第12話 蜻蛉祭


 その後、至誠高校の東山先生経由で伝え聞いたところによると、音和高校の派手な示威行動は、至誠の生徒達に相当な驚きとかなりの憤慨と少なからぬ賞賛を巻き起こしたらしい。それから数日間というもの、至誠の応援団の部室からは、扉の開け閉めのたびに風船が転がり出し、あるいは面白がった生徒達によって持ち出され、教室のそこここに、廊下のあちこちに散らばるという愉快な光景を作り出していたそうである。相沢団長は、得意満面、鼻高々で、かつてない上機嫌だった。

 かくて万事が計画通りに都合良く運び、雅弥達は再び平穏で暢気な生活を送り始めた。五月は、すぐに過ぎ去り、六月は宗佑の吹奏楽部の定期演奏会があり、義理でチケットを買わされた雅弥は、弟の奈津樹を連れて聴きに行った。奈津樹は、小学校以来、吹奏楽部ではチューバ、個人ではフルートをやっているので興味があるのだろうと思ったのだ。

「音和の吹部って、すごいね。」

帰り道、弟は感心して兄に言った。

「男子がすごい多いじゃない。十人以上居たよね。うちの中学の吹部なんて、僕を入れて男子は三人しかいないのに。」

感心するとこ、そこかよ、と兄は心の中でつっこんだ。そういえば、会場では、小夜香の姿も見掛けた。一人で来ているらしかった。多分、彼女も、宗佑からチケットを買わされたのだろう。

 七月に入るとすぐに期末試験があり、それが終わると、校内は、蜻蛉祭と呼ばれる学園祭にむけての準備一色となった。

 棋道部の学祭準備は、はなはだ簡単で、景品の駄菓子を買い込み、呼び込み用のポスターを何枚か製作するだけで終了であった。あとは、当日、割り当てられた教室に囲碁板と将棋板を並べ、お客を待つだけでよい。対戦希望の客のおよそ七・八割が、近所の暇を持て余した爺様たちで、残りが、囲碁・将棋好きの小中学生であった。勝つと飴がもらえるので、勝負は真剣だった。他の高校の棋部の顔馴染みが、ふらりと立ち寄り、話し込むついでに一局打ってゆくこともあった。

 当日、雅弥は、朝から昼までの担当であった。この時間帯、棋道部への来客はほとんどなく、閑古鳥が鳴いていた。雅弥は、景品の飴を舐めながら、のんびりと定石の本を読んでいた。この前、部長で生徒会長の丸山先輩と対局してぼこぼこにされた後、もっとしっかり定石を覚えたほうがよいと忠告されたからだった。

「おい、あんま食うなよ。なくなっちゃうぞ。」

一緒に当番をしている先輩が、文句を言った。

「大丈夫っす。たくさんあるっす。」

雅弥は飴を頬張った口をもごもごさせながら、請合った。景品の買出し担当だった彼は、わざわざ駄菓子問屋まで自転車を飛ばし、「あわ玉」と呼ばれるアタリ付きの飴玉がいっぱいに詰まった大きな瓶を丸ごと一瓶購入した。「あわ玉」とは、当たり籤付きの飴で、保育園の頃から近所の駄菓子屋に寄るたびに、母にねだって買ってもらった彼のお気に入りであった。それを一瓶丸ごと買い込んだ嬉しさで、雅弥はほくほくだった。幼き日よりの積年の夢が、叶ったと思った。今現在、昔話に出てくる長者様のように満ち足りた鷹揚な心持ちであった。

「先輩も、どうぞどうぞ。遠慮しないで。たくさんあります。足りなくなったら、またすぐ買いに走るっす。」

盛んに勧めると、先輩は苦笑した。

 昼で当番が終わると、雅弥は他の部活の展示を見てまわった。鉄道模型研究会のNゲージや、特撮研究会の塩ビ製ウルトラマンや怪獣コレクションを熱心に眺めているうちに、思ったより早く時間が過ぎた。一時半から講堂で催される「合同演奏会」を観に行くと約束していたので、雅弥は時計を見て、慌てて講堂へ向かった。小夜香と宗佑が、これに出演するのだ。この企画は、吹奏楽部や室内音楽部、軽音楽部にギター部、リコーダーアンサンブル愛好会など音楽系の部を中心に、有志が、個人もしくはグループで参加する合同演奏会だった。この催しに、宗佑のフルートと彼の吹奏楽部仲間のピアノ伴奏者による演奏で、小夜香が踊るという。

「踊る・・・って、演奏会だろ? 他にそんなことするやついるの?」

雅弥の素朴な疑問に、宗佑は困った顔をした。

「いや、いないけど・・・でも、だって、可哀想じゃん。うちの学校はクラスごとの催しとかやらないし。あいつ、部活は、一人だし。」

音和高校の学園祭では、運動系の部活は出店、文化系の部活は、発表や展示をやる。それに、生徒会や応援団管理委員会による企画行事が加わる。よって、部活動をやっていないと、あまり参加できるものがない。そして、小夜香の属する西洋古典舞踊研究会の部員は、相変わらず彼女一人である。

「だから、おまえが参加する場を作ってやろう、っていうわけなんだ。ふうん・・・随分、親切だな。」

「うん、まあ・・・ほら、折角の蜻蛉祭だし・・・さ・・・。」

宗佑は、歯切れが悪い。明らかに困った顔をしている。雅弥は、片方の眉を上げ、黙ってじっと友人を見詰めた。そこには、言外の問い掛けと友の往生際の悪さに対する非難が、同時に込められていた。

「わかったよ。」

とうとう宗佑は、観念した。

「実は・・・付き合ってる。」

「ふうん、いつから?」

「いや、まだ、つい最近。」

「おまえから、告ったの?」

「まさか!」

宗佑は、慌てて否定した。

「むこうからだよ。」

「で、OKしたんだ。」

ひとりで頷きつつ、雅弥は感心した。

「いや、うん、いいと思うよ。お似合いじゃん、美男美女でさ。有賀って、なんだかんだいって、美人だし。」

「・・・・・。」

「めでたいことだよ、うん。」

しきりとひとりで頷く雅弥に宗佑は、なんとも言えない複雑な表情を浮かべた。

「いいよ、別にもう・・・はっきり言ってくれても。」

「いやいやいや、俺にだって、一応、遠慮というものはある。」

「いや、もう、そういう遠慮とかいいから! いっそ、言葉にしてくれてた方が、ましだから!」

「・・・じゃあさ、言うけどさ・・・、おまえ、勇気あるなぁ。」

素直に、正直に、雅弥は、感想を述べた。宗佑は、がっくりとうな垂れた。それにかまわず、雅弥は、続ける。

「だってさ、あいつ、おっかないじゃん。いや、割りに良い奴だけど。良い奴だっていうのは、よくわかってるけど。でも・・・それでも、超おっかなくね?」

「うん。」

宗佑は、溜息をついた。

「わかってる。兄貴にも、同じようなこと言われた。」

「へええ、丸山先輩が?」

「うん。あんな、気の強そうなの、大丈夫かって?」

「さすが、先輩。わかってる。で、本当に大丈夫なの?」

「・・・うん・・・大丈夫・・・・なんじゃないかな、多分、きっと。付き合う、ってちゃんと自分で決めたわけだし。」

自らに言い聞かせるように呟く宗佑は、悲壮な決意の色を浮かべている。

「すげえな、お前。」

感服して、雅弥は繰り返した。

「うん、すごいよ。」

「ありがとう。」

情けない口調で、宗佑は礼を言い、それから、雅弥にひとつ、頼み事をした。

「岩崎ってさ、ピアノ弾けたよね?」

雅弥は、顔をしかめた。

「弾けなくはないけど、下手だよ。ちゃんと習ってたわけじゃないもの。親に教わってただけだし。」

保育園の時から中学まで、自宅で母親にバイエルから始めて、ツェルニー、ブルグミュラー・・・と順に手ほどきされたが、結局、余り上達しなかったのだ。

「率直なところ、どの程度の腕前?」

「ベートーベンの『月光』のソナタ、あれの第一楽章と第二楽章は、普通に弾けるけど、第三楽章は、指がまわらなすぎて、全く別物に聞こえるくらいの腕前。」

よどみなく雅弥は、答えた。

「その説明、すっごく判りやすい。」

宗佑は、笑った。

「でも、それなら十分だよ。ちょっと手伝って欲しいんだ。ピアノ伴奏の子が忙しくて、ほら、他にもたくさん伴奏引き受けているから、僕らに付きっきりって訳にはいかなくてさ。本番まで、あんまり合わせて練習できないんだよ。それで、ちょっとだけ・・・。」

「無理無理無理、絶対無理。音源使えよ。」

雅弥は、慌てて断った。

「音源は、駄目なんだよね。元の曲を、半分くらいに縮めて使うつもりなんだけそ、あれこれ試して、どこをどう削るかこれから決めるんだよ。だから、その場であれこれ試すのに伴奏のピアノなしじゃ、雰囲気つかめないからさ。ね。」

「どの曲やるの?」

「ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』。」

「知らない。ドビュッシーは、『亜麻色の髪の乙女』と『月の光』しか弾いた事ない。」

雅弥は、抵抗した。

「まあまあまあ。」

宗佑は、友人の手に巧みに楽譜を押しつけた。

「ざっと譜読みだけしておいてよ。別に完璧じゃなくていいからさ。ちなみに、これは単なる好奇心から聞くんだけど、岩崎個人としては、誰の曲が好きなの?」

「モーツアルトとバッハ。バッハのインベンションだったら、弾いてもいい。」

「岩崎らしいや。」

宗佑は、にやにやした。

「だって、ドビュッシーって、揺ら揺らしていて弾きにくいじゃん。」

不平を言う雅弥に、宗佑はうんうんと頷いた。

「でも、曲を選んだのは、有賀だからさ。明日の五時に講堂の予約とってあるんで、よろしく。あ、どうしても断るんなら、有賀にメールして断って。」

「ひ、卑怯者・・・。」

そんな怖いこと、出来るわけがないではないか。 

 結局、無理やり言いくるめられ、雅弥は、不承不承、何度か練習に立ち会う羽目になった。

 最初の練習日、約束の時間に講堂に行くと、既に小夜香と宗佑は来ていて、鉛筆で色々書き込んだ譜面を二人してあーでもない、こーでもないと睨んでいた。ピアノの横には、なぜか大型の跳び箱が置いてある。

「なんで、跳び箱があるの?」

と、雅弥が尋ねると、

「舞台装置。」

トゥ・シューズを履きながら、小夜香が答えた。宗佑は、フルートを組み立てている。

 早速、ピアノの前に座らされる。高校に入ってからは、母もうるさく言わなくなり、たまにネットから落とした『千本桜』だの、他のボカロ曲のピアノ譜を遊びで弾くくらいなので、指の運びは、はかばかしくなかった。

「そこ、ピアノ、もっとテンポ上げて。」

片足で爪先立った姿勢を取りながら、小夜香が文句を付けた。

「無理、これが限界。指が追いつかない。」

譜面と鍵盤を交互に必死で目で追いながら、雅弥は余裕なく言い返した。

「あと、宗佑も、そんなに体揺らさないで。」

「だって、直立不動じゃ吹けないし。っていうか、そうやって僕に掴まるのやめて。」

「仕方ないでじゃん。他に掴まるところがないんだから。」

小夜香の説明によると、この曲は、本来、主役の牧神は男性で、それに数人の女性が加わる形式なのだという。それを、彼女が自分で振り付けに変更を加え、ソロで踊れるようにしたのだそうだ。パートナーが居ないので、時々、体を支えるために、小夜香はフルートを演奏している宗佑の肩や背中に手を置く。これは、どう贔屓目に見ても、恋人同士がじゃれあっているようにしか見えず、雅弥としては、目のやり場に困るのと同時に、はなはだ気まずかった。ただ、宗佑自身が雅弥の手前もあってか、小夜香の手が彼に触れるたび、猛烈に居心地が悪そうな様子だったので、幾分かは溜飲はが下がった。小夜香はといえば、一向に平気な顔で、澄ましている。もしかすると、宗佑が嫌がるからわざと余計にやっているのかもしれない、と雅弥は内心密かに疑った。

 こうした経緯があったので、一応、二人の練習の成果と自分の貢献の結果を見届けるためにも、合同演奏会は観に行こうと決めていたのであった。講堂の中は、ほどほどの観客数で、雅弥は空いているパイプ椅子をみつけて席に着いた。

 寄せ集めの有志の演奏会であったから、演目もバラバラで、サックスによるジャズに始まり、クラッシクギターの弾き語り風、フルート四重奏、クラリネット三重奏、弦楽四重奏、ピアノの連弾、打楽器のアンサンブル・・・と種々雑多に入り混じっていた。入り口で渡されたプログラムによると、宗佑たちの出番は一番最後だったが、演目内容が多彩で変化に富んでいたので、途中、存外と退屈しなかった。

 ほどなく演奏会は、終盤となり、やがて、司会者の女子が最後の演目の曲紹介を済ませ、舞台袖へ下がった。照明を落とした舞台の端にピアノが置かれ、伴奏者は既に席についていた。黒いシャツにズボンを身に着けた宗佑が、細い銀の横笛を手に舞台中央へと進み出た。彼の横には、跳び箱を並べてマットレスを重ねた上から暗幕を被せ、背景に溶け込ませた台座が据えてあった。スポットライトが彼を照らし出すのと同時に、観客は、その台座に横たわるほっそりとした姿があるのに気付いた。宗佑が、楽器を唇に当て、深く息を吸うと、澄んだ音色が細い糸を紡ぐように響き、波の揺らめきに似た調べのピアノが、静かに和した。

 横たわっていた小夜香は、まどろみの中から目覚めるようにかすかに身じろぎし、背中を丸めると、おもむろに上体を起こして、大きく伸びをする。手に造り物の葡萄を掴んで、口元へ運び、食べる仕草をする。それから、ゆっくりとつま先で舞台の上に降り立ち、踊り始める。しなやかな手足は、土色のぴったりとした衣装に包まれ、所々に深緑色の蔦が絡めてあった。長い髪を頭頂部できつく結い上げている以外、女らしさを微塵も感じさせない彼女は、限りなく中性的だった。男とも女ともつかない、それどころか、時に、人にすら思えず、ひどく獣じみて見えた。しかし、それでいて、舞台の彼女は、限りなく優美であった。ギリシャの古代の壺に描かれた像のようなポーズを取る時も、高く跳躍し、両腕を空に差し伸べる時も、彼女の全身はぴんと張り詰め、柔らかにしない、背中の薄っすらと張り詰めた筋肉が浮き上がって見えた。

 銀色の笛を奏でる宗佑の傍らへ、小夜香は滑るように近づき、背後から彼の両肩にそっと手を添えて、片足で爪先立つ。絡みつくように彼に纏わりつき、遠ざかり、またひらりと舞い戻る。白い指先で彼の頬に触れる。練習中、あれ程、嫌がっていた宗佑も、今は打って変わって真剣な集中した表情で、小夜香の一挙手一投足を見詰め、その姿を目で追っていた。笛の音は、誘うように蠱惑的で、そこには、濃密な陶酔と密やかな恍惚があった。二人が視線を交わしたまま、長く伸ばした旋律の最後の音が消えた時、息を詰め、心を奪われて見守っていた観客達は、ようやくホッとしたように息を吐き、拍手を始めた。場内に明かりが点って、さっきまでとは打って変わっていつもの笑顔に戻った宗佑が、深々とお辞儀をし、ピアノ伴奏者も立ち上がって、聴衆へ頭を下げた。小夜香は左右に両腕を広げ、片膝を折って気取った礼をした。つんと取り澄ましたその表情の裏は得意げで、喝采に対する押さえ切れない嬉しさが見え隠れしているのが容易に見て取れた。ついさっきまで漂わせていた不穏な妖艶さも、すっかり影を潜めていた。

 程なく、観客は、立ち上がり、ぞろぞろと講堂を退出していった。雅弥も、機械的にその人々の群れに混じって、上の空のまま歩き出し、外へ出た。

 ひどく混乱していた。

 ふと、以前、母が話していたことを思い出した。

 ずっと昔、六本木ヒルズを友人と一緒に散策していた時、何気なく森ビルでやっていた展覧会へ入った。それは、完全な気まぐれで、ただお喋りの合間に、飾られている作品のあれこれを好き勝手に批評すれば楽しかろう、という目論見のもとの、彼女のいつもの時間潰しに過ぎなかった。その作品や製作者に関する予備知識は、全くなかった。おそらく、入場券を買う時に、製作者の名前さえろくすっぽ見なかったに違いない。

 それからおよそ一時間後、母は友人と共に、真っ青な顔色によろめくような足取りで会場を出た。網膜一面に真っ赤な斑点が焼き付き、視界一杯を覆っていた。何を見ても禍々しい水玉模様が、病理のように全てに広がり、点々と世界に穴を開け、ポツポツ、ぶつぶつと繁殖し、肌の毛穴という毛穴を総毛立たせた。半日ほど、それは母の視界から消えなかった。挙句、彼女はその夜、熱を出して寝込んだ。知恵熱の一種であろうと思われる。水玉作者の情念が余りにも強烈で、その剥き出しにされた神経のような作品世界にあてられてしまったらしい。

 母にとっての不幸は、数年後、松本市の美術館の庭に、その水玉作者の巨大オブジェが据えられたことであった。子供の頃、雅弥と弟の奈津樹は、当時熱中していたとあるゲームに登場する花の名を取って、それらを「パックンフラワー」と呼んでいた。そして、その花に関する恐ろしい伝説を二人して拵え上げた。曰く、その花は夜な夜な、巨大なチューリップのような花弁を蠢かして通りがかる襲い、ぱっくりと食べてしまう。実際、ついそんな想像を巡らしたくなるほど、花々は、肉も骨も溶かしてしまいそうに毒々しく不吉で、くねくねとねじくれた茎や草が天に向かって身をよじる様は、子供心に「阿鼻叫喚」というものの心象風景を思い起こさせた。そして、それら全てが、点々とした細かな水玉模様に、びっしりと一面覆われているのである。

 不幸は、続いた。赤い水玉模様を点々と施したラッピングバスが、市内を走り始めたのである。

「なんでよりによって水玉。」

うわ言のように、母は呻いた。

「浅間電鉄ラッピングバスの方が、ずっと可愛いのに・・・。」

呻きながら、彼女は水玉バスが通り過ぎるために目を背ける。決して、水玉作者の芸術家が悪いわけでは、ない。受け取る側の心の問題である。

「だからね、芸術というものには、よくよく気をつけなさい。」

教訓めかして、母は力説する。

「本当に力のある作品は、人の心を強く揺さぶってしまうの。良い方向にであれ、悪い方にであれ。振り払っても振り払っても、取り付いてきて離れない。目を瞑っても浮かんでくる。耳を塞いでも、聞こえてくる・・・。」

「聞こえるって、何がだよ? 水玉模様は、少なくとも音はしないでしょ?」

雅弥が反論すると、

「わかんない。」

母は暗い顔付きで、陰気に答えた。

「でも、何かざわざわしたものが、耳元でずっと聞こえてくるの。不穏で、不安な・・・風の音みたいなものが。」

 今になってようやく、雅弥は母の言わんとしたことを理解した。講堂を出てからも、からみつくようなフルートの音色が耳を離れない。そして、宗佑に寄り添う小夜香のしなやかに伸びた肢体が、払っても払っても、浮かんでくる。そこには、脳髄に訴えかける甘美な誘惑が潜んでいた。だが、どちらかといえば幼く脆弱な心の持ち主である彼にとっては、むしろ警戒と言い知れぬ不安、そして微かな嫌悪を呼び覚ました。しかし、同時に強く心引かれ、揺さぶられてもいた。

「どうかしてる。」

雅弥は、独り言ちた。中庭へ入ると、夏の眩しい光が溢れ、周囲は祭りの賑やかな喧騒でざわめいていた。ソーセージや焼き鳥、クレープにたこ焼き、焼きソバなどを売る屋台がずらりとひしめきあって、売り手の呼び声や、買い求める人々などのさんざめきで熱気を帯びて賑わっている。眩しい夏の日差しの中、そうした人混みの騒ぎが煩わしくて、雅弥はほとんど無意識のうちに中庭を足早につっきり、校舎へ入った。そこは古い建物で、進路指導室や来客用玄関、応接室や校長室などが漆喰塗りのひんやりとした白い壁の向こうにひっそりと並んでいる。学園祭に使われていない区域なので、人の出入りもなくがらんとしている。古い建物の埃の匂いと、ギシギシと鳴る床板のニスの匂いが混じり合っている。

 と、思ったその時、あれっ?と、彼は何かに気付いた。廊下の端に、誰か居る。近づいてゆくと、小柄な少女が白い布を手に困り顔で上の方を見上げている。

「あの・・・何か?」

つい雅弥は、自分から声を掛けた。いつもは人見知りの彼らしくない行為だったが、この時の雅弥は、とりあえず牧神の幻影から逃れるために、何か気を紛らわすものが必要だった。そのため、いつになく積極的で大胆になっていた。

「えっと、もしかして、迷ったの?」

「いえ・・・。」

振り返った彼女は、突然話しかけられて、幾分戸惑ったような、しかし、同時にほっとしたような表情を浮かべた。

「それが・・・、私、これをあそこに掛けたいんですけど、届かなくて。」

彼女に釣られて、雅弥も『校長室』と書かれた札の下がっている廊下の壁を見上げた。札のすぐ横に、黒く塗った釘が一本、打ってある。

「貸して。」

雅弥が手を差し出すと、彼女は素直に布地を手渡してよこした。それは、大判のハンカチほどの四角な布で、上部には、布を広げるための細い棒が通してあり、中央には輪にした組紐が縫い付けてあった。

「ここに引っ掛けたらいいの?」

彼女が頷くのを確かめて、雅弥は『校長室』の札の横にある釘に輪を掛け、布を吊り下げた。

「ありがとうございます。」

彼女は、はにかみながら礼を言い、にっこりした。笑うと、頬にぺこりと笑窪が浮かんだ。

「どういたしまして。」

答えながら、雅弥は改めて、頭上の布をよくよく眺めた。何か描いてある。

「これって、五根の梶の葉じゃない?」

雅弥が問うと、彼女は驚きを隠さぬ様子で目を見張った。

「ええ、そうです。」

「諏訪の下社の紋だよね?」

「はい。でも、諏訪清涼高校の校章でもあるんです。」

「じゃあ、もしかして、君って、諏訪清涼の生徒?」

「ええ。」

そこで会話は途切れ、二人は、ぎこちなく黙り込んだ。

 雅弥は、その時、初めて相手の顔をしげしげと見た。いつものように、うわの空でちらりと目をやるのではなく、本当にきちんと注意を向けてと眺めた。

 ふっくらとした柔らかそうな頬の、高校生にしては幼い雰囲気の子だった。そう知らなければ、中学生だと思ったかもしれない。簡素な水色のワンピースを着て、少し癖毛なのか、綿飴のようにふんわりと広がった髪を肩の長さで切り揃え、小麦色に日に焼けた顔に、何も塗らない唇が、珊瑚のように赤かった。

 彼女の顔を眺めているうちに、不思議と雅弥の心はだんだん落ち着いてきた。さっきまで彼に付きまとっていた牧神の影が、潮が引くように薄れてゆくのを彼は感じた。

「よその学校で、こんなことして、変に思われるかもしれないんですけど、」

言い訳するようにおずおずと彼女は、切り出した。

「でも、これには、そのう、ちょっと色々と訳があって。なんて言うか・・・。」

「うん。」

雅弥は、続きを待ったが、彼女は、言葉を捜しあぐねて、そこで詰まってしまった。途方にくれて黙りこくったまま、頬が赤くなった。

「あのさ、良かったら、あっちへ行って、何か食べない?」

自分でも心底驚いたことに、雅弥は、そう言って見知らない女子を誘っていた。誘ってから、自分で自分の大胆さにびっくりした。その上、更に仰天したことに、彼女は彼の申し出を承知した。雅弥は内心、慌てふためきながら、しかし、一応、平静を装って、彼女を連れ、屋台のある中庭へ向かった。

「えっと、何がいい?」

とりあえず、尋ねてみると、彼女はぐるりと周囲を見渡し、それから、バスケ部がやっているクレープ屋を指差した。

「あれとか、どうですか?」

「いいね。」

二人は、行列に並び、順番が回ってくると、雅弥は小倉クリーム、彼女は苺生クリームを選んだ。

「あ、いいよ。俺、そういえばチケット持ってるんだった。」

彼女が財布を出そうとするのを雅弥は横から遮り、同じ組のバスケ部員に買わされていたクレープのチケットをポケットから引っ張り出した。すっかり忘れていたが、他にも焼きソバの券やら、ヨーヨー釣りの券やら、義理であれこれ買わされていたのを思い出した。

「じゃ、私、飲み物買います。」

と彼女が主張したので、二人はクレープを手に持ったまま、自販機の置いてある連絡通路までゆき、無糖の紅茶の入った冷たいペットボトルを二つ買った。中庭の日陰にあるベンチに並んで座り、クレープを齧りながら、彼女は、ぽつりぽつりと話し始めた。

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