第15話 夜間遠足

 夏休みが、始まった。

 しかし、松本音和高校の恐ろしいところは、そのまま全学年が、問答無用で補習授業に突入することであった。通常通りに、朝の一限目が始まり、一年生は、国・数・英の三科目の授業がみっちりつまっている。その後、部活動である。

「お弁当作りの負担が、ちっとも軽減されないんですけど? 夏休みなのに、これって詐欺じゃない?」

母はぶつぶつ不平をこぼすが、それはこっちの台詞である、と雅弥は内心思った。信州というと避暑地の印象が強く、夏も涼しく思われがちだが、実際の七月の松本盆地は、それなりに日差しも強く、日中はかなり暑い。気温が三十度近くまで上がることも稀ではなく、扇風機しかない教室で生ぬるい風を浴びながら、高校生達は、額に汗を浮かべつつ、英文法やら、数学ⅠBの二次関数グラフの移動、古典の動詞の変格活用相手に悪戦苦闘するのであった。ちなみに、音和高校の一コマは、七十分である。

 蜻蛉祭で至誠高校の二人が華麗な逃亡を果たした後、これといって特に何も起こっていない。蜻蛉祭の翌日、百瀬先輩はわざわざ松本城の月見櫓まで出向き、地下通路に通じる床穴を塞いだ鐘を検分してきたが、鐘を動かした形跡は認められなかったそうである。鐘を載せた茣蓙の下の床には、あらかじめチョークで四隅に小さく印をつけてあったが、茣蓙とチョークは寸分の狂いもなくそのままであった、と先輩は報告した。したがって、ここからの人の出入りはなかっただろう、というのが彼の推測であった。

「通路の中に人が入った後、誰かが茣蓙を正確な位置に戻して鐘を載せた可能性も全くないわけではないけれど、かなり難しいと思う。鐘を動かすのは、重すぎてひとりじゃ無理だし。それに、鐘で蓋をしてしまったら、蓋をした者は、そこに残ることになる。もう中には入れないわけだから。それじゃ、困るだろ?」

つまり、城の地下通路は封鎖されたままで、蜻蛉祭襲撃の際、至誠高校の生徒達は城の地下通路は使わなかった公算が強い、という結論に一同は達した。ただ、気になるのは、彼らが最後に車で逃走したことであった。

「誰か車の免許を持ってる協力者がいるわけだ。少なくとも、高校生ではない誰かが。」

先輩は、考え込んだように言い、首を捻った。ちなみに、百瀬先輩は、蜻蛉祭を境に引退した相沢団長の後を引き継ぎ、応援団管理委員会委員長に就任することになっていた。

 話のついでに、雅弥は、先輩に諏訪清涼高校の藤森綾乃と蜻蛉祭の日、校長室前で出くわした話をし、彼女が語った梶の葉の校章を音和高校に飾るに至った経緯についても出来るだけ詳しく事情を説明した上で、この件に関して何か知らないか尋ねてみた。けれど、先輩は何もかも初耳だという顔をしていた。

「諏訪清涼とうちとは、それほど交流もなかったはずだけどなぁ・・・。でも、もしかしたら、昔は何かあったのかもしれないね。どこかに記録がないか、探してみるよ。昔の部室ノートとか、いくつか残ってるはずだから。」

よろしくお願いします、と頭を下げながら、雅弥は内心、あのファイヤーストームでの衝撃の告白劇の成否について尋ねてみたくてたまらなかったが、さすがに我慢した。百瀬さんは、見た目こそ、少々ごつくておっかないが、常日頃から温厚かつ常識人であるということは、雅弥自身この数ヶ月間の付き合いでよく心得ていたが、その先輩をして、かくも大胆な行為に駆り立てたのは、祭りの狂気というべきか、はたまた若気の至りなのか。一体、美咲先輩という人の返事は、どうっだのか? 色々気になって仕方がなかったが、そこまで立ち入ったことを聞くのは躊躇われたのでやめておいた。 

 綾乃が残した諏訪清涼の校章は、現在も校長室の出入り口のある廊下の壁に、掲げられたままになっている。校長も他の先生も、気が付いていないはずはないのに、誰も何もしない。雅弥は、時々、補習授業が終わると、ぶらりと歩いて様子を見に行くが、梶の葉の紋は、古びた漆喰塗りの廊下の壁に、まるで昔からそこにあったようにひっそりと馴染んでいる。

 雅弥が、棋道部の部室で、他の部員達と昼食の弁当を食っていると、からりと扉が開き、

「よお。」

と爽やかな笑顔を覗かせたのは、棋道部の部長であり、宗佑の兄でもある丸山生徒会長であった。

「あっ、部長!」

「どうもーっす。」

「お久しっす。」

部員達が口々に挨拶するのに、軽く頷いて応えつつ、部長は雅弥の前の空いていた席に、どっかと腰を下ろした。久しぶりに遊びに来たのか、いつも忙しい人なのに珍しいことであった。生徒会は、選挙がある秋まで役員の引継ぎがないのでまだ仕事があるし、夏の大会が終わるまでは部活も兼部しているので、めったに棋道部へは顔を出さないのだ。あれでよく成績上位を保つだけの勉強時間が取れるよな、よほど要領がいいのだろうか、などとと考えつつ、湯呑みに注いだお茶を飲んでいた雅弥は、

「ねえ、岩崎君。ちょといい? 少し頼みたいことがあるんだけど。」

と、いきなり話しを切り出されて、少々、面食らった。

「え? あ、はい。何っすか?」

「今週の土曜日の夜って、暇?」

「部活の後なら、暇ですけど・・・。」

「良かった。じゃあさ、夜間遠足に参加しない?」

「夜間遠足?」

聞いたことのない言葉に、雅弥は、きょとんとした。

「あれ? 宗佑から、聞いてない? この前、言っといたんだけど。」

「いや、聞いてないっす。」

「そっか。あいつ、最近、色ボケしてるからなぁ。だいたいさ、あの有賀って女・・あ、・いや、うん、まあ、そのことはどうでもいいんだ。夜間遠足の話だったね。」

そして、会長は、続けて簡単な説明をしてくれた。夜間遠足とは、別名、夜間行軍とも呼ばれ、文字通り、「夜歩く」行事で、旧制中学時代から伝わる伝統行事の一つである、とのことだった。

「至誠高校との合同企画なんだけど、今年は、うちが幹事役なんだよね。あ、生徒会主催ね。」

「なんかむしろ、応援団の関連行事っぽいっすね。」

「だよね。実際、古くからある行事らしい。でも、なぜかこっちの仕事に振り分けられててさ。まあ、いいんだけど。」

「はあ。」

「で、話というのはね、実は、参加者が少なくてさ。特に、一年。みんな、あんまりこの行事のこと知らないから、ポスター貼ったり、宣伝したりしてるんだけど、いまいち反応薄いんだよね。それで、生徒会役員が個人的に人数集めて回ってるとこなんだ。で、宗佑も誘ったんだけど、あいつ知った顔がいない中でぽつんは嫌だ、とか言ってさ。」

雅弥の脳内で、警戒警報が鳴った。何か厄介事を押し付けられる時の前触れだ。

「そういうわけで、岩崎君、ぜひ、参加してよ。宗佑も一緒なら、いいだろ?」

「あー、それは、えっと・・・そのう・・・。」

「棋道部の部長の頼みだよ? 勿論、聞いてくれよね? 応管の相沢の言うことには、随分、素直に従ってるみたいじゃない。でもさ、結局、応管って、岩崎君の場合、運悪く入っちゃっただけで、本来、希望してたのは、囲碁の方だよね? あ、集合場所は、松本駅改札口に午後六時ね。学校出発じゃないから気をつけて。その日は、部活、少し早めに切り上げてよ。いつも夜遅くまでやってるみたいだけど、どうせ麻雀でしょ? あんまり度が過ぎると、さすがに先生方も見逃してくれなくなるよ? それじゃ、よろしく。」

言いたいことだけ、言い終えると、丸山会長は、ぽんぽんと雅弥の肩を叩き、颯爽と部室を出て行った。雅弥が、返事をする必要すら認めてないようだった。多分、会長にとって、それは既に決定事項であるのだろう。雅弥はそっと溜息を付き、心の中の予定表に、週末の夜間遠足への参加を大人しく書き加えた。音和高校入学以来、自由人な面々に振り回される、それに唯々諾々と従う日々に、もはやすっかり慣れっこになりつつあった。諦観、という言葉が、ふと胸に浮かんだ。


 深夜もそろそろ十二時に近づこうかとする頃、薄暗い木立に囲まれた音和高校の校門が、街灯に照らされてようやく見えてくると、雅弥は疲れた足を引きずりながら、ほっとした。踵が、痛かった。少し靴ずれになりかかっている感じがした。ふくらはぎが張って、パンパンだ。こんなに長距離を歩いたのは、随分久しぶりである。中学の時の登山遠足以来ではあるまいか。自転車通学で、随分、足が鍛えられたつもりだったが、ペダルを漕ぐのと何時間もただひたすら歩くのとでは、微妙に使う筋肉が違うようであるらしい。

 雅弥の隣を歩く宗佑も、他の四十名ほどの参加者達も、一様に無口になっていた。ただひたすら黙々と歩いている。

 とはいえ、最初からこうだったわけではない。

 松本駅に集合した松本音和生は、JRに乗って松本北部にある田沢駅へと向かった。田沢駅前には、既に長野至誠高校の生徒達二十名ほどが、既に待ちかまえていた。それから、双方の生徒代表からの簡単な挨拶が交わされ、注意事項の説明があり、夜間遠足の開始が宣言された。一行は、梓川に沿った道をうち揃って歩き始めた。

 その日も、昼間はかなり暑かったが、日没後はするすると気温が下がり、夜風が心地良かった。両校の役員達が音頭を取って、皆は歩きながら、次々と応援歌を合唱した。雅弥にとって意外だったのは、結構、「春寂寥」など共通で歌える曲も多かったことだ。もっとも歌詞は結構、いい加減で、わからないところは、皆、適当にやり過ごして澄ましていた。隣の車道を次々と走り去るトラックや自動車に負けじと、大声を張り上げて、『嗚呼青春』やら『春寂寥』などを次々に歌い上げているうちに、ライバル校同士とはいえ、次第に謎の連帯感で妙に気分が盛り上がり、生徒達は元気良く行進を続けた。歌の合間には、互いにたわいもない雑談をして、これはこれで、また楽しかった。

 しかし、出発してから二時間ほど経過したあたりから、皆少しづつ、口数が減り始めた。アルプス公園を超えたら、人家が増え、夜中ではあるし、近隣住民の迷惑になるから高歌放吟は控えるよう、あらかじめ申し渡されていたが、そんな注意などなくても、生徒達はその頃には、すっかり静かになっていた。ただ、左右の足を交互に前に出すことだけにひたすら専念し、残りの行程の距離を頭の中で計算し、靴底に当たる足の裏のじわじわとした痛みに黙って耐えた。

 そうした苦労の甲斐あって、およそ四時間後、参加者全員が、終着点である松本音和高校の大体育館へ、無事到着した。

「お帰りー、おつかれー!」

体育館の床に、そのまま、よろよろと座り込む一同を、音和高校の円山生徒会長は、満面の笑みを浮かべて出迎えた。

「夜食に、おにぎりと豚汁が用意してあるから、みんな遠慮なく食べてね。」

その言葉に、疲労困憊しきった参加者達も、にわかに空腹を覚え、「おおーっ」とか「やったー」などという喜びの声をそれぞれ地味に漏らしつつ、体育館の片隅にしつらえられた、食べ物を乗せた長机にぞろぞろと集まった。

 机の上には、「昆布」「梅干」「おかか」などと書かれた札の前の皿に、ラップにくるんだ大量のおにぎりが並び、その隣には、豚汁の大鍋が三つ、どんと置かれて、それぞれの前で、生徒がお玉を片手に、せっせと順番に汁椀に中身をよそっている。

 雅弥と宗佑は、まずおにぎりを選んで紙皿に乗せ、それから、豚汁の列に並んだ。

「丸山会長、体育館の方に居たんだな。てっきり、遠足に参加するもんだと思ってた。」

順番を待ちながら、雅弥が何気なく言った言葉に、宗佑は、かすかに顔をしかめた。

「ほんとは、そのはずだったんだよ。でも、急に夜食の用意の方を手伝うって言い出してさ。夜食は、応管の担当なのにさ・・・。」  

なぜか、いやに暗い口調であった。その時、順番が回ってきて、雅弥は、湯気の立つ汁椀を受け取ろうと、手を伸ばした。

「あれっ! 有賀じゃん。なんで? なにしてんの?」

雅弥は、軽く驚きの声を上げた。頭に三角巾を結び、エプロンをして、お玉を握っているのは、小夜香であった。

「百瀬先輩に、頼まれて手伝いに入ったの。急に都合が悪くなった団員の人が居て、人手が足りない、って呼び出されて。まあ、百瀬先輩にお願いされたら、断れないでしょ。」

汁椀を差し出しながら、ぶっきらぼうに小夜香は説明した。微妙にご機嫌斜めな様子だった。だが、百瀬先輩のことを怒っているわけでもなさそうだ。最近、この二人は割りに仲が良く、先日も、都合のつかなかった宗佑と雅弥を置いて、二人でホテルブエナビスタのケーキ食べ放題に行ってきたばかりなのだ。

「そうなんだ。有賀さんが手伝ってくれて、すごく助かったんだ。」

背後から、不意に丸山会長のにこやかな声がした。どこからともなく現れて、気が付くと、いつのまにか雅弥達の後ろに立っている。

「まあ、豚汁の材料を刻む時、牛蒡をいきなり輪切りにし始めたのには、若干、引いたけど・・・。ささがき、って知らない人もいるんだねぇ。」

邪気のない微笑を浮かべたまま、会長は言葉を続けた。

「なっ・・・。」

お玉を握りしめたまま、小夜香は、顔を真っ赤にした。その傍で宗佑は、兄と彼女の間で、ひきつった頬に不自然なアルカイックスマイルを浮かべていた。

「それとね、これは今後の参考のために、一応、言っておくけどさ、味噌を入れてからは、鍋を煮立てない方がいいよ。香りが飛ぶから。」

宗佑が、雅弥のシャツの裾をそっとひっぱり、彼らは、小夜香と丸山兄が睨みあう豚汁の長机の前を、そそくさと離脱した。

「なに、あれ? 何なの? 嫁いびり?」

声が聞こえない距離にまで離れると、雅弥は、宗佑の耳にこそこそと囁いた。

「えっ・・・いや、まさか! 第一、嫁じゃないし。彼女だし・・・。」

動揺した表情で、宗佑は否定しようとした。

「似たようなもんだろ? 丸山さんがやってるのって、どう見ても・・・。」

「そ、そう? もしかすると、そうなのかな・・・。」

宗佑は、眼を伏せ、自信無げに呟いた。

「いや、もしかしなくても、そうだろう。そのうち、障子の桟とか指で撫でて、『埃が!』とか、言い出しそうだったもん。」

食事場所として用意されていたパイプ椅子の列に腰掛け、梅干入りのおにぎりのラップを剥がしながら、雅弥は重々しく断定した。

「そんな、昼ドラじゃ、あるまいし。」

弱々しく、宗助は反論した。

「おまえもさぁ、変なところで、変な苦労するよな。」

しみじみ雅弥は、同情した。

「他人事だと思って・・・。」

恨めしそうに、宗佑は、手にした昆布入りのおにぎりをじっと見詰めた。

「兄貴のやつ、本当は、夜間遠足に参加するはずだったんだけど、なんか突然、今日になってから、学校に残って準備の監督する、って言い出したんだよなぁ。やっぱ、小夜香が炊事班の手伝いに加わるって、聞いたからなのかな。あれは、応管担当の仕事だったのに。これって、やっぱり・・・。」

「十中八九、そうだろうな。」

感慨深げに首を傾げる雅弥の隣で、宗佑は力無く、うつむいた。

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