第21話 地底湖

 遠のいた意識が再び戻った時、背中をものすごい力で容赦なく叩かれていた。

 痛みの余り、雅弥は苦痛のうめき声を上げようとして、口から少量の水を吐き出した。

「おい、やめろよ。よせってば。」

雅弥は背中に振り下ろされる複数の拳の乱打を避けようとして身をよじり、仰向けにひっくり返った。背中にごつごつとした岩が当たるのを感じたが、その方が、まだ全然痛くなかった。くらくらしながら、ようよう目を開けると、真っ青な顔をした宗佑と小夜香が、彼の顔を覗きこんでいた。

「大丈夫? ねえ、大丈夫?」

小夜香が、また拳を握りしめながら、つめよった。「水、全部吐いた?」

「大丈夫! 平気! もう、全然、平気だから!」

慌てて身を引きながら、これ以上、殴られてはたまらないとばかり、雅弥は彼女を必死に落ち着かせようとした。

「っていうか、まじ痛てーよ、おまえら。」

「ふん、何よ。」

柳眉を逆立てた小夜香が、険しい顔をした。「こっちは、死ぬ程、心配してたんだからね。このまま目を覚まさなかったら、もう宗佑に人工呼吸させるしかない、って思いつめるくらいだったんだから。」

「いや、本当だよ。」

隣で宗佑が、弱々しく同意した。いつもの春風駘蕩の落ち着いた風情はすっかり影を潜め、余程心配していたのだろう。まだ、顔色が悪い。

「おまえさ、あそこからいきなり水と一緒に噴き出してきて・・・。」

「えっ? 俺がどっからだって?」

びっくりして、雅弥は周囲を見渡した。そういえば、そもそもここはどこだ?

 彼らが居たのは、黒っぽい岩棚のような狭い場所だった。片側は、壁のようにそそり立つ岩場になっており、もう片側は崖のように急な斜面になっている。そして、自分のそばに、もう一人、思いがけない人物がしゃがみ込んでいるのが目に入って仰天した。

「降旗? な、なんでおまえが、ここに居んの?」

「ご挨拶だなぁ。夕方、俺に電話してきたのは、そっちじゃないか。」

それから、康治は、足元の斜面の下を指差した。

「あそこの小さい池みたいな、ほら、水が溜まってる窪みみたいなとこの奥に、洞窟の入り口が見えるだろ? あそこからおまえ、水と一緒に流されて出てきたんだ。その時は、もっと水位が高かったから、浮かび上がったおまえを俺とそいつ(と、宗佑を顎で指した)とで、おまえをここまで引っ張り上げたんだ。今は、まただいぶ水が減ったけど、またいつ水かさが増すかわからないからな。そのうち全部、湖のほうへ流れ込んじまうみたいだけど。」

「湖って?」

「見た方が、早い。来てみなよ。」

そう言って康治は立ち上がった。雅弥も、まだ少し気持ちは悪いものの、それでもだいぶ調子が落ち着いていたので、宗佑の手を借り、よろよろと足を踏ん張り立ち上がった。四人で、岩棚から続く崖へと細い道を少し上がると、いきなり視界が開け、そこには満々と水を湛えた地下の巨大な湖が黒々と横たわっていた。彼らがいる崖は、その湖の水を塞き止める壁のようにそそり立ち、周囲の岩の窪みには、取り残された水が池や水溜りになってに所々に点在していた。水底が、淡黄色の光で鈍く輝いている。雅弥が浮かび上がったという小さな池も、そうした水溜りのひとつであるらしかった。

「ついさっきまで、あの辺の水溜りも湖の一部だったんだ。今はかなり水が減って、岩が露出してきてるけど。この場所では、まるで呼吸するみたいに水が増えたり減ったりするみたいだ。ほら、あの辺の岩場は、まだ全部水没してるだろ。水門のこちら側は、位置的に湖より少し高いようだから、本当なら・・・。」

康治の言葉に、雅弥は息が止まりそうになった。

「水門!? 今、水門って言ったか?」

「あ、ああ、うん。」

いきなり話を遮った雅弥の剣幕に面食らったように、康治は怪訝そうな顔をした。

「どこ?」

「あそこだよ、ほら。見えるだろ。」

彼が指差した方向に目を凝らすと、確かに湖を塞き止める崖のあわいに鈍く光る鉄製の水門が、一際高く屹立していた。

「あった。」

押し殺した声で、雅弥は呟いた。それから、宗佑の方へ向き直った。

「丸山、ちょっと手伝ってくれ。」

「へ? 何を?」

「あの水門を開けるんだ。」

答えながらもう、雅弥は歩き出していた。宗佑が戸惑った表情のまま、後に続いた。小夜香が、付いて行こうか迷う素振りを見せたが、康治がそれを引き止めた。

「ここで待っていた方がいい。危ないといけないから。」

彼女は何か言い返しかけたが、珍しく言葉を飲み込み、大人しくその場に立ち尽くして、雅弥と宗佑の動きをじっと目で追った。

 二人は岩場を危なっかしく進み、それでも案外、難なく水門辿り着いた。水門の足元には、深く切れ込んだ岩の間を流れる水流が見えた。

「でも、これ、どうやって開けるのさ?」

水門を見上げながら、宗佑が尋ねた。雅弥は、左右をざっと素早く見渡した。水門は、木製の枠に鉄板を嵌め込んだ構造で、その鉄板からは、何本かのワイヤーが複数伸びている。そのワイヤーの先を目でたどって行くと、

「あった。」

雅弥は、宗佑の腕をひっぱった。「あそこにハンドルがある。」

 木枠部分に取り付けられた大きな鉄製のハンドルに雅弥は近づき、しげしげと検分した。ハンドルの上部には、ハンドルが勝手に動くのを固定するために、薄い金属板ががっちりと被せてある。雅弥は、ポケットに手を突っ込み、水門の鍵を引っ張り出すと、覆いの部分にあった鍵穴に差し込んだ。目論見通り、鍵を回すと、ハンドルを固定していた金属板が緩んで外れた。

 彼は、すぐさまハンドルを握り、回そうと力を込めたが、ぴくりとも動かない。

「どれ、貸してみて。」

宗佑が交代して、ハンドルを握った。

「固いな。」

と、彼は顔をしかめた。「なんか、かなり錆付いてるっぽいかも。すっかりくっ付いちゃってる・・・。」

しかし、次の瞬間、ぐいっと押した手応えが、不意に軽くなり、ハンドルが徐々に回転を始めた。そ一旦、動き始めると、どんどん回し易くなり、頭上で複数のワイヤーを噛んだ歯車がぎしぎしと軋みながら、水門を閉じていた鉄板が、徐々に上昇を始めた。

「これ、あとで油とかさしておいた方がいいかもねぇ。」

宗佑が手を止めて、痛む手のひらを擦りながら苦笑した。

「俺、代わるよ。」

その後、二人して交代でハンドルを回すうち、ついに水門が一杯に開き、飛沫を上げながら怒涛の勢いで湖へ向かって滔々と流れ込み始めた。ハンドルを再び金属板で固定してから、雅弥は開放された堰の上によじ登って立ち、湖の方へ目を凝らした。対岸は薄闇の中に溶け込んで、しかとは見えない。ただただ流れてゆく水の音が耳を聾せんばかりに響くばかりだ。それは、彼が予想していたよりも、ずっと壮大な光景だった。自分がこれほど広大な場所に居たとは、今の今まで彼は理解していなかった。

雅弥の背中を宗佑が、ちょんちょんとつついた。

「何?」

「小夜香が呼んでる。ほら。」

見ると、こっちへ向かって、彼女が大きく手を振っている。その隣で、康治が岩棚の下の方を指差して何か叫んでいるが、水門を流れる水音に声が遮られて聞き取れない。

「戻ろう。」

宗佑に促され、二人は堰から離れ、急斜面の崖を危なっかしい足取りで、出来るだけ急いで降りた。

「見て見て、洞窟から水が引いて、出口が完全に出てる。今なら、あそこを通り抜けてここから抜け出せるんじゃない?」

興奮した面持ちで一息にそう告げる小夜香に、雅弥は戸惑った視線を投げた。彼女が、何をそう騒いでいるのか今一つピンと来ていない。

「だからぁ、」

じれったそうに、つま先で地面を蹴りながら、彼女は噛んで含めるように言って聞かせた。

「あんたが流れ着くずっと前から、私達、ここで身動き取れなくて、で、どうしてかっていったら、あの洞窟の入り口が、水没してて通れなかったからで。だから、水が引いた今が、抜け出すチャンスなわけ。」

「そういうこと。」

と、横から康治も口を出した。「ほら、見てみなよ。」

彼が指差す先に、さっき水と一緒に雅弥が流れ出て来たと聞かされた池があり、その奥のさっきまで半分ほど水に浸かっていた洞窟の入り口が、ほとんど全体を水面から出して、ぽっかりと開いた暗い穴をすっかり露にしていた。洞窟の前の溜まって出来た小さな池も、今やほとんど岩だらけの底を晒して干上がりかけていた。そこばかりではなかった。周囲に点々と残っていた水溜りも、急速に水位を下げ、姿を消しつつあった。

「でも、どうして水門を開けただけで、こっち側の水まで、こんなに急に減ってるんだろう?」

雅弥の後ろから、宗佑が周囲を見渡しながら不思議がった。

「さあねえ。もしかすると、底の部分で繋がっていて、そこから水が流れ込んでる可能性はあるかもね。それなら一応、説明はつくかな。本当にそうかは、わから水はほとんど引いていて、ところどころに点在する水溜りに、せいぜいくるぶしの深さの水が残っている程度だった。皆は、足早に進み始めた。

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