第6話 高校生活

その後の二週間ばかり、雅弥は申し分なく楽しい高校生活を満喫した。囲碁班と将棋班からなる棋道部に入部し、部員不足に悩む先輩達から大いに歓迎された。同時期に入部した他の新入生達も、顔を合わせてみれば、小・中学生の頃から地区大会で手合わせしていた顔馴染みだったり、同じ囲碁教室出身だったりした。人見知りな傾向のある雅弥も、それですぐに気楽に打ち解けることが出来た。

 驚いたのは、棋道部の丸山部長が、宗佑の兄の生徒会長だったことだ。入学式の折、在校生代表として挨拶する彼を、やけに格好良い人だな、と心に留めて覚えていたのが、まさかの棋道部での再会であった。バスケ部と兼部の上、生徒会の仕事も多忙という事で、棋道部の部室へ顔を出す時間は余り多くはなかったが、囲碁の腕前も抜きん出ていて、去年は全国大会の個人戦で、準決勝に勝ち進むという戦歴を誇っている。

「おまけに頭も良いらしい。学年主席で、医学部志望だって。」

弟の奈津樹にそう話して聞かせると、生意気盛りの中学生は、

「なに、それ。そのチートキャラ!」

と、憤慨した。

「顔が良くて、勉強も運動も出来て、しかも、生徒会長って、そんなのアニメかゲームの中にしか存在しちゃいけないんじゃないの?」

「と、思うだろう? いや、俺も、ずっとそう思ってたんだけど、でも、現実に存在してたよ。音和に実在してた。」

奈津樹は、溜息を付いた。

「ねえ、雅君、世の中って、不公平だね。」

「うん、まあな。でも、そう気を落とすな。おまえも、中学で頑張れ。」

兄は、弟を励ました。

 しかし、棋道部には、駄目な先輩達も多数存在していた。彼らは入部したての、いたいけな一年生達に早速、麻雀を教え込み、放課後は、囲碁も将棋もそっちのけで卓を囲む。白熱する勝負は、下校時刻を過ぎても続き、見回りの先生の目が来ると、慌てて部室の明かりを消し、真っ暗な中で息を殺す。先生が立ち去ると、勝負を再開であり。下校後も、みなで夕食に行ったり、カラオケやボーリングに連れて行ってもらうこともあった。

 連日、帰宅の遅い雅弥に、母は、少々呆れ気味の様子ではあったが、高校受験が終わった反動で、多少遊びたいのだろう、と一応は黙認されていた。

「ただし、来月末の中間試験の結果によるからね。」

と、やんわり釘も刺された。

「大丈夫、大丈夫。先輩達が、去年の試験問題くれるって言ってたから。」

雅弥は、気楽に請合った。

 応援管理委員会からは、その後、特に何もなかった。宗佑と小夜香とも、別の組ではあるし、顔を合わせる機会もあまりなかった。廊下ですれ違った時に、立ち話をする程度である。

「ねえ、聞いた?」

放課後、たまたま渡り廊下でフルートを手に音出しをやっていた宗佑に行きあい、雅弥は声を潜めて話しかけられた。

「あの後、また至誠の旗が、持ち込まれたらしいよ。」

「へえ、そうなんだ。」

おざなりに雅弥は答えた。この件に関して、彼は余り関心がない。おのずと熱意のない口調になった。

「体育館の出入り口の所に置いてあったんだってさ。兄貴が言ってた。結構、大胆だよね。相沢団長は、怒り狂ってるらしい。」

「俺達、また応管に呼び出されたりするのかな?」

心配になって、雅弥は、尋ねてみた。

「かもね。少なくとも、兄貴は、そう予想している。二・三年生の間では、もうかなり噂になっているらしいよ。一年生は、まだそういう事情に疎いけど、上級生達は、ここ数年音和の応管が至誠にやられっぱなしだってこと、よく知ってるからね。去年の学園祭の時、前日に準備してあった立て看板が、本番当日の朝に裏返しになってたり、郷友会が作った灯篭が、上下逆さまになってたり。あと、別な日に、生徒が登校したら、正面玄関前にロープが張られてて、靴箱に置いてあった上履きが、洗濯ばさみでズラっと吊り下げてあったんだって。」

「それは、すげえなあ。」

その驚くべき光景を頭の中で想像して、雅弥はつい感嘆してしまった。

「うん、確かに壮観な眺めだったって兄貴も言ってた。でも、自分の上履きをそこから探し出すのは、大変だったってさ。探しながら、兄貴は笑い死にしそうだったけど、相沢さんは、今にも憤死しそうな形相だったらしい。そりゃね、単なる悪戯だし、実害が無いって言えば、そうなんだけどさ。でも、憤慨してる音和生は、相沢さんだけじゃない。むしろ、うちの兄貴みたいなのの方が例外で、長野至誠にコケにされて面白くない、って考えの生徒は多いみたい。どういうわけか、至誠高校の連中は神出鬼没、それなのに、音和の応管は、はかばかしい反撃も出来ずに不甲斐ない、というのが大方の評判。」

「でもさ、そんなん、俺らのせいじゃなくね?」

「うん、まあ、正直、僕もそう思うけどさ。でも、果たしてそれで済むかなぁ・・・。」

はなはだ心許ない宗佑の口調であった。

 不幸にして宗佑の予想は、当たった。四月の末、黄金週間の連休を目前にして、相沢団長から呼び出しメールがあった。

 日曜日の朝、雅弥は重い足取りで、応管の部室へと向かった。

「おはよう。」

部室へ入ると、相沢団長が、にこりともせず雅弥を迎えた。宗佑は既に来ていて、雅弥を見ると、弱々しい笑顔を向けた。彼らの前の机には、雑多に積み上がった冊子やビラの束、がらくたの上に、大きな黒い旗が二本、横たえて置かれていた。

「あー、えっと、おはようございます。」

口の中で、雅弥は、小さく呟いた。小夜香の姿は、ない。

 団長が淹れてくれたお茶を、三人は無言で啜った。団長は、空になった湯飲みを置くと、壁の時計をちらりと見上げた。十時を十五分ほど過ぎている。

「有賀さんから、何か聞いてる? 今日は、来られないとか?」

雅弥と宗佑は、顔を見合わせた。

「いえ、何も聞いてませんけど・・・あの、電話してみましょうか?」

宗佑が携帯電話を取り出した時、ノックもなく、扉がいきなり開いたかと思うと、小夜香がつかつかと入ってきた。タイツにレオタード姿の上に裾の長いカーディガンを羽織っている。布製のバックを肩から斜めにかけ、髪をきつくひっつめに結った横顔は、彫像のように冷ややかだった。見るからに、機嫌が悪そうだ。一挙手一投足が、電気を帯びているようにぴりぴりとしていた。おそらく、今、この世の中のありとあらゆるものが、問答無用で彼女の気に触っているに違い、という雰囲気を振りまいていた。遅れてすみません、の一言も無く、ただ上級生に対する最低限の礼儀として、団長に向かって、

「どうも。」

とだけ、短くぶっきらぼうに言い放った。

 さすがの相沢団長も、小夜香が発散する不機嫌のオーラに一瞬、怯んだように見えたが、そこは素早く立ち直り、

「それじゃ、揃ったから、始めようか。」

と、声を掛けた。そして、机の上の旗を指し示した。

「見ての通り、長野至誠の旗が学校内のあちこちに放置されることが続いている。そろそろ、こちらとしても、具体的な対抗策を練るべきだと思う。そのために、今日は集まってもらった。」

一年生達は、黙ったまま何も言わない。団長は、ぐっと彼らを睨んだが、強いて気持ちを押さえて言葉を続けた。

「いいか、これは、音和の名誉に関わる問題だ。前にも話した通り、この件に関しては、全て君ら特別推薦枠の委員にかかっているんだ。君らだけが、長野至誠と直接、対峙することが出来るんだからな。ぜひともここは奮起して欲しい。」

団長は、熱く檄を飛ばすが、一年生達は頑なに沈黙を貫いた。宗佑は、自分のつま先を興味深げにじっと見詰め、小夜香はあらぬ方向へつんと顔をそむけ、雅弥は、絶対に団長と目線が合わないよう、目の焦点を絶妙にずらして、背後の壁を眺めた。要するに、三者三様のやり方で、この危機的状況を可能な限り無難にやり過ごそうと決意していた。そのためなら、たとえ多少、気まずい雰囲気になろうとも、断固として沈黙を押し通す、という並々ならぬ気概が揃って感じられた。少なくともその点に関してだけは、三人は言わず語らずのうちに、一致団結していた。

「おまえらなぁ、ちったぁ、愛校精神というものをだな、松本音和生ともあろう者が、自覚を持てよ! だいたい長野に松本が・・・。」

業を煮やした団長が、だん、っと拳で机を音高く叩いた時であった。

「よお、お邪魔!」

爽やかな声がして、部室の扉が開き、そこから顔を出したのは、宗佑の兄の生徒会長であった。手に大きな黒い旗を持っている。

「はい、これ。さっき、柔剣道場前にあったって、バトミントン部から生徒会に報告があってね。これは、応管の管轄だから、持って来た。」

「ああ、そりゃ、どうも。」

出鼻を挫かれたように、相沢団長は、そっけなく言って、旗を受け取った。

 会長は、面白そうに部屋の中の一同をぐるりと見回した。

「色々と大変そうだね。でも、まだ新米の委員達だ。お手柔らかに頼むよ。僕の弟も、居ることだしさ。」

穏やかな、しかし、案外と有無を言わせぬ重みのある口調だった。飄々とした態度とはうらはらに、これは冗談で言っているんではないよ、という言外の警告が含まれているように聞こえなくもなかった。団長が、微かに顔をしかめた。

「相変わらず、過保護だな、蒼太。だが、これはおまえが口を出せる問題じゃないし、俺は、おまえの指図を受ける気もない。」

団長の口ぶりは、断固としていて、どちらかといえばかなり挑戦的であった。

 会長は、とんでもない、とでもいうように、肩をすくめた。

「別に、指図なんかしてないよ。僕は、あくまでお願いしてるだけでさ。」

如才なく言い返すと、急に雅弥の方を向き、にっこりした。

「ああ、岩崎君。どう? 棋道部には、毎日出てるの?」

「あ、はい。」

突然に声を掛けられて、どぎまぎしながら、雅弥は返答した。

「そう。僕も、そのうち顔を出すからさ、また、みんなでカラオケにでも行こう。君、アニソン詳しいねぇ。今度は、アニソン縛りでやろうか。」

「はあ。」

蚊の鳴くような声で、雅弥は答えた。なんだかひどく気まずかった。相沢団長の目の前で、宗佑と雅弥は自分の側だよ、とこれみよがしに生徒会長が宣言しているような構図に見えなくもなかった。

 それから、会長は、弟の背中をとんと軽く叩き、そのまま部室を出て行った。そうして兄弟で並ぶと、二人の面差しには、やはり似通ったものがあった。ただし、宗佑の方が、幾分か兄より背が高く、目尻の下がった、優しげな目元は、いかにも人が良さそうで、怜悧に整った兄の顔立ちとは、随分と違う印象を与えていた。

「ええっと。」

部室の扉が閉まると、相沢団長が咳払いした。

「話の腰を折られたけど、まあ、あれだ、長野至誠へなんらかの反撃を開始して欲しい。君らにはなんらかの行動をただちに取って欲しい、とそういうことなんだ。」

「でも、反撃って、つまり何をすればいいんですか?」

雅弥は、とりあえず一番気になることを尋ねてみた。

「そうだな・・・、例えば、至誠がうちに置いていった旗を全部、向こうの学校へ突っ返してくる、っていうのはどうだ?」

「それって、私達に長野まで行けっていうことですか?」

団長の提案に、小夜香が、きっとなって口を挟んだ。

「うん、まあ、そういうことになるが・・・。」

「電車で、ですか?」

と、渋い顔で宗佑。

「まあ、そうなるな・・・。」

「けど、結構、時間かかりますよ。確か、普通列車だと一時間以上。快速でも一時間。特急使えば、もっと速いですけど、そうすると特急料金かかるし。」

と、雅弥。

 下級生らの次々の反論に、団長は顔をしかめた。

「もちろん、嫌だというなら、別の方法でも、全く構わない。内容も方法も手段も、全て君らの好きにしてくれていい。我々としても出来る協力は、惜しまない。ただし、実行するのは、あくまで君達だ。この原則は、はずせん。だから、可及的速やかに、対策を練ってくれ。結局、この現状を打開できるかどうかは、おまえらに掛かっているんだ。わかってるな? 以上だ。解散。」

そんな激励とも、脅迫とも取れる団長の言葉で、一年生達は、とりあえず、その場から解放された。だが、さすがに、このまま事態を放置するわけにもいくまいと、三人は、体育館脇の渡り廊下の隅で急遽、緊急対策会議を開いた。だが、少しばかり知恵を絞ってみたところで、これといった妙案が浮かぶはずもない。

「やっぱり、一度、長野まであの旗、全部、担いで、置いてくるしかないのかな。」

宗佑が、弱気になった。

「まさか。冗談じゃない。」

ぴしゃりと小夜香が、却下した。

「そんなの、馬鹿みたい。」

「でもさ、四月中だけでも、至誠は、もう何度も音和に来てるっことだよね。あの旗、四本目だっけ? 今日も、置いていったみたいだし。ほら、さっき兄貴が持ってきたやつ。どうしてこんなにしょっちゅう松本に来られるんだろう。行動力、有り過ぎじゃね?」

宗佑の疑問は、もっともで、雅弥もこの点が不思議でならないのだった。自分達と同じく彼らも高校生なのだから、車やバイクを使えるはずがない。そうなると鉄道しか考えられないが、その鉄道も、余り便利とはいえない。そもそも長野県は、やたらと面積が広い上に、多くの険峻な山々に遮られているため、各地がばらばらに分断されている傾向がある。江戸時代に、多くの小藩に分かれていたのも、あながち理由が無いわけではないのだ。後に一つの県となってからも、県民としての一体感は、すこぶる薄い。実際、県歌『信濃の国』が、辛うじて県民を一つに繋ぎとめているのであり、もし、この歌がなかったならば、とっくに分裂していたのではないか、とまことしやかに囁かれる程である。長野市と松本市の場合、そこに県庁所在地を巡るいざこざが更に加わる。この両市の互いへの競争心は、両親が他県出身で、家庭内にその種の共通認識が欠けている雅弥にしてみれば、今ひとつぴんとこないのではあるが、松本音和高校と長野至誠高校のライバル関係も、結局のところは、この辺りに遠因がありそうだとは、なんとなく察せられるのだった。

 「ねえ、私、もう行くから。」

不意に、小夜香はそう言い放つと、足元に置いてあった布製の鞄を取り上げて肩に掛けた。

「えっ、いや、ちょっと、ちょっと!」

「有賀さん! ねえ、まだ、どうするか、全然、決まってないし・・・。」

雅弥と宗佑が、異口同音に抗議の声を上げたが、彼女はフンと冷ややかな目つきで二人を睨んだ。

「だって、こうやってぐだぐだ喋ってたって何にもならないじゃない。時間の無駄。それとも何か思いついたことがあるわけ? あるんなら、今、聞いてあげるけど?」

男子二人は、困惑した。

「ほら、ないでしょ。私、忙しいから。じゃあね。」

言い捨てて、さっさと彼女は行ってしまった。男子二人は、顔を見合わせた。

「なんだ、あれ? ひどくね?」

憮然として、雅弥は、遠ざかってゆく後ろ姿を見送った。。

「うーん、なんかすごくご機嫌斜めだねぇ。」

さすがの宗佑も、やれやれと首を振り、困った顔をした。

 それからしばらく、二人でぼそぼそと話し合ったが、小夜香が鋭く看破したように、どちらからも建設的な意見は、何一つ出なかった。

「至誠は、なんだって、こんな気軽にひょいひょい松本へ来るかねぇ。」

雅弥は、嘆いた。ある意味、恐るべき勤勉さである。きっと長野至誠の特選委員は、自分とは正反対の、愛校精神と使命感に燃えた人物なのだろうか。

「はっきり言って、迷惑だよ。」

「まあね。最悪、一度は、長野に旗持って行くしかないのかなぁ。じゃないと、相沢さんが、納得しなさそうだ。だけど、部活の練習予定が、ぎっしり入ってるから、出来れば、それは避けたいんだよね。今日だって、応管の用事があるから、って無理やり途中で抜けてきたけど、パートリーダーの目が怖かったよ。」

「あ、今日は吹部、朝から練習だったんだ。」

「うん、岩崎は? 部活は?」

「俺は、午後から。」

「そっか。じゃあさ、悪いけど、僕も、そろそろ練習室に戻るね。」

宗佑もそそくさと立ち去ってゆくのを、雅弥はぼんやりと見送った。

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