第13話 渡りの御籤

 彼女は、藤森綾乃と名乗った。諏訪清涼高校の一年であった。松本駅からJRで二十五分程の上諏訪駅ほど近く、諏訪湖の畔にある高校で、雅弥も名前は聞いたことがあった。大きな湖がすぐ近くにあることから、その高校には珍しい部活が二つあった。ひとつは部通称「手漕ぎ部」と呼ばれるボード部、もうひとつは、通称「帆掛け部」のヨット部であった。このヨットは、ディンギーと呼ばれる少人数向けで、軽快な走りをする小型ヨットである。綾乃は、この帆掛け部の部員であるという。四月の高校入学と同時に、「なんか風変わりで面白そう」という極めて単純、かつ漠然とした動機で入部したのだそうだ。

「湖を船で走ったら、気持ち良さそうだし、それに手で漕ぐボート部より楽そうな気がして。」

と、綾乃は説明した。しかし、実際に入部してみると、全然、楽ではなかった。予想以上に、大変であった。船の各部の名称に始まって、覚えなければならないことが山ほどあり、慣れなくてはならないこと、上達しなくてはならないこともてんこ盛りだった。

 練習は、体力づくりのトレーニングを基本とし、日を追うに従って、複雑になっていった。様々な綱の結び方、帆を操るためのロープの操作や舵の取り方、風の読み方、追い風の場合の帆走方、逆風の時の間切り方、など。そして、それらを乗り越えて、一年生達は、六月頃には苦労しつつもなんとか自力で船を走らせることが出来るようになった。更に七月に入って最初の土曜日には、綾乃達は一年は、先輩達と共に初めて湖の横断帆走を行った。それまでは、停泊地であるヨットハーバー周辺で訓練を受けていたのが、ようやく広々とした湖面へと繰り出すことになったのだった。

 その日は、気持ちよく晴れた、絶えず穏やかな風が吹き続ける、帆走には絶好の日和だった。五艘の小さなヨットは、元気良く次々に水面へと飛び出し、膨らんだ白い帆に追い風を受けながらまっすぐに対岸目へ進路を取って北上した。

「総合体育館を目指す。大きな建物に茶色の屋根だからすぐわかる。それを目印にして舵を取れ。」

綾乃たちは、あらかじめ先輩達からそう指示を受けていた。舵を握るのも、ロープを操るのも、基本一年生が行い、先輩は口頭で指示を下すか、どうしようもない場合にのみ、手を貸すことになっていた。

 航湖は、申し分なく順調で、一年生達は交代で舵を取り、メーンシートを微妙にひっぱったり緩めたりしながら、時折コンパスを覗き込んでは方角を確かめた。後ろに白く泡立つ航跡を眺め、なるべくそれが真っ直ぐになるように気を配った。最初は、多少緊張感が漂っていたが、そのうち、山々に囲まれた湖の景色を楽しむ余裕も生まれてきた。時折、モーターボートなどの他の船とも擦れ違い、そのたびにどちらの進路に優先権があるのか頭の中で確認した。ここまで湖の中心に来ると、観光客向けの小さな白鳥ボートや手漕ぎボートの姿はない。ただ大型の白鳥型の観光船は、のんびりと行き交っていた。「諏訪湖のスワン」と呼ばれている。

「それって、駄洒落かよ、だよね。」

と、先輩が、今更声を立てて笑う。そして、乗船時に持参したコンビニ袋をガサゴソといわせながら、ペットボトルの緑茶と、苺ミルク味の飴を取り出し、乗組員達に「配給」として配った。なんだかちょっとしたピクニックのようだった。

「さあて、そろそろだな。」

七月の眩しい太陽の光に目を細めながら、先輩は目印の総合体育館までの距離を素早く目視で測った。岸辺近くは水深が浅いので近づけないし、その付近には船を停泊させられる上陸場はないので、引き返さなければならない。先輩が、

「転回用意!」

と叫び、綾乃は素早くメーンシートを手繰った。

「頭を下げろ!」

鋭く注意が飛ぶのと同時に、皆が首をすくめて移動するブームをやりすごした。船体は、くるりと向きを変えた。

 ここまでは全て一年生達が予期していた通りにことは運んだ。しかし、進路を変えて数メートルもゆかないうちに、綾乃とは別の船に乗っている部長が、叫んだ。

「全船停船!」

水の上で広く良く通る、朗々たる大音声で「提督」はそう呼ばわった。そして、互いに出来るだけ近づいた状態で投錨するよう指示した。ただし、船体がぶつからないだけの距離は、十分取ること。

「いいか、全船、船首を砥川の方角へ向けろ。」

砥川というのは、総合体育館の東側にある小さな川で、その川から湖へと流れが注ぐ河口がひっそりと前方に見えた。一年生達は、まごついたものの、先輩達が下すテキパキした指示に従って、船上で忙しく働いた。

「おーっし、準備いいな?」

停船作業が終わったのを見届けて、部長は船べりに座ったまま厳かに姿勢を正した。先輩達も、それに習う。一年生達だけが、狐につままれたような顔をしている。

「それではー、この一年の船の安全と順風を願ってぇー、全員、拝礼!」

部長の号令と共に、二・三年生らは大きく二度拍手を打ち、河口へ向かって船に着座したまま深々とお辞儀をした。一年生らも釣られるように、慌てて頭を下げた。

「よしっ!」

満足げに部長は一人頷き、彼の足元から布製の袋を一つ取り上げた。袋の口を縛っていた紐を解き、片手を突っ込んで、中から何やら取り出した様子である。袋は、部長と同じ船の部員達へ次々に回され、その度に手を入れて取り出した何かを互いに見せ合い、笑ったり、歓声を上げたりしている。

「あれって、何してるんですか?」

彼らの様子を離れた船から眺めながら、綾乃は船尾に腰を下ろした先輩に尋ねてみた。

「ん? ああ、あれ? 御神籤引いてるのよ。」

先輩は、そう教えてくれた。

「ほら、大吉とか小吉とか凶とか、神社なんかで引く、ああいうやつ。毎年、一年生の最初の湖横断の時にやる、うーん、儀式?伝統行事みたいな?そんなようなもの。噂だと、大吉を引いた部員は、レースでいいタイム出すって、言われてるらしいよ。反対に、大凶だとブームに頭をぶつけてたり、湖に落っこったり、色々碌でもない不運に見舞われる、っていう過去があるんだって。」

へええ、と一年生達は感心した。

「おい、吉川、受け取れ! 落とすなよ。」

掛け声と共に、部長は隣の船に向かって、御神籤の入った袋を投げた。ひょいっと上手に受け止めた次の船の部員達が、同じように籤を引いてゆく。

 綾乃達の船に、御神籤の袋が回ってきたのは、一番最後だった。袋の中には、まだたくさんの御籤が残っているようだった。まず先輩が引いた。小吉だった。

「見ちゃ駄目よ。手だけ入れて、ひとつ引いて。」

という先輩の指示に従って、次にもう一人の一年の女子が引いたのは、末吉だった。将棋の駒ほどの大きさの、しかし、厚みはもっと薄い小さな木片に、艶のある黒文字で記されている。

「小吉と、末吉だったら、どっちの方がいいんだっけ?」

先輩は、しきりと首を捻っている。

「はい、じゃあ、次、藤森さん。」

袋を差し出され、綾乃は、深く考えもせず、言われた通り、袋の口に片手を突っ込んだ。たくさんの乾いた小さな木片が、指先に当たる感触がした。出来れば凶は避けたいな、と軽い気持ちで考えながら、綾乃はざらざら札をかき混ぜた。近年、富栄養化の進んだ諏訪湖の水に落ちるのは避けたかったし、ブームにぶつけてこぶを作るのも御免だった。指先が選んだ一枚を、彼女は無造作に引っ張り出した。

 引いた籤には、「吉」の文字も、「凶」の文字もなかった。代わりに朱色で「渡」の一文字が、くっきりと記されていて、綾乃は面食らった。隣で先輩が、はっと息を呑む気配がした。いぶかしむ綾乃が何か言うよりも早く、

「部長!」

先輩が、声を上げた。

「『渡』が、出ました。」


 結局、その時は、「渡」の御籤について、先輩は、

「あとで、部長から、詳しい説明があると思うから。」

と、帰りの帆走の最中にも、何も教えてはくれなかった。綾乃達は、言葉少なにヨットハーバーへと戻った。誰も余計なおしゃべりはせず、必要最低限のやりとりだけを交わした。向かい風であったから、間切りながらの帆走で、彼らは黙々とヨットの操縦に専念した。

 しかし、船を停泊させ、全員で後片付けを済ませて、帰り支度をしていると、綾乃は部長に翌日の都合を訊かれた。

「いつも通り、部活に出ますけど。」

綾乃が返答すると、部長は頷いた。

「うん、なら、いいんだ。じゃあさ、明日、途中でちょっと練習を抜けて、一緒に行ってほしいところがあるんで、よろしく。」

「それって、どこですか?」

「下諏訪。」

次の日、その言葉通り、部長は、昼前にヨットハーバーでの練習を途中で抜け、綾乃を連れて上諏訪の駅からJR中央線に乗った。ひとつ先の下諏訪駅で降り、そこから更にバスに乗った。降りたのは、下諏訪神社の春宮だった。そのまま春宮へ行くのかと思ったら、部長が向かったのは、その西にある砥川だった。二人は、中之島と呼ばれる中州へと架かった小さな朱塗りの橋を渡った。

「昨日、みんなで湖の上から遥拝したのは、あの砥川を遡ったところにある、この中州の上にある浮島神社だったんだよ。」

部長は、そう教えてくれた。そして、彼は背負っていたデイバックから、古びた風呂敷包みを取り出した。

「さ、行こう。」

促されて、綾乃は彼の後について、浮島神社の社の前に立った。それは、本当にこじんまりとした簡素なお社だった。

 部長は、両手に風呂敷包みをうやうやしく捧げ持ち、社に向かって深々と頭を下げた。彼の後ろで、綾乃もさっぱり腑に落ちないまま、とりあえずお辞儀をした。

「これ、開けてみて。」

拝礼を終えた部長が、手にした風呂敷包みを彼女に差し出した。綾乃は、こわごわ受け取った。とても軽かった。結び目を解くと、中から出てきたのは、更にもう一重、薄紙に包まれ、くるくると折り畳んだ布地だった。広げると、現れたのは、そこに描かれた梶の葉の紋であった。


「それが、さっき校長室に掛けた、あの校章なんです。」

綾乃は説明を続けた。ヨット部の部長は、その後、彼女にひとつの指示を与えたという。今月、松本音和高校で学園祭がある。その当日、これを校長室の出入り口前に掛けてくること、と。

「でも、何のために?」

そこが雅弥には、不思議だった。綾乃は、クレープの最後の一口を飲み込み、指先についたクリームを舐めながら、首を振った。

「わかりません。うちの部長も、詳しいことは知らないみたいです。聞いてみたんですけど・・・。ただ、『渡』の籤を引いた者が、「合図」を運ぶ役目を引き受ける、って。」

「合図? 何の?」

「さあ・・・。そもそもあの『渡』の籤も、うちの部長が知る限り、もうここ何年も出てないそうですから。誰も詳しいことは知らないんじゃないのかな、って。」

雅弥は、考え込んだ。

「諏訪湖で、渡る、って言ったら、思いつくのは、「御神渡り」だけど・・・。」

「ああ、それは私もチラッと思ったんですけど、でも、あれって、冬ですよね? 今って、思いっきり夏じゃないですか。」

「うん。」

御神渡りとは、結氷した諏訪湖の表面に走る、氷の亀裂である。諏訪大社の神が、妻の女神のもとへ通った跡と言われている。

「それに、もし御神渡りのことだとしたら、わざわざ松本まで来なくちゃいけない理由がわかりません。」

確かに、それはそうなのだった。松本と御神渡りは、少なくとも雅弥の知る限り、何の関係もない。考えあぐねた末、雅弥は、全く別の質問をしてみた。

「ねえ、ところでさ、もう蜻蛉祭は、見てまわったの?」

「いいえ、まだ全然。ここへ来てすぐ校長室へ行ったから・・・。」

「だったら、これから少し見てまわらない? 折角、来たんだし。」

今度は比較的落ち着いた精神状態で、彼は尋ねてみた。

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