。。二人がしがみ付いている二本の角の周辺頭頂部は、白い毛髪に一面覆われて、ちょうど毛足の長い絨毯に座っているような具合であった。

 龍はどんどんと上昇を続け、とうとう傾いた大天守よりも高い空へと舞い上がった。そこまで昇ったところで、龍はしばし、方向を見定めるかのように、空中をゆっくりと旋回していたが、やがて行く手をそれと決めたか、南東目指して一気に飛行を開始した。

 雅弥たちの眼下に、煌く夜の松本の街が広がっていた。道行く車のライトが、列を描いて流れてゆく。それらの全てが点のように小さい。恐る恐る下界を眺めていると、怖いような、わくわくするような得体の知れない感覚に襲われて、腹の底が、きゅうっと縮こまるような、得体の知れない気持ちに襲われた。耳元で、びゅうびゅうと風が鳴る。雅弥は、出来るだけ風をよけようと、角を握ったまま、ほどんど腹這いになるようにして身体を低くし、空気抵抗を減らそうと務めた。そんな姿勢を取っていると、柔らかで真っ白な毛が顎をくすぐり、覚えのある芳香が、鼻腔を甘く突いた。

「白檀の香りがする。」

思わずそう呟くと、隣で同じく角にしがみついていた綾乃が、口を開いて何か言った。しかし、声が風に流されて聞こえない。雅弥は、彼女の耳元に口を寄せ、思い切り叫んだ。

「何? 何か言った?」

すると、今度は、彼女が大声で、こう返した。

「さっきなんて言ったの?」

「白檀の香りがする、って言ったんだ。」

出来るだけ声を張り上げて、雅弥は答えた。

「白檀。お香だよ。」

その声が、綾乃の耳に届いたかどうかは、よくわからない。しかし、龍にしがみ付くのに必死な二人には、もうそれ以上、言葉を交わす余裕はなかった。

 それにしても、どうして雅弥が、そんな香の名など知っているかといえば、所有している扇子に焚き染められているのが、白檀だったからだ。そして、なぜ扇子などと男子高校生にはおよそ似つかわしくない浮世離れした代物を彼が持っているかというと、テレビの映像などで、囲碁盤を前に小ぶりな扇子をぱちつかせながら長考する名人の姿を大層格好良いと思い憧れて、中学の頃に手に入れたという過去があったからである。さすがに気恥ずかしくて、実際に、試合の時に、持って行ったりしたことはないが、自室で、碁盤を前に手の中で扇子を閉じたり開いたりしては、密かに喜んでいたのであった。不思議なことに、今、龍の頭に生えた毛束からは、その白檀の香りが漂ってくるのであった。

 生ぬるい夏の夜風が、びゅうびゅうと頬を撫でる。視界の隅に、しきりに何かひらひらと細長く白いものが入ってくるので、何かと思って横目で眺めると、それはどうやら長く伸びた龍の髭が、夜風に靡いているらしかった。龍の首から背中にかけての皮膚は、真珠色の鱗にびっしりと覆われている。

 飛翔する龍は、僅かの間に松本市街地上空を抜け、高ボッチ山を筆頭とする山間部へと差し掛かり始めた。どんどん明かりの数が乏しくなり、真っ暗な森林と思しき箇所と、その合間を縫うようにして走る幹線道路のぽつぽつとした街灯と、そこを途切れ途切れに走る車の流れる照明とが、辛うじて下界の目印となっていた。

 龍は真っ暗な山腹の斜面の上昇に合わせるように、少しづつ高度を上げ始め、次第に上昇の度合いを増してゆき、そして、ついに峠を一気に越えた時、雅弥と綾乃は息を呑んだ。

 眼前に広がるのは、影を切り取ったように真っ暗な湖面と、その周辺を囲む街灯の宝石のような輝きの目も眩むような対比であった。それは、突如として現れた、光と闇の織り成す巨大な地形図であった。

 龍は、一片の迷いもなく、湖を目指していた。少しも速度を落とすことなく、ぐんぐんと飛行を続け、とうとう湖の上空へ達した時、龍は歓びに湧き返るかのように全身を捩じらせ、ぐるぐると空中を旋回した。それから、ぴたりと宙に浮いたまま、狙いを定めるかのようにしばし静止したかと思うと、やがて、いきなり身を躍らせて、湖面へ向けて真っ逆さまに頭から落下を始めた。それは、もはや下降などという生易しいものではなく、文字通りの落下であった。雅弥の身体を重力が無重力に変わる時の不気味な変化でふわりと揺れ、それから、遊園地でうっかり乗ってしまったジェットコースターが下降を始めた時と同じ感覚が襲った。お化け屋敷が苦手なのと同じくらい、彼は絶叫系の乗り物を苦手としていた。そして、この急降下は、彼が今までついうっかり乗ってしまったどの絶叫系の乗り物よりも、致命的で破滅的であった。

「ひっ。」

気が付くと世にも情けない悲鳴が、喉から漏れていた。綾乃が隣に居るとわかっていても、押さえられなかった。というか、もはや恥も外聞もなかった。耳元で風が、轟々と唸り、髪が真後ろへと勢い良く流された。目の縁に、街の明かりが歪んだ光の帯となって飛び込んでくる様も、空恐ろしい。

(もう、駄目だ。)

思わずそう考えて、彼は目を瞑った。

(落ちる・・・。)

湖の水面に激しく叩きつけられる予感に身を固くしながら、雅弥はうめいた。この高さとこの速度で湖面に打ち付けられたら、その破壊力やいかばかりか予想もつかない。少なくとも、プールで飛び込みに失敗して腹を打った時の痛みの比ではないはずだ。

(痛いのはイヤだ。)

意気地なく、彼は怯えた。おまけに、万が一、ひょっとして死ぬのはもっとイヤだ。いや、その可能性は、万が一どころではないかもしれない。力一杯、両手で龍にしがみ付きながら、彼は、全身で身構えて、来るべき衝撃に備えた。それは、落下が始まってから、時間にして、およそ数秒にも満たなかったに違いない。しかし、その数秒が、かれにはとてつもなく長く感じられた。彼は、待った。着水と衝撃と、それに続くはずの沈下を待ち続けた。しかし、いつまで経っても、訪れない。

(あ・・・れ・・・?)

さすがに何か変だと感じて、雅弥はぎゅっと閉じていた目を恐る恐る開いてみた。目の前に、帆柱があった。その根元には小さな将棋の駒のような木片が、セロテープで不恰好にぐるぐる巻きつけて貼られている。自分は、小さなヨットの上に腰を下ろしていた。疾風号だ。周囲には、夜の湖面が静かに広がっている。湖面を渡る気持ちの良い微風が、頬を撫でる。慌てて振り返ると、綾乃が船底にぺたんと座り込んで、ぼんやりした表情でいる。

「藤森さん?」

務めて穏やかに、彼は声を掛けてみた。

「ねえ、藤森さん、大丈夫?」

 綾乃が、のろのろと顔を上げた。まだ、何となく虚ろな目をして、焦点がよく合っていない。

「ええ・・・、」

震える声で、彼女は、答えた。

「平気です。でも、まだ、ちょっと気持ちが悪い・・・かな。船酔いみたいな、乗り物酔いしたみたいな気分で。」

「ああ、わかる。」

雅弥は、心の底から同意した。自分も、ジュエットコースターに乗って、目が回った後のような気持ちの悪さを未だに引きずっていた。目の前がぐらぐらして、胃がぎゅっと冷たい手で掴まれているような、軽く吐き気を覚えるような、何か温かい飲み物、出来れば熱いミルクティみたいなものを大きなマグカップ一杯、飲み干したいと思った。そうすれば、少し、気分がよくなるかもしれない。

 綾乃は、じっと彼の顔を見詰めた。

「あれは・・・、あの龍は、消えちゃったんですか?」

そう尋ねられても、雅弥には何も答えられなかった。あの時、急降下する龍は、確かに湖に飛び込むのだと彼は確信していた。しかし、その龍に乗っていた自分達は、今、こうしてヨットハーバーの船の上に何事もなく居る。

「さあ・・・わからない。」

曖昧に、彼は言葉を濁した。そうしているうちに、なんだかこれまで立て続けに起こった出来事全てに、だんだんと確信が持てなくなってきた。あの暗い地下水路も、夜の校長室も、戒壇巡りから通じる巨大な地底湖も、全部、そんなものは存在しなかったのだろうか。自分達は、ずっとこの小さなヨットに二人して座っていただけではないのか。

「ひょっとして、龍なんて、本当は全然、居なかったのかな?」

思わず彼が、ぽつりとそう呟くと、しかし、静かに綾乃は首を振った。そして、彼の目の前に、よく日に焼けた彼女の両の手のひらを突き出した。小さな、何箇所か擦り剥けて豆が出来いる手のひらだった。毎日、船上で巧みにロープを操作している手だ。

「な、な、な・・何?」

いささかぎょっとして、雅弥は座ったまま思わず後ずさり、マストに後頭部を軽くぶつけた。すぐ目の前の手のひらと、彼女の顔を交互に見比べる。けれど、綾乃はあくまで真剣な表情を崩さなかった。

「匂い。」

と、彼女は言った。

「匂いが、します。」

雅弥は、訳のわからないまま、彼女の手のひらに顔を近づけ、匂いを嗅いだ。涼やかで、それでいてほんのりと甘い芳香が漂った。そのすっきりと馥郁たる香りには、覚えがあった。白檀の香りが、綾乃の手のひらに染み付いているのだった。雅弥は、そっと自分の手のひらを鼻に近づけて、嗅いでみた。同じ香りがした。

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