第16話 飛龍吉祥

 その後、豚汁を二回お代わりして、すっかり満足した雅弥は、のんびりとペットボトルのよく冷えた麦茶をちびちびと飲んでいた。宗佑は、さっき給仕の仕事を済ませた小夜香がやって来て、どこかへ引っ張っていってしまった。有無を言わさず連れ去られてゆく宗佑は、すがるような眼差しを雅弥へ投げかけたが、あえて気付かないふりをした。たとえ薄情と思われようと、痴話喧嘩に巻き込まれるのは、御免だった。

 天井に向かって、雅弥は小さく欠伸をした。眠い。もう午前一時が近かった。あとは、このまま郷友館と呼ばれる校内の宿泊施設(部活の合宿などで使う)に移動して就寝の予定だが、早く、寝床に行きたかった。しかし、周囲は、三三五五集まって、しきりと談笑するのをやめない。応管の先輩達の姿は、ないかと一通り見回してみたが、見当たらない。後片付けに、行ってしまったのだろうか。なんだか、ひとり、ぽつねんとして、手持ち無沙汰だ。自然ともうひとつ、欠伸が出た。

 その時、隣のパイプ椅子に誰かが腰を下ろした。宗佑が、戻ってきたのかと思って目線を上げると、知らない男子だった。雅弥と目が会うと、相手はにやりとした。銀縁のめがねをかけて、やや長めの前髪がさらりと額にかかっている。

 「音和の特別推薦枠だろ?」

それは、質問ではなく、確認だった。雅弥は、一瞬、虚を衝かれ、なんと返事をしたものかわからず黙っていた。

「まあ、そう警戒するなよ。俺は、長野至誠高の応援団特別推薦枠委員、降旗(ふりはた)康治(やすひろ)。」

「なんで知ってる?」

ぽつりと、雅弥は尋ねた。

「なんで俺が、音和の推薦枠だって知ってるんだ?」

「だって、おたくんとこの生徒会長に聞いたもの。ほら、あのやたらといい男の。」

あっさりと康治は、種を明かした。

「ちょっと場所を変えて話せないかな? 渡さないといけないものもあるし。」

雅弥は、逡巡した。

「あと他に二人、推薦枠の委員が居るんだけど・・・。」

「知ってる。」

落ち着き払って、康治は頷いた。

「あの背の高いやつと、真っ直ぐな長い髪の女子だろ? さっき外の渡り廊下の端に、二人で居るのを見掛けたけど、女子の方は、彼氏の膝の上に座っていたから、邪魔しないほうがいいかと思って。」

心の中で宗佑へのありとあらゆる罵詈雑言を浴びせかけながら、雅弥は仕方なく立ち上がり、康治に付いて来いと手招きして、体育館を出た。

 部室棟の前まで行き、棋道部の部屋の扉を押してみたが、案の定、閉まっている。

「ちょっと待ってて。鍵、取ってくる。」

そう言い置いて、雅弥は急いで職員室の鍵置き場まで取りに戻った。こんな時刻だったが、夜間遠足があるためか当直の先生が居て、職員室は開いていた。

 急いで戻ると、康治のプレハブの壁にもたれている後姿が目に入った。腰に白と紺色の手拭いをぶらさげている。薄闇に「橘湯」の文字が染め抜いてある。どこからの風呂屋の手拭いらしかった。ああ、縄手通りのパン屋の前で見掛けた、手拭いを腰にぶら下げていたのは、やっぱりこいつだったんだな、とようやく雅弥は納得した。彼には、根本的に他人に対する好奇心というものが欠如しているので、人を思い出すのも、人相などのその人個人の特徴ではなく、あくまで自分の興味本位の対象となる記号によってなのだった。

 部室に入り、電灯を付けた。ぱっと明るくなり、乱雑に散らかった室内を、至誠高校の特選委員は、もの珍しげに見回した。

「ここって、部室?」

「ああ。」

「応援団の?」

「いや、棋道部。囲碁とか将棋の部。」

「ほんとだ、将棋版とか囲碁版とかあるね。俺は、書道部だけど。」

背中に背負っていたデイバックを傍らの椅子の上に置きながら、康治は説明した。

「至誠の特選は、毎回、書道部から二人、任命されるんだ。主筆と補筆って、呼ばれてる。だから、本当は、もう一人居るんだけど、そいつは生憎、今日は都合が付かなくて。でも、まあ、主筆の俺一人で事足りるからさ。ところで、ここ、ちょっと片付けてもいいかな?」

ごたごた物が載っている机を指差して、康治は尋ねた。雅弥は、曖昧に頷いた。康治は、さっさと雑誌や漫画、RPGの本、折りたたみ式の囲碁板に食いかけの菓子の袋、誰かの宿題らしき数学のやりかけのプリントなどの混沌を脇へ押しやり始めた。一体、何がしたいのかさっぱりわからない。何が目的だ?

「でも、こないだの蜻蛉祭には、二人で来てたよな?」

試しに雅弥が問いかけてみると、相手はちょっと手を止め、得意そうな顔をした。

「うん。あの日は、昼前から来て、色々遊んでたんだ。そして、後夜祭で盛り上がってるライブに俺が乱入し、補筆の小山田がファイヤーストームに花火を投げこんだんだ。あの花火、なかなか凄かっただろ? でも、危なくないように、ちゃんと投げる方向とか考えて投げたんだぜ?」

康治は、くすくすと思い出し笑いをした。

「ライブ会場の音和生、みんな、あっけにとられてたな。あれは、なかなか爽快だった。」

自慢げに、康治は胸を張る。

「そして、その後、君らは車に乗って逃げた。」

ニコリともせず、雅弥は答えた。

「だって、誰かさん達が地下通路をあんな鐘で塞いでしまったから、仕方無いよ。お陰で凄く不便だ。別の逃走ルートを確保しなくちゃならなかった。」

「ふん。」

「折角、あんなに派手にやらかした後で、結局、捕まっちゃった、なんてなったら台無しだからね。みっともないよ。それで、車で校門の所に待機しててもらったんだ。姉貴が、免許取るのが間に合ってよかったよ。」

「姉貴!?」

雅弥の声が、思わず大きくなった。ちょっと意表を突かれた。

「そう。この春、至誠を卒業して、今年から信大の一年。今は松本キャンパスの教養部に居るから、こっちに下宿してるんだ。」

盲点だった。しかし、よくよく考えてみれば、ありそうなことだった。昔の音和の卒業生が、現在では、至誠で教師をしながら、密かに母校の在校生達に手を貸しているのだ。至誠の卒業生が、同じように在校生の手伝いをしていても、何もおかしくない。

 話しながら、康治は机の上のものをすっかり片隅に押しやってしまい、広い空間を作った。その出来上がった空間に、デイバックから取り出した新聞をまず大きく広げ、更に黒の毛氈を敷き、墨汁、硯、筆、文鎮などを次々に並べ始めた。

 全てをきちんと並べ終えると、彼は腰にぶら下げていた手拭いをはずし、頭に巻いて、ぎゅっと縛った。

「こうしとかないと、前髪が落ちてきて、邪魔なんだ。」

雅弥の視線に気が付いて、彼は言い訳するように言った。

「姉貴は、邪魔なら切れ、って煩いけどさ。余計なお世話だと思わね?」

それから、細長い紙を文鎮で押さえて置き、それですっかり支度は整ったようだった。

 これから一体、何が始まるのか、いや、この様子からして、どう考えても習字だろうとは思ったが、なぜ突然、習字なのか? 全く訳がわからずに、雅弥が無言で見守っていると、康治は、しばし、じっと紙を集中した視線で見据えていたが、やおら筆を取り上げるや、一気呵成に『飛龍吉祥』の四文字を墨痕も鮮やかに書き上げた。躍動感に満ちた、華麗な文字だった。書道というのは、地味で枯れたものだとなんとなく雅弥は思い込んでいたが、目の前でまだ濡れて光る墨色の字は、瑞々しく、生き生きと、躍るようで、見るものに鮮烈な印象を与えた。それは、文字であると同時に、絵画的であった。龍を意味する記号が、龍の姿をそのまま捉えて映し出されていた。康治が書道の巧者であることは、この一枚を見ただけで、素人の雅弥の目にも、疑う余地が無かった。

「うまいなぁ。」

感嘆して、雅弥は呟いた。自分は字が下手で悪筆だという自覚があったので、余計に感嘆してしまった。

「ありがとう。」

手放しに褒められてまんざらでもないのか、康治は、眼鏡越しに、目を細めて笑った。

「書道部に入部した時、新入部員の一年全員が集められて、最初にこの四文字を書かされたんだ。その出来栄えで、主筆と補筆を選ぶためにね。つまり、至誠の応援団特別選抜委員のことだよ。俺たちの役割は、ひとつは松本音和高校との平和的果たし合い合戦を引き継ぐこと、そして、もうひとつは、音和の蜻蛉祭で、梶の葉が現れた年、この書を音和の特選に託すことだ。」

 梶の葉。

 思いがけない言葉が、至誠の生徒の口から出て、雅弥は驚きの余り、しばらく声が出なかった。

「どうして・・・どうして、梶の葉のことを知ってるのさ?」

掠れる声を絞り出すようにして、雅弥はようやく尋ねた。

「だって、そもそも、それを確認するために、あの日、蜻蛉祭に行ったんだもの。最後のライブステージ乗っ取りと、ファイヤーストームへの花火投げ込みは、ついでみたいなもんだから。その前に、ちゃんと梶の葉が校長室の前にかかってるのを確認してたんだ。至誠の推薦枠の委員は、そうやって毎年毎年、音和の学園祭の一般公開日に、必ず足を運んできたんだよ。ずっと昔からね。あの合図の印は、めったに現れないらしいけど。」

喋りながら、康治は注意深く墨の乾き具合を確かめた。それから、広げた書道用具をさっさと片付け始めた。

「だったら、誰があの梶の葉をあそこにかけたのか、知ってる?」

「知らないよ。なに、おまえは、知ってるの?」

「え、それは・・・。」

雅弥は、口ごもった。綾乃のこと、諏訪清涼高校のヨット部のことを彼に話してしまっていいものか、とっさに判断がつかなかった。康治は、疑り深そうに、雅弥を眺めた。

「ふうん、まあ、いいや。」

机の上に広げた品をすっかりデイバックに元通り仕舞うと、代わりに何か黒い筒状のものを中から引っ張り出した。卒業証書を丸めて入れたりする容器に似ていた。

 康治は、机の上にそれだけ残っていた、『飛龍吉祥』の書を仔細に点検し、すっかり乾いているのを確認すると、それをくるくると丸め、手にした筒の中へ納めると蓋をして、雅弥に差し出した。

「はい、これ。」

「えっ?」

雅弥は、うろたえた。

「そんな・・・はい、とかって渡されても。これ、どうすればいいのさ?」

「さあ。」

無責任に康治は、首を傾げた。

「よく知らない。誰も、何も知らないみたいだったよ。先輩達も知らなかったし、うちの姉貴も、知らん、って。」

「また、姉貴かよ・・・。」

「あれ、言わなかった? うちの姉貴も、高校生の時、至誠の特別推薦枠やってたから。つまり、経験者なわけ。だから、割りに色々詳しいんだ。っていうか、俺が、書道やってるのは、もともと姉貴がやってたからだし、俺が書道部に入部したのも、推薦枠に選ばれたのも、姉貴の差し金なんだ。入学前に『飛龍吉祥』の文字を、おれにみっちり練習させてあらかじめ仕込んでたんだよ。」

「なんで?」

雅弥が問うと、康治は、肩をすくめた。

「そうさねぇ・・・なんでだろうな? 強いて言えば、姉貴なりの愛校精神なのかなぁ。もともと性格に少しばかり偏りがあるというか、思い込みが激しいというか、偏執狂的な傾向が無いとはいえない人だったんだけど。」

こいつ何やら恐ろしげなこと言い出しよった、と雅弥は心の中で後ずさりした。

「いや、弟のひいき目から見てもすごく優秀な人なんだよ。ただ、何事にも一途というか、熱中しやすい性格でね。そして、使命感もすごく強い。そりゃ、もう、真面目。思い込んだら、ってやつ。だから、たまたま応援団の特別推薦枠委員に任命されて以来、音和への嫌がらせに、全身全霊を傾けた高校生活だったなぁ、あれは。音和の靴箱に入っていた上履きを、一晩かけて片っ端から洗濯物干しに吊り下げたりしてたらしいから。弟の俺が言うのもなんだけど・・・狂気を感じる。」

「その話、聞いたことあるよ。」

「うん、そうか。割と有名な事件らしいからな、至誠でも音和でも。まあ、そんな人だから、地下通路が塞がれたって聞いた時も、それはもう怒り狂ってた。」

「・・・ああ。」

「でも、大丈夫。規則は、きちんと守る人だから、部外者が手出ししちゃいけない、ってことはちゃんと心得てる。ただ・・・」

ふっと康治は、言いさし、躊躇うように言葉を途切らせた。

「何?」

気になって、雅弥は促した。

「その・・・ただ、あれは、良くないよ。あんまり良くない。」

「良くないって、何がさ?」

「君らが地下の通路を塞いでしまったこと。俺らが出入りできなくなる、ってだけじゃなくて、いや、まあ、それも困るっちゃ、困るんだけど、それとは別に、何と言うか、あそこを閉じてしまうこと自体が、あんまり良くない。『気の流れ』が滞る、っていうか・・・。」

「『気の流れ』? 何それ?」

「よくは、知らない。姉貴の受け売りだ。姉貴は、そういう言い方をしてたから・・・。」

その時、携帯がなった。

「あ、俺だ。」

と、康治がポケットから携帯を取り出し、素早く画面に目を走らせた。

「やばい。点呼かかってるって。早いとこ戻ったほうが、良さそうだ。」

慌てて彼らは部室を出ると、大体育館へ向かった。

「あ、そうだ。ついでにメアド教えてくれ。一応、非常用に。」

康治に提案されて、雅弥は携帯を大人しく取り出した。だが、メアドと番号を交換しながらも、なぜ綾乃でなく康治?という一抹の疑問は、拭えなかった。

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