第4話 おしばい

 ところどころ錆びている金属の棒をしっかり掴んで勢いよく引っ張る。金具の接続部分がパチンと音を立て、四本の金属の棒が長方形の頂点を作り、垂直に天に伸びた。絵梨子と芦沢は短い方の辺同士に向かい合って、目の前の金属の棒の片方を掴んで逆さに持ち上げた。

「もうちょっと壁際に寄せるか」

 芦沢が長机を引きずりちょうどいい場所を探して何度かガタガタと動かす。絵梨子も長机の脚を持って軽く移動させてみる。段ボール箱の中に入っているパンフレットとフライヤーを長机に置き、予約席のチケットを並べる。絵梨子がチケットを名前の順番に揃えている間に、芦沢がパイプ椅子を二つ用意する。

「あと十分で開場だけど大丈夫そうかな。もうお客さんちらほら来てるよ」

 絵梨子と芦沢は声がした方を見る。エレベーターの扉が開くや否や焦り気味に演出家が話しかけていた。絵梨子は「バッチリです」と言って長机の向こう側に立って演出家にサインを送った。

「あたし、トイレ行ってくるわ」

 芦沢が絵梨子の返事も待たずに走り去っていった。演出家もすぐに劇場の中に入ってしまったので絵梨子は廊下で一人きりになった。腕時計を見ると演出家が言った通りの時間だった。気が早い客ならもう来てもいい頃だ。欠伸などしていると偶然入ってきた客に目撃されかねない。

 目の前のエレベーターの階数表示が「1」から「2」に変わって、間もなく「3」、「4」と等間隔の時間差で移動していった。絵梨子は客が来たのだと即座に判断し、笑顔で迎えられるように階数表示を見つめて気を引き締めた。「5」にランプがつくまで二分もかからなかった。エレベーターの扉が開いて、見知った服装の人間が出てこちらに近づいてくるまでを無表情で見ていた。

「予約した舞です」

「毎度ありがとうございます」

「楽しみにしてました」

「開場まであと数分なのでここでお待ちください。全席自由席です」

「はい」

 舞の分のチケットはすぐ手に取れるところに置いていた。探す必要もなく手渡す。舞の口角が心なしか持ち上がったような気がしたが、頬の筋肉が強張ってうまく笑い返せなかった。

 舞は長机から少し離れたところで雨で濡れた傘を畳んだ。それが終わると扉と反対側の壁に背を凭れてスマートフォンを取り出した。舞がいた場所に雫が垂れて水浸しになっていた。拭いておこうかとも思ったが、これからまだ濡れた傘を持った人達が入ってくるのだし無駄だと考え直した。

 芦沢がハンカチで手を拭きながらトイレから出てきた。舞の姿を認めると絵梨子に目配せした。

「座らないの」

 パイプ椅子から派手な音をさせながら芦沢が言う。受付係が座っている分には問題ないのだが、芦沢は肘をついて若干みっともないポーズを取っていた。絵梨子は舞に芦沢の何か言いたげな表情が見えないように立ったまま時々チケットの位置を調節したりパンフレットの端を整えたりして、舞と芦沢の間に壁を作った。

劇場の思い扉がゆっくりと開いて、演出家が出てきた。

「あっしー、絵梨子、開場するよ」

 演出家は自分で扉の下についている金具に、壁に取り付けられた輪を引っかけて閉まらないようにした。両側済ませると舞に営業スマイルを向けて中に誘導した。舞は絵梨子に何の挨拶もせず劇場の中に入った。

「あの子、いつも来るよね。よっぽど絵梨子のことが好きなんだ」

 芦沢が溜まりかねて発言する。

「来なくてもいいって言うんだけどね。どうせ私には一円も入らないんだし」

「変な二人。何でずっと待っている間一言もおしゃべりしないの」

 絵梨子は相槌を打ってごまかした。話と言っても、この場で何を話せばいいのかわからない。今回の公演の内容についてここで説明しても仕方ないし、日常会話のようなことは散々家でしている。仲良くしているところを見られるのも照れ臭いような気がする。

「あ、お客さんいっぱい来たよ」

 芦沢が小声で言うのを聞いて、絵梨子はエレベーターの扉を見た。数人が降りてきて、階段からも人が来るのが見えた。

 ビルの五階の天井を壊して、五階と六階の空間に作られた小さな劇場は舞台と客席の境目が曖昧で、客席の前方三列くらいまでは照明が当たってしまうような作りだった。舞はいつも決まって客席の三列目の真ん中に座る。稽古の時に演出家が座る席の二列前だった。どうしてそんな前の方に座るのか絵梨子にはわからない。絵梨子は稽古の時いつも一番前の席に座るが、役者が動いて生じた空気の流れが伝わってくるような気がするものだ。舞がいつも座る席にも何か、その席でしか味わえない楽しみがあるのかもしれない。それで、そんな席にいつも座っているものだから、受付が大方終わって裏から劇場の中に入ると、いつも舞の顔がよく見える。表情は他の客と同じで真剣そのものだ。観客というものは、感動していても簡単には表情を崩さないもので、役者が感情を露わにしているのとは対照に、本当に楽しんで見てくれているのか不安になるくらいに硬い表情で見ている。舞も滅多に笑わないし、ましてや泣くなんてことはないから、どんな気持ちで見ているのかを知ることができない。公演が終わるといつも感想を聞くけど、頭の中が整理できる前に言葉にしようとするから、「すごく面白かった」とか「なんかすごかった」みたいなありきたりな感想しか言ってくれない。公演を見てどんなことを思ったか具体的に訊きたいのに、肝心なことは教えてくれない。

「タバコ吸ってくるわ」

 絵梨子は隣で退屈そうに舞台を見ていた芦沢に身振りで伝えて劇場を出た。

 いつかに店で無料で貰ってきたマッチに火をつけてタバコに燃え移らせる。タバコの煙で白く浮かび上がった自分の呼気でマッチの火を消す。最近のハイテクな喫煙所にはタバコの煙を吸い込む機械が導入されていて、喫煙所であろうと煙が充満しない。ここでは喫煙でさえ作業のように感じられる。タバコを吸っている間は何ものにも囚われずにリラックスできるはずなのに、タバコに火がつき吸い終わるまでのある一定時間のサイクルがあって、二本目を吸う以外にはその落ち着いた時間を延長する方法はない。タバコ一本分が時間の単位になっただけだ。そして、吸い終わったら吸殻を適切な方法で捨てて、扉をきちんと閉めて出ていかなければならない。

 ドンドンと鈍い音がして、その方を見ると、窓ガラスの向こうで芦沢が何かを伝えようとしていた。声が通らないので何を言っているのかわからない。絵梨子はタバコの火を消して扉を開けた。

「受付のもの片づけ始めちゃおうよ」

 絵梨子は返事をして芦沢の後ろをついていった。余ったパンフレットとフライヤーを元の段ボール箱に戻し、劇場の備品の長机と椅子を畳んで壁際に寄せる。段ボール箱は車に積み込む荷物と一纏めにした。

「中はどんな感じなの」

 絵梨子が訊くと、芦沢は腰を叩いたり腕を伸ばしたりしながら答えた。

「順調だよ。別にミスとかもないし」

「そうか。じゃあよかった」

 開場した時と同じように劇場の扉が開いて、閉まらないように固定された。足早に帰って行く客が一人いただけで、しばらく誰も出てこなかった。アンケートの回収をしなければならない。芦沢が鉛筆を入れてもらう箱を出し忘れたと段ボール箱に取りに戻った。五分もすると客が外に出始める。アンケートを進んで出してくれる人や、書いていないので他の客の陰に隠れて去っていく人など様々だ。舞はアンケートとにらめっこして、かなりの時間席に座ったままでいるが、結局何も書けないで出てくるのが常だった。舞が出てくるのは、役者が挨拶に出てしまって、客ももう誰も座ってないような状態になってからだ。

「アンケートの回収はこちらです」

 舞が出てくると芦沢はいらない気を遣ってわざとどこかへ行ってしまう。他の人達は絵梨子と舞など気にも留めない。舞は笑顔で絵梨子にアンケートを渡す。

「すごく面白かったです」

「それはよかった」

「絵梨子さんは今回はどんなことに関わったんですか」

「衣装や小道具を買ってきたり、スタッフのスケジュール調整や稽古の進み具合を記録したり、力仕事とかお遣いとかしたり」

「雑用ってやつですか」

「まあ、そうなるね」

「あ、ネズミ」

 舞が突然言うので絵梨子はどこかから生きたネズミが出てきたのかと思って足元を見る。

「耳ですよ」

 絵梨子は舞の大きい目が自分の右耳を捉えていることに気付いた。そういえば、今日は新しく買ったネズミの形のピアスをつけていたのだった。リアルな造形に惹かれ、絵梨子も気に入っていた。

「今日は片づけとか打ち上げ

とかあるんですよね」

 舞の質問に絵梨子はうなずいた。

「じゃあ先に帰って寝ますね」

「うん、おやすみ」

 舞は右手を上げて満面の笑みを浮かべてエレベーターに向かった。人混みで見えなくなるまで絵梨子は後姿を見ていた。舞がエレベーターに乗って振り返った時には絵梨子はもう客から話しかけられて別の方を向いていた。

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