第7話 尾行

 一人になって、さて、これからどうしようかと思案しながら、雅弥は部室棟の一番端にある棋道部までぶらぶらと行ってみた。案の定、まだ、誰も来ていない。時計を見ると、十一時を過ぎたところである。少し早いが昼食でも買いに行こうか。今日は、午後からの登校のつもりが、相沢団長からの召集メールで、朝、慌てて家を出たので、母に弁当を頼む時間がなかったのだ。

 雅弥は、歩いて校門を出た。左に折れて少し行けばコンビニがあるが、なんとなくそのまま真っ直ぐに道を渡り、だらだらと長い坂を下った。暖かな日差しの、気持ちの良い日和である。日曜日の午前中の住宅街は静かで、時折、車が通り過ぎるのすらまれだ。どこかの庭で、遅めの鶯が囀るのが聞こえてくる。そうやって数分ものんびり歩くと、やがて鮮やかな青空を背に、若葉に囲まれた松本城の天守が見えてくる。

 観光バスが何台も停まった駐車場を横切り、城の庭園に入った。美しい朱塗りの橋が架かった堀を左に見ながら、大勢の観光客と砂利を敷き詰めた道を進む。右手には藤棚があり、白と紫の二種類の藤の花房が、たくさんの蜂に取り囲まれながら、甘い香りを放っている。その奥には、松が並び、堀に沿って曲がると、天守の横に月見櫓の朱塗りの欄干がちょこんと姿を現す。

 お堀端に立ち止って月見櫓を眺めながら、雅弥はそこで真夜中に見た龍の姿を思い起こした。

 堀の中から現れた龍が、水を滴らせながら、ぐんぐんと首をもたげて高く高く伸び、やがては大天守の天辺にまで達した夢のような光景を胸の中で繰り返し反芻した。あの晩の出来事が、次々と蘇った。天守の最上階に隠された、代々書き継がれたノートのこと、それがしまわれていた菓子箱に厚く積もった埃の匂い、急傾斜の梯子段を踏む裸足の足の裏の感触、懐中電灯が照らし出す梁や船形天井、軋んで鳴る床板・・・。

 四月の真昼の日差し中、堀の水は滑らかな鏡となって天守を映し出し、その影の上を白鳥達がすいすいと横切ってゆく。気持ちがざわざわとして、落ち着かなかった。心の中に、何かが引っかかっていた。

 ポケットに両手を深く突っ込み、やや猫背気味の姿勢で、雅弥は再び歩き出した。あの晩のことで、何か小さな、けれど大事なことをすっぽりと忘れている気がした。

 もどかしい気分のまま、ずんずんと歩き続けた。城門わきにある博物館の前を通り過ぎ、大通りに出ても、一定の歩調で、どんどんと歩き続ける。これは、何かを集中して考える時の彼の癖だった。数学の問題に詰まった時など、雅弥は、しばしば自分の部屋をうろうろと歩き回り、それから、ふらふらと居間へさ迷い出し、台所へ、そこから玄関へ、そしてまた居間へとあてどなく家中を歩き回り、母と弟に嫌がられ、迷惑がられた。

「もおっ! パパみたいなこと、やめてよね。」

奈津樹が、ぷりぷり怒りながら文句を言う。

「雅君、すっごく、うっとおしいんだけど。」

味方してくれるのは、父だけだった。

「歩きながらだと、考え事がはかどるんだよ。な?」

と、父は弁護する。そして、時々、雅弥を誘って、車で郊外にある大型書店へ行き、二人で長い時間、一緒に立ち読みをする。母も弟も、

「そんなの、足が疲れすぎる。」

と、同行を拒否するが、家で座って読むより、本屋で立ち読みする方が、遥かに読書が捗るし、良く頭に入るというのが父と雅弥の一致する見解であった。帰り際に、何か一冊、好きな本を買ってもらう時、雅弥はいつももう既に立ち読みしてしまった本の中から、一番気に入ったものを選ぶ。

「でも、それ、もう読んでしまったんだろ? まだ読んでない本の方が、よくはない?」

と、父が尋ねたことがある。まだ雅弥が小学生だった頃のことだ。

「ううん、これがいい。とても面白かったから。ちゃんと全部読んで面白いのを確かめてから買ってもらった方が、安心だもの。」

そうして、買ってもらった本を、彼は満足して、飽かず繰り返し何度も読んむのだった。そうやって気に入った本を暗記する程、読み込むのが、彼の子供の頃からの読書の流儀であった。

 気が付くと、薄川に架かる橋の手前にまで来ていた。そこには、極彩色に塗られた、大人の背丈よりも高い巨大な化け蛙が置かれている。雅弥は、橋を渡らず、化け蛙の前を左に折れて、縄手通りと呼ばれる細い路地へ入った。通りの両側には、観光客向けのこまごまとした店がたくさん並んでいる。少し行くと、煎餅屋の店先で、醤油煎餅を網に載せて炙りながら売っている。香ばしい匂いにつられて、雅弥はポケットから財布を出し、小銭を払って焼き立ての煎餅を買った。店の人が、くるりとまいて漏斗状にしたも紙の中に、煎餅をざらざらと掬って入れてくれる。焼き立ての煎餅を齧りながら、彼は更に歩き続けた。

 心の片隅には、相変わらず何かが引っかかっていた。それは、おそらく極めてささいなことだ。でも、何か意味がある。自分は、何かを見落としているのだ。何かちょっとした、しかし、重要な何かを。

 例えば、図形の問題を解く時、一本の補助線をすっと書き加えてやった途端、たちまち目の前の霧が晴れたように、回答へ辿り着く道筋が見てとれることがある。頭の中のもやもやとしたわだかまりの中に、答えは既に潜んでいるのだ。しかし、それに辿り着くために必要な、一本の補助線が足りないのだ。そんな感覚が、しつこく彼を悩ませた。

 パン屋の前で雅弥の歩みが、ふと止まった。何かサンドイッチでも買おうかと思ったのだ。さすがに、醤油煎餅だけでは、腹が膨れない。パン屋には、喫茶室も併設されていて、買ったパンを注文した飲み物と一緒に食べられる席がしつらえてある。ガラス張りの店内を雅弥が眺めていると、中から高校生くらいの男子が二人、ちょうど喫茶室から出てきた。そして、店の前の路上に立っていた雅弥のすぐ横をすれ違った。彼らを通すために一歩退いた雅弥の視線が、何気なく二人の方へ向けられた。男子のうちの一人は、パルコの黄色い袋を持ち、もう一人は腰に手拭いをぶら提げている。結わえ付けられた手拭いに、何やら家紋のような印がちらりと見えて、雅弥はつい吸い寄せられるように凝視した。

 実は、彼は松本城の手拭いを所有している。中央に城の絵が描かれていて、それを囲むように、歴代の城主の家紋が散らしてある。松本城の城主は、頻繁に代わっており、石川氏の笹竜胆、小笠原氏の三階菱、戸田氏のはなれ六星、松平氏の丸に三つ葉葵、堀田氏の黒餅竪木爪、水野氏の丸に花沢潟が、揃って描かれている。家紋マニアの彼は、駅前の土産物屋でその手拭いを見つけて大層気に入り、すぐさま買い求めたのだった。中学生の時のことだ。以来、使わずに大事に仕舞ってある。その通りすがりの男子の腰に結わえ付けられた手拭いを、ついしげしげと見入ってしまったのも、似たような家紋の模様が入っているのではないかととっさに想像したからであった。

 しかし、目を凝らして見ると、一瞬の間に目に入ったそれは、枝にとまった鳶の意匠であった。長野至誠高校の校章である。

 雅弥は、はっとして振り返った。手拭いの持ち主は、その連れと一緒に、どんどん遠ざかってゆく。とっさに雅弥は、彼らの後を付けた。

 縄手通りを引き返し、例の奇怪な大蛙の前を右に折れ、警察署の前を横切って、真っ直ぐに進んでゆく。それは、雅弥がついさっき来た道を、逆に戻ってゆく形になった。雅弥は、用心深く少し距離を置いて、何食わぬ顔でついていった。先を行く彼らの足取りには、迷いがない。何を喋っているのかは聞こえないが、暢気そうに談笑しながら、軽々とした歩調で進む二つの後姿は、程なく城門の中へと吸い込まれていった。櫓門にある料金所で、入場券を買っている。どうやら城内へ入るつもりのようだ。松本城は、内堀の外側は、無料で散策できるが、本丸跡や天守の区画に入るには、料金を払う必要がある。雅弥も慌てて、ポケットを探り、財布を取り出した。

 のんびりと散策する観光客に混じって、彼らは中庭を横切り、天守を目指した。入り口の石段を登って、靴脱ぎで靴を脱ぎ、備え付けのビニール袋に仕舞うと、袋を手に提げて、どんどん中へ入ってゆく。

 彼らが、月見櫓に辿り着き、そこで移動をやめた時、雅弥の鼓動は高鳴った。自分の顔を見られたくなかったので、部屋の中へは入らず、出入り口の手前の壁にはりつくようにして、中の様子をこっそり伺った。横を通り過ぎる観光客が、あからさまに挙動不審な彼の姿に、訝しげな視線を次々に投げてゆくが、この際、やむを得ない。不審者として、通報さえされなければいいと腹を括った。

 日曜日なこともあって、城の見学者は多かった。月見櫓へもひっきりなしにぞろぞろとやって来ては、景色を楽しみ、そして、出てゆく。けれど、雅弥が縄手通りから付けてきた二人は、何食わぬ顔で見物する風を装いながら、なぜかいつまでもそこから動かなかった。

 しかし、五・六人の老婦人達の一団が、賑やかな話し声を振りまき、笑いさざめきながら立ち去った後、部屋の中は、二人を除き、誰も居なくなった。

 まるでその瞬間を待ち構えていたかのように、二人は素早く行動した。部屋の片隅で屈みこむと、何やら手でしきりに探っていたかと思うと、微かに軋む音と共に、床板の一部が、ぱかり開いた。そして、彼らは、互いに一言も発することなく、その床下に出来た空間へ順番に体を滑り込ませた。パタンという音がして、床板が閉じ、それっきり静まり返った。

 雅弥は、あっけにとられて、一部始終を物陰から見守っていたが、いくら待っても二人が出てこないのをで、とうとう足音を忍ばせ、彼らが姿を消した辺りの床へ近づいた。跪いて、床にぴったりと耳を押し当ててみたが、何の物音も聞こえない。床板をしげしげと眺め、指先でそっと撫でてみた。年月を経て磨きこまれた床は、つるつると滑らかだ。けれど、よくよく仔細に目を凝らしてみると、板と板との継ぎ目の間が、微妙に広い箇所が一部にあった。思い切って、彼は、板目の間に爪を引っ掛けて、持ち上げてみた。床板が、およそ六十センチ四方の大きさに開いた。一辺に蝶番の金具が打ってあり、開閉できるようになっている。中を覗き込むと、真っ暗な底知れぬ闇が、ぽっかりと口をあけている。よく見ると、手前の側に、梯子段らしきものがかけてあり、まっすぐに下へと降りている。あの二人は、この穴へと降りて行ったに違いなかった。

 その瞬間、頭の中で、様々な事柄が、ぐるぐると駆け巡った。「どうして、こんなにしょっちゅう、松本に来られるんだろう。行動力、有り過ぎじゃね?」という宗佑の言葉、月見櫓で眠っていた時に聞いた、床が軋む音とそれに続く、誰かの「しっ!」と囁く声。夢だと思って今まですっかり忘れていた出来事が、一気に意味をなして繋がった。確かその日の早朝に、至誠の旗が音和の校門前に置かれているのが発見されたのではなかったか。これまでのいくつかの出来事と疑問に、すっと一本の補助線が引かれ、因果の関係が繋がった。ひとつの推測が、くっきりと雅弥の脳裏で明瞭な形をとった。すなわち、この目の前で深々と開いた穴こそが、長野至誠の驚くべき行動力の秘密なのではなかろうか。

 荒唐無稽な仮説ではあったが、なぜか雅弥には、確信があった。だが、仮説は、証明されて、初めて意味を成すものである。

 彼は、恐る恐る梯子段に足を掛けてみた。しかし、四・五段降りかけたところで、足音と話し声が近づいてくるのが聞こえて慌てて梯子段を上り、パタンと床板を閉じるや、その上に膝から飛び乗った。危ないところで、間一髪間に合った。月見櫓へ入ってきた見物客らは、部屋の隅で不自然に正座している少年を発見して、怪訝そうな顔をした。雅弥は、そっぽを向いて、なるべくそ知らぬ態でやり過ごした。

 そうやって座っている間に、少し冷静になってきた。よくよく考えてみると、このまま一人で床穴の探索をするのは、いささか無謀だということに気付いた。自分が下に降りている間に、誰かが床板を閉じてしまったりしたら困る。床板を開けっ放しにしておくのも感心できない。だが、閉めてしまったら、中で真っ暗になってしまう。得体の知れない暗闇の中に、一人取り残されることを想像すると、身の毛がよだって背筋の辺りがぞくそくした。雅弥は、かなり慎重な性質である。忌憚無く述べるならば、「臆病」の範疇に分類してもよいくらいだ。我が身の安全対策に万全を尽くした上でなければ、とてもではないがこんな暴挙は出来ない。

 雅弥はしばし熟考の後、おもむろに携帯電話を取り出した。電話をかけた先は宗佑であったが、すぐに留守番電話に切り替わってしまった。折り返し電話が欲しいと、とりあえず吹き込んだが、あまり当てにならないだろうと思った。おそらく吹奏楽部の練習中ならば、当然、携帯は留守電の設定になっているだろう。だとすれば、練習が終わるまでの当分、宗佑からの助力はあてにできない。

 電話を切ると、雅弥は、自分が正座している床を睨みながら、自分への決断を迫られた。小夜香に頼ることは、出来れば避けたかった。今朝も、彼女はすこぶる機嫌が悪そうだった。しかし、他に選択肢を思いつけなかった。彼はいやいやながら携帯を取り上げた。

「もしもし?」

予想に反して、すぐに彼女のぶっきらぼうな声がした。

「岩崎君? 何?」

「あ、あのね。ちょっと頼みたいことがあって。今から、月見櫓に来られない?」

しばらく小夜香は、押し黙っていた。電話越しに、彼女の逡巡する気配が、伺えた。

「それ、今すぐじゃないと、駄目なわけ?」

「どうしても、今、来て欲しいんだ。悪いけど。本当は、丸山に頼もうと思って電話したんだけど、出ないんだよ。」

「出るわけないじゃん。練習中は、いつも留守電にしてるんだから。」

「うーん、やっぱりそうか。出来れば、二人とも来て欲しかったんだけど、この際、有賀だけでもいいから頼む。」

「なんで?」

「理由は・・・、」

雅弥は、躊躇った。ここで下手な説明をしても、小夜香がすんなり信じてくれるとは、とても思えなかった。

「こっちに来てくれてから説明するよ。ちょっと、ややこしいというか、なんというか、電話じゃ言いにくいことなんだ・・・。」

「ふうん。」

胡散臭そうに、小夜香は、唸った。

「わかった。」

しばらく沈黙した後、彼女は承諾した。

「これからすぐ行くから。」

「助かる。」

雅弥は、ほっとして礼を言った。

「あとさ、もうひとつお願いがあるんだけど。来る途中に、コンビニ寄ってきてくんない?」

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