第9話 長野至誠高校
「どう?」
小さな階段を登り、地上の光が差し込む本堂に這い出すと、雅弥は得意げに小夜香の方を振り返った。彼女は、信じがたいという表情で、まじまじと荘厳な堂内を見回している。
「本当に・・・ここ、善光寺・・・なの?」
「うん。」
「だって、時間だって、十分もかかってない。せいぜい五分かそこらで・・・。」
「そんくらいだな。あっ、今度は、ちゃんと時間計ろうか?」
「信じらんない・・・。」
うわ言の様に、ぶつぶつと口の中で小夜香は呟いている。
「でも、さっき、極楽の鍵だってあったじゃん。ちゃんと、触って確認したでしょ?」
バネ仕掛けの隠し扉を出た後、雅弥は、ふと思いついて、最初の時とは逆の、左側へと折れてみたのだ。戒壇巡りはコの字型の地下回廊で、両端の階段が出口と入口になっている。最初に百瀬先輩と右へ折れた時は、すぐに出口の戒壇へ出たが、今度、小夜香と一緒に左へ進むと、廊下は一度目の時よりも長く続き、壁を伝いながら歩いてゆく途中に「極楽の鍵」が、確かにあった。
小夜香は、自分達が今しがた登ってきた階段を振り返り、顔をしかめた。
「やだ、私達、入り口側から出てきちゃってる。早く行きましょ。誰か来ないうちに。」
二人は、足早に内陣を抜け、持参した靴を本堂の土間に置いて、きちんと履くのももどかしく境内の庭へと降りた。そして、庭を突っ切ると、目の前に聳える山門をくぐり、振り返った。
「ほら。」
山門にかかった額に、くっきりと刻まれた「善光寺」の文字を、雅弥は小夜香に目で指してみせた。彼女は、強く頷いた。既に驚きと疑念は去り、切れ長な目が異様に輝いている。
「それで、至誠高校はどっち? 地図、出そうか?」
「いや、大丈夫。えっと、確か・・・。」
雅弥は、百瀬先輩に見せられたグーグルマップの地図を、忙しく頭の中で再生した。
「山門を背にして立って・・・うん、この道だ。」
門前町とは逆方向の、城山公園の方角を、彼は指差した。目的地までの道のりを、二人ははやる気持ちから、ほとんど小走りで進んだ。道筋は、比較的単純で、ほぼ道路に沿って行くだけで、すぐに広々とした校庭と割りに新しい感じの校舎が姿を現した。運動場では、体育会系の部活動の生徒達が練習に励んでいる。歩道から眺める二人のすぐ近くにサッカーゴールがあり、サッカー部の部員達が、延々とシュートを打っている。ゴールキーパーが、右に左にボールを追う。
「ねえ、ここにまだ居るかもしれないよね?」
不意に小夜香にそう言われ、とっさに雅弥はなんのことかよくわからなかった。
「居るかも、って誰が?」
「あんたが今日、見かけて、お城まで跡をつけたっていう至誠の生徒のこと。」
じれったそうに、彼女は、言葉を重ねた。
「まだ、学校にいるかもしれないじゃない。」
「さ、さあ? わかんない。居るかもしれないし、居ないかもしれないし・・・。」
「ううん、きっと居る。」
謎の確信をこめて、彼女は断言した。
「まだ二時過ぎだし、下校するには、早すぎでしょ。多分、部室とかにいるに決まってる。だから、探そう。」
「いや、探すって、どうやって・・・?」
目を白黒させながら、雅弥は尋ねた。
「あんた、その生徒二人の顔、見たんでしょう?」
「え、いや見てない・・・こともないけど、ほとんど見てないよ。見たとしても覚えてない。だいたい、他人の顔とか覚えるの苦手なんだよ。」
「はあ? なんでよ? 歴代松本城主の家紋は全部覚えてるくせに、なんで顔は覚えられないわけ?」
「知らないよ。仕方ないだろ、そういうふうに頭が出来てるんだから。人の記憶力の恣意性に、勝手に文句を言われても困る。」
「ふん。」
小夜香は、不機嫌そうに唇を噛んだ。
「だったら、それでもいいから、探そう。案外、顔を見たら、思い出すかもしれないし。」
彼女は先に立ってさっさと歩き始めた。雅弥は、他にどうしようもなくて、仕方なく後を追った。
至誠高校も音和と同様、制服がなので、二人が校内に紛れ込んでも、全く問題は無かった。ジャージ姿の小夜香など、どう見ても体育会系の部活中の女子である。違和感のないことこの上なかった。
一方、雅弥は校門をくぐったところで、いつも好んで襟に付けている蜻蛉の校章のことを危ないところで思い出し、急いで外すと、ポケットにしまった。至誠高校にも、自分のような家紋・文様・校章愛好家が居ないとは限らない。もっとも、仮に居たとしたら、友達になってみたい気もした。そして、お気に入りの家紋や記号について、心ゆくまで語り合えたら、しみじみ素敵だろうと考えた。気の小さい彼には、他校の敷地に勝手に入り込むのは、随分と気が咎め、びくびくと落ち着かなかった。
対照的に小夜香の方は、そんな良心の呵責など微塵も感じていないらしく、見知らぬ校内を我が物顔でずかずかと進んでゆく。
「ねえ、どこに行こうとしているわけ?」
声を落として、雅弥は囁いた。
「部室棟みたいな所がないかと思って。至誠の応管の部室があるかもしれないでしょ。あ、ほら、あの体育館みたいな建物の横にずらっとならんでるあそこ、あれ、部室じゃない?」
確かにそうだった。テニスコートの向こう側に、ドアがずらりと並んだ棟があり、ドアの前にそれぞれ、野球部、バレー部、水泳部、軟式テニス部、バスケ部・・・等と表記されている。しかし、それらは全て運動系に属する部活ばかりで、応管のものらしき部屋は見当たらない。
「俺、思うんだけど、」
雅弥は、部室棟の扉をもう一度、念入りに確認している小夜香の背中に向かって、控えめに声を掛けてみた。
「もし、仮に応管の部室を見つけたとしても、今日、見かけた至誠の二人は、そこにはいないんじゃないのかな?」
彼女は、不機嫌そうにくるりと振り返った。
「なぜそう思うの?」
「だって、応管って言っても、俺達みたいな推薦枠なわけだろ? 俺らだって、音和の応管の部室には、今朝呼び出されるまでは、ここんとこずっと行ってなかったじゃないか。俺は、普段は棋道部の部室に居たし、丸山は吹奏楽の練習室か音楽準備室だし、有賀さんの、ええっと、なんとか舞踊部って、どこでやってんの?」
「西洋古典舞踊研究会。」
ぴしゃりと小夜香は、訂正した。
「あ、うん、それ。で、俺が言いたいのは、至誠の推薦枠の二人も、休みの日は、自分達の本来の部活動をやってるんじゃないかと・・・。」
「それだっ!」
小夜香が大声を上げたので、雅弥はびくっとした。テニスコートで練習中の女子数名が、ちらりと不審そうな視線を投げてよこしたのを見て、更にひやひやした。
「な、なんだよ?」
「書道部。相沢団長が、言ってたのを覚えてる? 至誠の推薦枠は、書道部から代々選ばれる、って。」
「ああ、うん。なんかそんなような話だったな・・・。」
「つまり、書道部を探せばいいってことじゃない!」
彼女は、くるりと向きを変え、そのまま校舎へ向かってずんずん歩いてゆく。雅弥は、慌てて後を追った。
校舎へ入ってみると、一階は、理科室、理科準備室、3-1、3-2、3-3・・・という具合に、教室が順に続いている。教室内は全て無人で、がらんとしていた。校舎の端から端まで来ると、小夜香は次に二階へと階段を登り始めた。
「ねえねえ。」
階段の途中の踊り場で、雅弥は彼女を引きとめた。
「書道部を見つけたら、どうすんの? っていうか、そこに今日、俺が見た二人が居たとして、それでどうするつもり?」
小夜香は、じろりと彼を睨み、顔をしかめた。
「どうするって、勿論、はっきり言ってやるわよ。あんたたちが、どんな手段で音和へ来てたのかわかった、あの通路はもう二度と使わせない、って断言してやる。音和の勝利宣言よ。相沢さんにも、反撃しろ、って言われたじゃない。」
「いやいやいや。あの人も、そこまで直接的な対決を望んではいないと思うぞ? それに、あの通路を使わせない、って一身体どうやって?」
「塞げばいいじゃない。あの床に釘でも打って。」
「待て待て待て待て、あれ、一応、国宝だから! 勝手に釘とか打ったらまずいから! 怒られるよ!」
「えー、じゃあ、アロンアルファで接着・・・。」
「もっと駄目だろっ!」
さすがの雅弥も、全力で突っ込んだ。いくらなんでも、無茶苦茶だ。そして、こいつなら本気でやりかねない。雅弥は、冷たい不安を感じた。万が一、実際にやったら、目も当てられない。
「だったら、どうすればいいわけ?」
小夜香は、仏頂面である。
「どうすれば、って、それはわかんないけど・・・。」
二階に着くと、数学準備室があり、そこからまた教室が並んでいる。反対側の端は、美術準備室とそれに隣接する美術室であった。中からは、何やら声が聞こえてくる。どうやら、生徒達が居るらしい。
小夜香が、美術室の扉をノックした。雅弥が、止める間もなかった。
「はあい。」
と、声がして、扉が開き、黒髪に白いカチューシャをした女生徒が顔を出した。彼女の背後では、イーゼルに向かい、何か描いていた部員達が、一斉に筆を持つ手を止め、何事かとこちらを見た。ぷんとテレピン油の匂いがした。
「なあに? 入部希望?」
女生徒は、快活に尋ねた。
「あ、いえ、すみません。私達、書道部を探してるんですけど、間違えてしまったみたいで・・・。」
小夜香は、初々しい一年生の風情で、礼儀正しく答えた。
「書道部? それだったら、2-1の教室でやってるよ。国語準備室の隣り。国語準備室わかる? 隣の校舎の二階の端にあるから。」
女生徒は、親切に教えてくれた。
「ありがとうございます。お邪魔しました。」
小夜香が礼を言い、後ろに居た雅弥も慌ててぺこりと頭を下げた。
小夜香は、もうさっさと廊下を駆け出していた。
「なあ、おい、・・・。」
「ほら、こっち。早く。」
「いや、でも・・・。」
「いいから、来なさいってば。」
連絡通路で繋がる隣の校舎へ移動すると、国語準備室は、すぐに見つかった。その隣が、2-1の教室だったが、そこに人影はない。
小夜香は、空っぽの教室をぐるりと見回し、それから、国語準備教室の扉へそっと手を掛けた。
鍵は、かかっていなかった。扉がすっと開き、二人は、中を覗き込んだ。墨の匂いがする。かなり狭い部屋で、一方の壁際に置かれた本棚には、字書の類がぎっしりと詰まっていた。その隣は、棚になっていて、硯や筆、水入れや半紙などが収めてある。乾かしている最中なのか、作品のいくつかが、文鎮で押さえて置いてあった。部屋の隅に、大きな屑篭があり、中は、書き損じらしき紙や、新聞紙で一杯だった。それら紙くずの一番上に、パルコのロゴが印刷された黄色いビニール袋が捨ててあるのが雅弥の目に入った。その途端、彼の脳裏に、パン屋の前で見掛けた二人の男子生徒の姿が、ありありと蘇った。一人は、至誠の校章の入った手拭いを腰にぶら下げ、もう片方は、パルコの黄色い袋を手に持っていた。
無意識のうちに、雅弥の手が、屑篭の中のビニール袋を掴んでいた。
「どうしたの?」
驚いたような小夜香の問いには答えず、彼は袋に手を突っ込み、中を探ってみた。
出てきたのは、一枚のレシートだった。「玩具、二千八百円」と記されていた。日付は今日で、時刻は十時四十三分。
ひとつの推論が、ゆっくりと頭の中で、輪郭を現してゆく感覚があった。
「それ、何? どうかしたの?」
重ねて尋ねられて、彼は我に返った。
「ううん、何でもない。」
彼は、手にしていたものを再び屑篭に放り込み、小夜香の方を振り返った。
「有賀さん、もう戻ろう。」
雅弥がそう言うと、小夜香は妙な表情を浮かべて何か言いかけたが、しかし結局、黙って頷き、大人しく国語準備室を後にした。
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