第7話 だいがく

 絵梨子は窓を開け放しにしたままテラスに出て、忙しくて放置しているうちに枯れてしまった花を捨て、プランターの掃除をしていた。すっかり日は高くなって、ただそこにいるだけでも暑いのに、絵梨子は元気なものだった。舞は寝起きの格好で冷蔵庫に直行し、アイスコーヒーを一気飲みした。

「おはよう」

 絵梨子がプランターから目を離さずに言う。舞は返事をせず、空になったコップの奥に残ったコーヒーの水滴を見つめていた。だが、しばらくして、思い立ったように話し出す。

「今日は三時から卒論の集まりがあるので、それに間に合うように家を出ます。夜はそのまま皆と食べてきます」

「じゃあ先に寝るよ。帰ってきたら鍵閉めて、ちゃんと布団かけて寝なよ」

「はい」

 舞はコップを流しで軽く洗って洗面所へ向かった。

「朝ご飯食べないの」

 絵梨子が少し声を張り上げる。舞は「お腹空いてません」と返事をしたが、テラスの絵梨子に届くだけの声は出ていなかった。顔を洗って髪を梳かす。自室に戻って念のため持ち物の確認をするが、いつも必要なものは全部鞄に入れて持ち歩いているので、いちいち見る必要もない。服は絵梨子が洗濯して部屋まで持ってきておいてくれた束の一番上に置いてある一セットに着替える。

 大学までほぼ一時間の道程だ。ほとんど電車の中なので、暑苦しい外を歩くのは、アパートから駅までと大学の最寄り駅から大学までを合計しても十五分だ。たったそれだけでも毎日のように熱中症で倒れそうになる。

 せめて卒業論文を書き上げるまでは死ねない。完成したところで高い評価が得られるとは限らないが、四年もかけて勉強してきたことをたった三万字にも纏められないでこの世を去るのはあまりにもひどすぎる。

 電車の車両に弱冷房車と書いてあった。しかも、全ての窓が全開だった。乗客が皆日陰の席に座っていたので舞は日の当たる席に座るしかなかった。電車が動き始めても日光は舞から離れていくことなく舞の黒くて長い髪を温めた。髪が燃えるかと思うほどの熱を感じた頃、向こう側に座っていた乗客が電車を下りたので、すかさずその席に座り替えた。背中と腿の裏にさっきまで座っていた乗客の汗が染みこんだ。

 電車を下りるとやはり外の方が暑いと気付く。終点なので乗客全員が我先にと電車を下り、階段を下りる。舞は先頭グループに混じっていたが、階段の途中で次々と抜かされていった。図書館に入るまでの辛坊だった。そこまで行けば適温に調節された快適空間で過ごすことができる。駅から大学図書館までの道には遮蔽物がなく、直射日光が当たる場所が多い。気合を入れて駅の地下街を通り抜けて階段を上がり外に出る。

 日傘をさした女子がゆっくり歩いているが、日傘が場所を取っていて抜かすことができない。数秒だけ車道にはみ出して追い抜かすと舞は徒歩で出せる最高速度で図書館に向かった。図書館の自動ドアが開くとそこは天国の水準をはるかに通り越していた。作り物の冷たい空気が舞の全身を取り巻いた。急激な気温の変化で頭が痛む。舞はいつも陣取っている席を真っ直ぐ目指した。目当ての席に鞄を置いて倒れこむように座る。深呼吸をすると無味無臭の冷たい大気が舞の気管を通過して肺に充満する。舞は額に手を当ててしばらく空中を見ていた。パソコンのキーボードを叩く音や本のページをめくる音、小声でおしゃべりする声がしていた。

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