第18話 落雷
モスバーガーの出入り口前で、携帯を握ったまま、考えて込んでいると、
「あの・・・。」
遠慮がちに声を掛けられた。びくっとして顔を上げると、綾乃であった。荷物を抱えて、目の前で困惑顔で立っている。
「中で、待っててくれてよかったのに。暑くなかったですか?」
「えっ! ううん。大丈夫。」
「ええと、良かったら、中に入りませんか?」
「あ、うん。」
急いで雅弥は携帯をポケットに突っ込み、先に立って、自動ドアから中へ入った。店内の冷房の涼しい風が吹き寄せてきて、一気に背中までひやりとし、汗が引っ込んだ。
二人はとりあえず飲み物を買い、向かい合わせに席についた。綾乃は帽子を脱いで、サングラスを外した。見覚えのあるあどけない顔が、蜻蛉祭の時に会った時よりも更によく日焼けして、小麦色の肌になっている。
「あんな所に居るから吃驚しましたよ。」
ホットの抹茶オレを飲みながら、雅弥はむせそうになった。
「ごめん。」
どぎまぎしながら、謝ってしまった。綾乃は、指先でこつこつとテーブルを叩きながら、首を傾げた。ストーカー扱いされなきゃいいけれど、と内心で、彼は縮み上がった。
「あ、あの、それで、何を話したかったかというとね。」
雅弥は、手短に昨晩の出来事を語った。至誠高校の生徒に声を掛けられたこと、書を渡されたこと、綾乃が掛けた諏訪清涼高校の校章が、その合図だったこと。綾乃は、一言も口を挟まず、真剣に耳を傾けていた。
「それじゃ、私があそこに掛けた印は、その習字を音和に渡すためのものだった、ってことなんですね。」
一通り話し終えると、ようやく彼女は、確認するように念を押した。
「うん、まあ、そうみたい。」
「それ、見せてもらってもいいですか?」
「えっ? ああ、いいよ。」
デイバックから、ごそごそと彼は黒い筒を引っ張り出して、綾乃に渡した。彼女は、中から丸められた紙を取り出し、広げるとしげしげと眺めた。
「『飛龍吉祥』。」
声に出して、彼女は読み上げた。
「綺麗な字ですね。でも、どういう意味なんでしょうか?」
尋ねられて、雅弥は言葉に詰まった。依然として、その書の意味は、わからない。しかし、彼は、この時、初めて「龍」という文字に注目した。さっき、康治は「あそこには、龍の気が流れている」だの、「城の地下にはさ、龍がいるとか何とか、そういう伝説?みたいのがあるらしい」などと言っていたではないか。そして、自分達も、城の月見櫓でお堀から姿を現した龍を目の当たりにしたではないか?
「岩崎君?」
怪訝そうに綾乃に声を掛けられ、雅弥ははっと我に返った。
「いや、その、よくはわからないんだけど・・・。文字通りの意味なら、飛ぶ龍がおめでたい、っていうことで。
「それで、これをどうするんですか?」
「そこなんだよ。」
と、彼は、すかさず食いついた。
「実は、これ、受け取ったはいいけど、どうしたらいいかわかんなくて、困ってて。何か、心当たりとかない? 部活の先輩達から、何か聞いてたりとかしてない?」
綾乃は、気の毒そうに、しかし、きっぱりと首を振った。
「いえ、ないですね。」
「じゃあさ、蜻蛉祭の後、何か他に変わったことはない? また御神籤引いたとか、神社に行ったとか。」
彼女は、再び首を振った。
「そうか・・・。」
がっかりしながら、雅弥は、綾乃が返してよこした書の紙をくるくると丸め、のろのろと筒へ戻した。もともと駄目もとで来て見たのではあるが、やはり何か手がかりになることが見つかりはしないかと、多少は、期待していたのだ。
「あ、そういえば!」
不意に、綾乃が声を上げたので、雅弥はびくりとした。
「私が引いた、あの『渡』の籤の札、あれを烈風に、えっと、烈風号っていうのは私がいつも練習の時に乗ってるヨットの名前なんですけど、その船のマストに、部長がその札を貼り付けたんです。」
「御神籤の札を貼り付けた?」
ぽかんとして、雅弥は問い返した。
「なんで?」
「わかりません。部長も、理由は知らないみたいでした。ただ、そうするものだから、って。」
「それ、見せてもらってもいい?」
「いいですけど、ただの木の札ですよ。小さくて、将棋の駒みたいな。」
「うん。でも、とりあえず、見てみたいんだ。」
雅弥が、カップに残っていた抹茶ラテを一気に飲み干し、素早く立ち上がると、つられるように綾乃も席を立った。
店を出ると、さっきまでの眩しい夕方の光は薄れ、いやに空がうす暗く翳っていた。二人は、揃って、空を見上げた。不穏で分厚い灰色の雲が、むくむくとわいて、頭上に重苦しく垂れ込めていた。空気に、雨の匂いが微かに入り混じっていた。夕立の前兆かな、と思った途端、腹の底に響くような低音で、遠雷がゴロゴロと鳴って、雅弥は、ぎくりとした。
二人は、足早にヨットハーバーへと戻った。綾乃は、港の端に停泊してある小さなヨットの群れの中の一艘へ、彼を導いた。船はどれもすっかり下ろした帆をきちんと畳まれて、波間に行儀良く並んでいる。
「こっちが、順風号、その横のが、疾風号、そして、これが烈風号。」
彼女は、そう指差して、説明した。
「全部、風の名前が付いてるの?」
「ディンギーは。カッターも、二艘あって、そっちは、阿修羅号と韋駄天号っていうんです。」
そう綾乃は、解説してくれたが、ヨットの違いなど雅弥にはよくわからないから、曖昧に頷いておいた。
「ちょっと待ってて下さいね。」
綾乃は、そう言い置いて、まず自分が船に乗り移った。それから、上にかかっていた防水シートをよけた。
「乗って。重心をなるべく低くして、乗ったらすぐに座ってね。」
雅弥は、綾乃の指示を受けて、おっかなびっくり乗り込んだ。一歩、身体を動かすごとに、船底が不安定に揺れて、はなはだ心許ない。ひやひやする。
「ほら、ここ。」
綾乃が、マストの根元の部分を指差すので、膝を突き、にじりよって眺めると、小さな木片が、セロテープでぐるぐる巻きにして、不恰好に貼り付けてあった。『渡』の一文字が朱色で鮮やかに書かれている。
「なんでまた、セロテープなんかで!」
ついそう呟くと、綾乃が隣でクスクス笑った。
「最初、二年の先輩が、アロンアルファでくっつけようとして、部長が慌ててとめたんです。剝がす時、困るからって。」
有賀だっ、有賀が、ここにもいるぞ!と、雅弥は、内心で大騒ぎしながら、連呼した。困った人というのは、そこらじゅうに居るものなのだな、としみじみ思った。
「それで、とりあえず、セロテープをぐるぐるに巻きつけて、無理やりくっつけたんですよ。確かに見た目は良くないけど、マストって丸いから、こうでもしないとしっかりくっつかないんですよね。」
「でも、剝がす時、っていつ剥がすの?」
雅弥が疑問に思って尋ねると、綾乃は、さあ、と首を傾げた。
「部長は、特にいつもとも言ってなかったですけど。」
その時、灰色の空にジグザグの光がぱっと走った。続いて、ピシッ、ドーンという雷鳴が轟いた。
「降るかな?」
渦を巻いた鉛色の雲を見上げると、携帯が鳴った。宗佑からだ。
「あっ、岩崎、大変だよ。」
慌てふためいた宗佑の声がした。
「通路に水が出てるっ!」
「は?」
意味がわからず、雅弥は聞き返した。
「だからー、通路に水が出てるんだってば。お城の、あの地下通路。」
ますます雅弥は、面食らった。
「だって、なんであんなとこに水なんか・・・っていうか、鐘どかしたのか?」
「小夜香が、なんか変な音がするって言うから、どかしたんだよ、そしたら・・・。」
「よく二人だけで動かせたな。」
「持ち上げたわけじゃなくて、茣蓙ごと引っ張るだけだったから、割に楽に動かせたよ。で、床板を開けたんだ。そしたら、梯子のもうかなり上の方まで水が上がってきてて。ねえ、これ、やっぱ、どっかに通報したほうがいいと思う? 消防署? それとも、警察?」
「ええっと・・・。」
混乱しながら、雅弥はとりあえず状況を把握しようとした。いつも穏やかで泰然自若と暢気な宗佑が騒ぎ立てるなど、尋常ではない。だが、通路に水? なんであんな所に、水が出るのか?
「まずは、落ち着けよ。誰か、人、呼べるか?」
「もうとっくに閉城時間は過ぎてるから、誰も居ない。忍び込んだのバレたらまずいけど、でも、放っとくわけにもいかないし・・・このまま床まで水が上がってきたら、月見櫓が水浸しになっちゃうよ。どんどん水位が、上がってきてる。」
そう言う宗助の口調も、どんどん取り乱し気味になってゆく。
「有賀も、そこに居るのか?」
「うん、動画撮ってる?」
「はぁ? 動画? 何の?」
「だから、通路の水のだよ。僕が通報する?って小夜香に聞いたら、絶対、信じてもらえないから証拠として添付するって言って。かなり暗いから、どこまで撮影できてるかわからないけど。」
諏訪湖の上を、再び稲光が走り、ほとんど同時に、轟音が響き渡った。ひどく近い。後ろで綾乃が、びくっと身を震わせる気配がした。しかし、今は、宗佑から伝えられた緊急事態に気をとられて、雅弥には、彼女を構っている余裕はなかった。受話器の向こうで、何やら宗佑たちが慌しく言葉を交わしている声が切れ切れに聞こえる。
「おい、丸山、どうした?」
「いや、なんか急に、水が引いてきた、って小夜香が・・・。」
「えっ?」
「あ、本当だ。ぐんぐん水位が下がってく・・・どうしたんだろ? よく、見えないな・・・。」
少し間があってから、不意に、
「もしもし? 私だけど。」という小夜香のぶっきらぼうな声がした。
「なあ、さっきから、一体、どうなってるんだ?」
「地下通路が、水で一杯になってるの。今、引いてきてるけど・・・さっきは、もう床穴のすぐ下にまで水が来てたんだけど。なんか、変な音がしている。ほら、お風呂の栓を抜いた時、最後に渦を巻いてゴボゴボってなるでしょ、ちょうどあんな・・・ちょっと、宗佑、そんなに穴の縁まで行ったら駄目だってば。もし、また・・・きゃあああ。」
突然の悲鳴に驚いて、雅弥は携帯を危うく取り落としそうになった。電話の向こうで、宗佑! 宗佑!と叫ぶ、小夜香の悲鳴が、不明瞭に切れ切れに聞こえたかと思うと、ぷつりと途絶えた。
「有賀! 有賀! 何が起こった? 返事しろよ。」
しかし、それきり通話は途絶えてしまった。雅弥は、携帯を握りしめたまま呆然としていた。何かひどく良くないことが二人の身に降りかかったにちがいないという予感が、振り払っても振り払っても心の中に湧き起こって消えなかった。心臓が、早鐘のように打ち、呼吸が苦しくなった。肩にそっと触れる手があって、振り返ると、綾乃が、半ば怯えたような目で、もの問いたげにこちらを見ていた。説明しなくては、と彼は思った。
「友達に、何か・・・事故が起こったかもしれない。すぐに行かないと。」
しぼりだすように、やっとのことで雅弥は、そう告げた。あの二人のところへ、今すぐ行かなくては。
その時だった。
目も眩むような閃光が、空から一直線に、白い炎のように烈風号のマストを直撃した。耳をつんざく衝撃音と共に、彼の身体は吹っ飛んだ。それっきり、目の前が真っ暗になると、何もかもわからなくなった。
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