第17話 ヨットハーバー

 翌朝、夜間遠足参加者達は、朝食を済ませた後、解散となった。その後、康治と言葉を交わすことはなかった。郷友館では泊まる部屋も別々だったし、朝食の時に見掛けはしたが、互いに特に話しかけることもなく、双方そ知らぬ顔でやり過ごした。おそらく、康治はもう、昨夜のうちに言うべきことは全て伝え終えたのだろうと雅弥は判断した。

 その代わりに、吹奏楽部の朝練にこれから行こうとする宗佑を捕まえて、昨晩康治とのやりとりを語って聞かせた。

「じゃあ、校長室の前の合図は、至誠高校へ向けてのものだったわけだね。」

雅弥から渡された「飛龍吉祥」の書をしげしげと眺めながら、しかし、宗佑は納得のゆかない顔をした。

「でもさ、諏訪清涼高校から、長野至誠高校への合図を、なんで松本音和の校長室前にわざわざ掛けるかな?」

「これを、俺らに渡すための合図だからじゃねえの。」

雅弥は、顎で書を指した。

「それにしても、こいつをどうすればいいのか、さっぱりわからん。」

「その至誠の特選のやつ、ええっと・・・なんてったっけ。」

「降旗。」

「ああ、うん、その降旗っていうのは、何も言ってなかったの?」

「知らない、ってさ。そっから先は、音和の問題だろ、って感じの口ぶりだったけど、でも、別に隠してるわけじゃなく、本当に知らないみたいだった。」

「ふうん。だったら、うちの応管の先輩達にでも聞いてみるしかないねぇ。」

宗佑は、溜息をついた。なんだか疲れていて、物憂げな様子だった。いつもにこにことして優しげな目元が、今朝は少し腫れぼったい。

「そういや、有賀を見掛けないけど、どうしたの? あいつにもこのこと話すつもりだったのに。」

「ん? 小夜香なら、昨日の夜、後片付け済ませたら帰ったよ。うちの人に車で迎えに来てもらって。」

「そうなんだ。」

昨夜の康治の話を思い出し、雅弥は含みのある目つきで、宗佑をじっと見据えた。

「な、なんだよ?」

宗佑が、落ち着かなげに、問い返した。

「別に。たださ、昨日の夜、俺がそうやって至誠の特選と話をしている間、有賀とおまえは、どこで何してたのかな?」

ばつが悪そうに、宗佑は、雅弥から視線を逸らした。

「ある信頼すべき筋からの情報によるとだな、その時、有賀はおまえの膝の上に座ってたらしいけど?」

中庭のベンチの上で、宗佑がそわそわと落ち着かなげに身動きするのを、雅弥は氷のような冷ややかな視線で眺めた。

「いや、だから、あれは! その、なんていうか・・・。」

「不潔! 汚らわしい! 近寄らないでっ!」

「ご、誤解だってばっ! 僕は、決してそんな疚しいことは・・・って、なんで僕、おまえに言い訳してんの? っていうか、なんでおまえ、女言葉!?」

「特に意味は、ない。」

澄ました顔で、雅弥は、答えた。

「ただ単に、面白いから。」

「勘弁してよ、もう・・・、おまえがその顔で言うと、冗談にならないんだからさ。」

がっくりとうなだれながら、宗佑は呟いた。雅弥は、にやにやしている。宗佑は、恨めしそうな顔をした。

「そりゃ確かに小夜香のやつ、昨日はいやに積極的だったのは認めるけど、あれは、絶対、うちの兄貴に対する当て付けだから。わざとなんだ。対抗意識なんだよ。」

「あのさ、いまいち俺には、おまえらの三角関係がよくわからんのだが。丸山さんは、過保護なの?」

「うん、過保護だよ。昔から、ちょっとどうかと思うくらい、過保護だったんだ。まあ、兄貴からすれば、弟が何事に付け頼りなくて、心配だったんだろうと思うけど。」

「ああ、心配性なのか。」

「そう、それ。それでもって、どういうわけか、兄貴は、小夜香のことが最初から気に入らないらしくて・・・。なんか、頭っから毛嫌いしていて。そういうのって、兄貴には、珍しいんだけど。あの人、めったに誰かに敵意を向けたりしないんだよ。むしろ博愛主義だと思ってた。だから、結構、びっくりしたんだけど・・・。」

今度は、雅弥が、溜息をついた。ああ、そういうことか、と合点がいった。

「あまえ、案外、馬鹿だなぁ・・・。」

「えええ! なんで!?」

「だって、丸山さんが、有賀を嫌う理由なんて明白じゃないか。」

「そうなの!?」

「おまえが有賀に、優しいからでしょ。」

「へ?」

あからさまに宗佑は、困惑した表情になった。

「だからさ、丸山さんはお前のこと、可愛がってたんだろ。なのに、おまえは有賀のとこに行っちゃって・・・。」

「いやいや、行っちゃって、ないよ。ただ単に、付き合ってるだけ!」

「同じことだろ、丸山さんにしたら。おまけに有賀って、あんなんだし。そりゃ、兄貴としては、いやみの一つも言いたくなるだろ。心配なんだよ、可愛い弟が。」

「それは、同じく弟を持つ兄としての意見?」

やや皮肉っぽく、拗ねたように、宗佑が尋ねた。

「いや、まあ、確かに俺も弟いるけど。でも、うちのは、兄より要領良いくらい抜け目がなくて、ちゃっかりしてるから、全然、心配とかはないなぁ。あ、でも、もしも、あいつが有賀みたいなのと付き合うってい出したら、さすがにちょっとは心配するかも・・・。」

「そうは言うけど、小夜香は、本当は、そんなに悪い子じゃないよ。岩崎だって、知ってるだろ?」

「うん、知ってる。むしろ、良い奴だ・・・っていう話は、前にもしたよな? ただ、いかんせん、ああいう性格だし、誤解はされやすいわな。」

「まあ、言いたいことは、判るし、そう言われるのも仕方ないとは思う。そこんとこを兄貴にもわかってもらえるといいんだけど・・・。」

いや、判ったとしても、多分、同じだろう、と雅弥は思った。判ったから、許せる、というものでもないのだ。けれど、宗佑には、はっきりそうは言わなかった。それは、最後に宗佑がこんなことを言ったからだ。

「小夜香はさ、しょっちゅう不機嫌でいらいらして、怒ってばっかりいるけど、でも、いつも、あいつが一番、腹を立てているのは、自分自身に対してなんだよ。だから、僕は小夜香が可哀想だと思うし、あいつのそばにいようって決めたんだ。」

そう述懐した宗佑の論旨は、雅弥にはいまひとつ不可解で、良く理解できなかった。難解というより、非論理的という意味合いにおいて。ただ、宗佑には宗佑なりの流儀があるらしいことは、なんとなく理解できた。だから、あえて、それ以上は口を挟まなかった。もともと他人の恋愛沙汰である。ちょっとからかうくらいが、ちょうど良い。


 宗佑と別れた後、雅弥はまっすぐ帰宅した。入浴してから、パジャマ代わりの短パンとTシャツに着替えて、そのままパタンと眠ってしまった。あまり自覚していなかったが、結構疲れていたらしい。そういえば、足がまだ少々筋肉痛だ。

 目が覚めたのは、もう午後だった。日曜の午後だ。のっそりと居間へ入ってゆくと、

「おそよう!」

と母が笑った。「お昼ごはん食べる?」

「うん、食べる。」

まだいくらかぼんやりした頭で、雅弥は答えた。

「じゃあ、仕度してあげるから、その間に顔洗ってらっしゃい。」

大人しく洗面所に行き、冷たい水で顔を洗うと、いくらか気分がすっきりした。鏡を見ると、寝癖で髪が重力に逆らって突っ立っている。やれやれ、と棚の上の櫛に手を伸ばした。

 母が用意してくれた炊き込みご飯と、金平牛蒡、こんにゃくの煮物、卵と三つ葉のお吸い物をもそもそと食べながら、雅弥は向かいに座ってお茶を飲んでいる母に尋ねた。

「なっちゃんは?」

「部活ですよ。」

「父さんは?」

「さっき本屋に行くって出掛けたところ。雅君が起きるのずっと待ってたけど、いつまでも寝てるから、とうとう諦めて一人で行ったの。」

「起こしてくれても、良かったのに。」

ぶつぶつと雅弥は不平を言った。ここしばらく、父と一緒に本屋へ行ってない。久しぶりに、行ければ良かったのに、と残念だった。

「ママもそう言ったんだけど、疲れてるんだろうから、寝かしておいてあげなさい、って。また、今度、連れて行ってくれるでしょ。」

「うん。」

上の空で母に答えながら、しかし、雅弥は、もう別のことを考え始めていた。

食べ終わってから、食器を台所の流しに下げ、弟と共有の子供部屋に戻って、着替えた。

「ちょっと出かけてくるね。」

と、母に声を掛けると、彼女は、やや意外そうな顔をした。

「今から?」

「うん。」

「お夕食は?」

「多分、うちで食べると思うけど・・・。」

「そう? 遅くなりそうなら、メールしてね。」

自転車で松本駅へ向かい、駅前の自転車置き場に停めると、JRの切符を買って、中央線の上りの普通列車を待った。列車に乗ると、ポケットから囲碁の本を出して、いくつか詰め碁の問題を解いた。やがて、車窓に街中の建物の間を縫うようにして、夏の午後の日差しを浴びて光る湖面が切れ切れに見え隠れするようになった。

 下諏訪の駅を過ぎ、上諏訪の駅で列車を降りた。プラットフォームの上で、雅弥は眩しい茜色の光線に目を細めた。冷房の効いた車内から外へ出ると、じりじりと暑い。足元のコンクリートから、熱気が湯気のように立ち昇ってくる。

 駅からヨットハーバーまでの道のりは、歩いて数分だった。停泊地には、何艘かの船が係留されており、帆を下ろしたヨットもいくつか繋がれていた。横には、殺風景な建物があり、「管理事務所」と書いてあった。周囲にも船の上にも人影はなく、がらんとしていた。はるばる湖面を見渡すと白鳥型の大きな遊覧船が進んでゆく姿があった。小さな手漕ぎボートやもう少し大きな船が点々と散らばっている。水面は広々として、向こう岸はとても遠く感じられるが、その背後にはなだらかな山陰が迫っていた。湖は、ぐるりと山に囲まれ、その山すそと水にはさまれた狭い土地の間に、街がある。ここもまた、松本の盆地同様、閉じられた土地なのだと感じられた。

 雅弥は、しばらくそうした光景を眺めていたが、やがて暑さに耐えられなくなり、建物の横にある日陰の場所をみつけてそこに胡坐をかいて座り込み、再び囲碁の本を開いて、頭の中の囲碁版で、白と黒の石を動かし始めた。時々、本から目を上げて、湖面を眺めた。

 そうやって、まだ三十分も経ったか経たない頃、雅弥が何度目かにふと目を上げると、三艘の白い帆を張ったヨットが、ジグザグに進路を取りながら、だんだんと近づいてくるのに気付いた。急いで立ち上がり、よく見ようと目を凝らしたが、まだ遠すぎて乗船している者たちの顔までは、はっきりしない。しかし、もしかすると・・・と、考えて、雅弥の胸にそっと小さな期待が忍び寄った。

 三艘の船は、その間にも、ぐんぐんと停泊地へと迫ってきた。どうやって停止するのだろう、このままでは岸にぶつかってしまうのではないか、と雅弥が気を揉み始めたところで、先頭を走っていた船が、すっと速度を落とし、岸へ近づいた。そして、接岸し、停船するかしないかの内に、もやい綱を手に小柄な姿が身軽く岸へ飛び移ってきた。ライフジャケットを着込んで、ハーフズボンに運動靴、目深に帽子を被って、サングラスをかけいている。手にした綱を岸に打ち込まれたくいのようなもの(後になって、ボラードというのだと教えられた)に手早く結び付ける。作業を終え、顔を上げた時、雅弥の姿が目に入ったのだろう、「えっ」というような形に口が動いた。その唇の鮮やかな珊瑚色に、ようやく雅弥は、その子が綾乃であることに気付いた。蜻蛉祭で会った時とは、随分印象が違っていた。肩に広がっていたふわふわした綿菓子のような髪を、今は後ろにぎゅっと結んでいたせいかもしれない。服装も全然違っていた。簡素なワンピース姿から、男の子のような服装に変わって、テキパキと作業をしていた様子は、別人のようだった。しかし、いささか困惑している雅弥にお構いなく、綾乃は、たたたっと彼の方へ向かって駆けて来た。

「岩崎君・・・だよね?」

息を弾ませながら、彼女はびっくりしたように声を上げた。雅弥は、顔を赤くしながら頷いた。彼女の背後では、帆を片付けている他のヨット部員達が、何事かという好奇心の色をあからさまに浮かべてこちらを見ている。いつのまにか、他に二艘のヨットが接岸し、係留の準備作業にとりかかっていた。

「どうしたの?」

「あの・・・ちょっと、話したいことがあって。でも、藤森さんの連絡先知らないし、それで、その、ここに来たら、もしかしたら、ひょっとして、会えるかもしれないって思って・・・それで・・・。」

しどろもどろに雅弥は、説明した。

「話って?」

綾乃は、不思議そうな顔をした。

「この前の、校長室の、梶の葉の印のこと。」

「そう・・・。」

ちょっと考え込むように、彼女は言葉を切った。その間に、ヨットから降りた諏訪清涼の生徒達が、ぞろぞろと二人の横を通り過ぎて、「管理事務所」の建物へ入っていた。通りすがりに、興味深そうな視線をちらちら投げてくる者も居て、雅弥は逃げ出したくなったが、辛うじて堪えた。

「あのね、これから片付けと反省会が済んだら、部活終わるから、それまで、どこかで待っててもらえる? ここの湖岸通りを渡って少し行った先に、モスがあるからそことかどうかな?」

「うん、いいよ。」

ほっとして、雅弥は承知すると、そそくさとヨットハーバーを後にした。

 綾乃の指定したモスバーガーは、すぐにわかった。駐車場を抜けて通りを渡り、ホテルにを横に過ぎるた所に看板が見えた。

 店へ入ろうとした直前に、ポケット中の携帯が鳴った。見ると、宗佑である。

「もしもし?」

「あ、岩崎? 今、どこ?」

「えっと・・・。」

雅弥は、躊躇した。なんとなく、正直に綾乃を待っていることを話すのは、抵抗があった。

「今、松本じゃないんだけど・・・。」

言葉を濁して答えると、宗佑は、

「えっ、そうなの?」

と、いささか意外そうだった。

「じゃあ、無理だなぁ。さっき棋道部に寄ってみたんだけど、居ないからさ。」

「どうかしたのか?」

「うん。これから、お城の月見櫓へ行ってみようって、ことになって。小夜香と。」

「月見櫓へ? なんでまた?」

雅弥は、面食らった。

「おまえが至誠のやつに会ったことを小夜香に話したんだよ。それで、その時、あの通路を塞ぐのは、良くない、って言われたんだろ?」

「うん。」

「それ聞いて、小夜香が気にして、確かめに行きたいって、言い出して。」

「ああ、そういえば、なんかそういう話したな。」

今の今まで、そのことはすっかり忘れていた。雅弥自身は、あまり深くつっこんで考えていなかったので、大して気にも留めていなかったが、確かに康治のそれは、不思議といえば、不思議な忠告であった。

「でも、確かめるって、何を? 有賀は、何か思い当たることでもあるのかな?」

「いや、特に、そういうわけでもないらしいけど、でも。気になるから、って。というわけで、これからちょっと僕らだけでも行って様子を見てくるよ。」

「そっか。」

雅弥は、素早く頭の中で計算してみた。これから綾乃と暫く話をし、それから、すぐJRで松本駅へ戻り、自転車でお城まで行くとしたら、どれくらい時間がかかるだろうか? 微妙なところだった。

「俺も、出来れば後からそっちへ行くから、お城の門の鍵を、開けたままにしておいてくれる? 俺が到着する前に、引き上げる場合は、閉めちゃっていいから。」

「いいよ、わかった。お城の鍵は、今から校長室に取りに行くとこ。」

「なんかあったら、また連絡くれ。」

「うん、了解。」

そうして、宗佑からの通話は切れた。雅弥は、携帯を手にしたまま、しばらく思案していたが、やがて意を決して康治の番号をかけてみた。康治はすぐに出た。

「もしもし?」

「あの・・・岩崎ですけど。音和の。」

「ああ、うん。」

「今、ちょっといいかな?」

「別に全然いいけど、何?」

「あのさ、この前、あの通路を塞ぐのは良くない、って言ってよね。あれって、どういうこと?」

「どうって・・・。」

「何か、マズイことでもあるの?」

「うーん、具体的にどうこうってわけじゃないんだけど・・・。」

康治の言葉が、妙に歯切れ悪くなった。

「『気の流れ』って、言ってたよね。」

「ああ、あれね。姉貴の受け売りだけどな。あそこには、龍の気が流れている、って言われてるんだって。だから、そこを塞ぐことは、龍の気の流れを塞き止めることになる、ってことらしい。」

龍、という言葉を聞いて、雅弥は一瞬、息が止まるかと思った。

「姉貴の話だと、城の地下にはさ、龍がいるとか何とか、そういう伝説?みたいのがあるらしい。」

「じゃあ、も、もしかして・・・見た? 龍を。」

恐る恐る雅弥が尋ねると、康治はゲラゲラ笑い出した。

「そんなん、見るわけねーじゃん。っていうか、居るわけねーし。」

「あ、うん、まあ、そうだよね。」

雅弥も慌てて相槌を打った。胸がドキドキして、受話器を握る手が汗ばんだ。しばらく沈黙があった。受話器越しに、康治の迷うような、ためらうような気配が、伝わってくる気がした。

「でも、」やがて、思い切ったように、康治が言葉を続けた。

「姉貴が言いたいことも、なんとなく判るんだ。俺も、あそこは何回も通ってるから。何と言うか、あそこの気配というか、あそこは・・・普通の場所じゃないんだ。」

その点に関しては、雅弥にもよくわかっていた。そもそも存在自体が、おかしな場所なのだ。物理的に。けれど、雅弥がそう言うと、康治はじれったそうに、遮った。

「それはそうなんだけど、ただ、それだけじゃなくて・・・。なんていうか、うまく言えないな。それに・・・・まあ、俺の単なる気のせいかもしれない。」

二人の間に、再び、ぎこちなくて中途半端な沈黙がおりた。

「ねえ、最近、善光寺側の通路には、言った?」

雅弥は聞いてみた。

「いいや、全然。通路が通れなくなってからは、行ってないな。なんで?」

雅弥は、宗佑と小夜香が、月見櫓へ通路を調べに今から行く話しをした。

「ふうん。で、おまえは行かないの?」

「俺、今、松本じゃないんだよ。」

「へ? じゃあ、どこ?」

「諏訪だよ。」

渋々、雅弥は答えた。

「諏訪? なんで、また?」

訊かれて、雅弥は、答えに窮した。

「そのう、話せば長い話で・・・、あっ、そうだ、おまえ、梶の葉の意味って知ってる?」

「梶の葉?」

怪訝そうに、康治は聞き返した。「何、それ?」

「ほら、校長室の前にかけてあっただろう。あれだよ。」

「ああ、あれか。」

康治は、ようやく合点がいった様子だった。「でも、あれが何なの?」

「だから、あれは諏訪清涼高校の校章で、あれをあそこに掛けたのも清涼の生徒なんだよ。」

「えええ、そうなの!? あまえ、昨日はそんなこと何も言ってなかったじゃん。」

「言いそびれたんだよ。」

雅弥は、ぎこちなく言い訳した。

「へええ、そうですか。」

非難がましい口調で言った後、康治は、そのまま黙り込んだ。受話器の向こうから、ざわざわという雑踏の音が聞こえてきて、どうやら彼は、今、街中に居るらしい。

「あのさ、俺、今、長野駅の前でバス待ってたんだわ。うちに帰ろうと思って。」

「うん。」

「だけど、これからちょっと善光寺行って来る。」

「へ? 今から? わざわざ? なんで?」

急な話の展開に、雅弥は戸惑ってしまった。

「いや、特に理由はないんだけど・・・、そんな遠くないし、なんか急に気になってきた。それに音和の特選とはちあわせしたりしたら、面白くね?」

「おい、待てよ。」

「冗談だって。別に何も企んでなんかねーよ。」

どうだか、と雅弥は思った。康治には、独特な、なにやら人を食ったような押しの強さがある。蜻蛉祭での大胆な振る舞いのこともある。そのため、油断がならないというか、警戒心が、呼び起こされるのだ。

「じゃあな。また、電話する。」

笑いながら、康治は早口にそう言って、電話は切れた。

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