第19話 地下水路

 何だか、ゆらゆらする。それは、一定の心地良いリズムを刻み、揺籃の中で微睡んでいるような気分だった。雅弥は、のろのろと目を開いた。周囲は、薄ぼんやりとして、黄昏色のほの暗さに包まれている。誰かが、自分の顔をじっと覗きこんでいる。その目が、涙ぐんでいるように見えて、彼は動揺した。

「良かった・・・。」

綾乃が、胸を撫で下ろしたように、嘆息した。

「全然、目を覚まさないから、どうしようかと思って。」

雅弥は、身じろぎし、起き上がろうとしたが、綾乃の手にそっと押しとどめられた。

「立ち上がらないで。ゆっくり起き上がって、そのまま座って下さい。」

言われた通り、彼はできるだけ静かに上半身を起こした。動くと、まだ少し、頭がふらふらした。

「ここは、どこなんだろう?」

周囲を見回しながら、彼は尋ねた。

「私達、烈風号に乗ってるんです。でも、ここがどこだかは・・・。」

困惑したように彼女は、言葉を途切らせた。雅弥は、船べりに手を掛け、じっと前方へ目を凝らした。そこは、細長い水路のような場所に見えた。人工的な、とても真っ直ぐな水路だ。小さなヨットは、そこをゆっくりと、しかし、速度を保って、着実に進んでゆく。

「とても、不思議です。」

そっと綾乃が、呟いた。

「風もないのに・・・、そもそも帆だって張っていないのに、さっきからずっと、こうやって進んでいくんです。多分、水路の流れに沿って、流されているんじゃないかと思うんですけど。」

彼女の言葉通り、白いヨットは、停泊地に係留されていた時のまま、帆はきちんと折りたたまれて、仕舞われている。頭上を見上げると、そこは真っ暗で、月も星もない。いや、むしろ、そもそもそこには空など最初から存在していないように思われた。大気の気配が、風が通う空気が、まるで感じられないのだ。自分達は、今、閉ざされた空間に居るのだ、と直感的に彼は悟った。例えるならば、高い天井と壁に囲まれた、地下の運河のような場所だ。しんとしていて、ひそやかだ。そうして、光源もないのに、黎明のようにぼんやりと淡い光が水面を照らしている。

 雅弥は、目の前に屹立する、烈風号の帆柱をしげしげと仔細に眺めた。帆布のない柱の根元には、『渡』の朱文字のある木札が、先程、見た時と寸分も狂わず同じに、セロテープで不恰好にぐるぐる巻きにして貼られてある。帆柱には、焦げ痕一つ、傷一つ、見当たらない。

「変だな。」

と、彼はひとりごちた。「さっき、このマストに、雷が落ちたのかと思ったんだ。」

綾乃が、頷いた。

「私も、そう思いました。っていうか、見ました。真っ白な稲妻が光って、マストに落ちるのを。そして、マストの前に居た岩崎君が、吹っ飛んで投げ出されて、それで・・・多分、私もしばらく気を失っていたんだと思うんです。でも、気が付いたら、ここにこうしていて、岩崎君が倒れていて・・・。」

そこで、彼女は、言葉を切り、かすかに身震いした。

「もう、俺、大丈夫だから。どこも怪我とかしてないみたいだし。藤森さんは、大丈夫?」

綾乃は、にっこりした。

「平気です。でも、私達、これからどうなるんでしょう?」

その問いには、雅弥も答えられなかった。そして、不意に、宗佑と小夜香のことを思い出して、心臓を冷たい手で掴まれたような不安が、再び蘇った。あの唐突に切れた電話の様子からして、二人の身に何か得体の知れない災難が降りかかったに違いない、としか思えなかった。一刻も早く、松本城の月見櫓へ駆けつけなければならないのに、自分は、今、こんなわけのわからない所になすすべもなくこうして居る・・・。思いついて、ポケットから携帯を出してみた。開くと電源が入って、手元を照らした。しかし、アンテナは壊滅状態であった。外の世界との連絡は、一切、断たれているようだった。

 「見て、あそこ!」

綾乃の声がした。舳先に座った彼女が、前方を指差している。

「何か、光ってませんか? あの先の方のとこ。」

確かに、ぽつりと遠く、黄色い灯りが点っている。烈風号は、その光を目指しているように思われた。やがて、行く手に何か細長いものが、薄暗がりの中からぼんやりと迫ってきた。近づくにつれ、それが古い木製の桟橋であることがわかった。明かりは、その桟橋に設けられた、古風な常夜灯からの光であることが見て取れた。

 まもなく、小さなヨットは、何者かに導かれるように、進んでいった。そして、滑るようにして桟橋へぴたりと横付けした。それきり、停船したまま、動かない。

「行こう。」

雅弥は、綾乃を促し、用心深く中腰の姿勢のまま、桟橋へと乗り移った。その後を、身軽な慣れた動作で綾乃が続く。彼女は、烈風号を得体の知れないその場所に残してゆくのをやや躊躇う風情であったが、船のとも綱を桟橋の橋脚にしっかりと結びつけたのを確認して、雅弥に向かって頷いて見せた。それから、彼らは桟橋を真っ直ぐに歩き始めた。踏みしめる度に、足元の板が、軋んでぎしぎしと鳴った。いつしかそれは廊下の板張りに変わっていた。背後の水の気配が、次第に遠ざかり、両側を羽目板を施した白い漆喰の壁に囲まれていた。トロファーや賞状で一杯の古ぼけたガラス戸の飾り棚が置かれたそこは、まぎれもない夜の人気のない音和高校校舎だった。飾り棚の横を過ぎると、校長室である。廊下の窓のすりガラスから、明かりが漏れていた。しかし、それは明らかに白い蛍光灯ではない、柔らかな黄色味を帯びた光だ。梶の葉の紋が下がった校長室の扉の前で、雅弥は一瞬、迷い、それから思い切って心を決めると、ドアを叩いた。

「お入り。」

中から声がした。思い切って、扉を開けると、奥の机に座っていた初老の男性が顔を上げた。たった今まで、書き物をしていたのだろう。右手には、万年筆が握られ、机の上にはたくさんの本やノートが散らばっている。

「どうしたました?」

丸縁の眼鏡が、ランプの灯心の投げる炎に反射して、きらりと光った。真夏だというのに茶色い毛織地の三つ揃いを着て、きちんと襟飾りをつけている。短く刈った頭は、白髪交じりのごま塩である。いきなり現れた雅弥達の姿に驚くこともなく、落ち着いた声だった。

「あの、お願いです。」

と、雅弥は擦り切れた赤褐色の絨毯の上を前に進み出て、必死になって訴えた。「友達が、大変なんです。お城の・・・、松本城の月見櫓にある通路から水が溢れてきたって、電話があって、でも、それっきり電話が切れてしまって・・・。」

しかし、そこで言葉に詰まってしまい、彼は途方に暮れてその場に立ち尽くした。こんな荒唐無稽な話を、一体、誰が信じるというのだろう。彼は、苦々しい絶望と共にそう考えた。宗佑も小夜香も、もうとっくに水に飲み込まれてしまったに違いない。きっと何もかもが、とっくに手遅れなのだ。自分が、何一つ出来ずに手をこまねいている間に。

 けれど、先生は、頷くと立ち上がり、雅弥の横を抜けて、ちょうど綾乃が立っていた扉近くの壁に、たくさん掛かっている鍵の中から、一本の大きな鉄製の鍵を選んで取ると、雅弥へ差し出した。

「これを使いなさい。これで、水門を開いて水を抜き、水神を湖へ渡らせてやりなさい。そうすれば、城の地下の水は静まり、全て元通りになる。」

雅弥は、半ば反射的に鍵を受け取った。黒い鉄製の、重い鍵だった。

「水門へは、戒壇巡りの極楽の鍵を壁の鍵穴に差して開ければ、そこへと通じる道へ出る。ただし、水かさが増しているかもしれないから、気をつけなさい。あの場所では、龍の呼吸に合わせて水が増減するとも言われているが、それが本当かどうかは、誰にもわからないからね。」 

「で、でも・・・。」

思わずどもりながら、雅弥は、先生を縋るように見た。

「水神を渡らせるって、一体、どうやって・・・?」

「君は、もう水神の化身を受け取っているじゃないか。」

先生は、諭すように、励ますように、力強く答えた。

「あれを、空へ放ってやりなさい。その時に、印を掲げるのを忘れないように。君達が、正式な使いの者だとわかるようにね。」

説明しながら、先生は扉を開け、外の廊下の壁に掛かっていた諏訪清涼高校の梶の葉の校章を釘から外し、綾乃へと手ずから渡した。

「清涼の生徒さん、あなた方が昔の誓いを忘れず、今でもこうして音和の良き友人であることに、私は心から感謝しますよ。この尊い友情が、これからも末永く続きますように。」

先生に優しくそう言われた綾乃は、あまりに次々に起こる予想の付かない事の成り行きに付いてゆけず、言葉もない様子だったが、差し出された印の布をおっかなびっくり受け取り、それから先生を見上げて、やっと緊張が解けたようににっこりした。

「さあ、もう行きなさい、私の生徒達。急いだ方がいい。」

先生の言葉に、雅弥ははじかれたように我に返り、手のひらの中の鍵をぎゅっと握りしめた。

「ありがとうございます。行って来ます。」

彼は、ぺこりと一礼し、綾乃と共に校長室を足早に後にした。

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