第3話 ねおき

 目が覚めた瞬間の視界は真っ暗なはずだ。睡眠中の脳波が途切れて現実に意識を取り戻した後、閉じていた瞼を開くという順序が必ずあるのに、毎朝起きた時それを冷静に振り返ることができない。覚醒している間は目を開けていることが自然なので、眠りから覚めるのと瞼を開くのは同時だと思われるだろうけれど、睡眠から覚醒する一瞬、人は皆瞼を開くという行為をまずするはずなのだ。だからはっと意識を取り戻したその瞬間に見ているものは自分の瞼の裏側でなければならない。

 瞼を閉じている時、どこにいても同じになる。布団でも畳の上でも、椅子の上でもくさむらでも(多少寝心地は違うだろうが)、リラックスして何も見ないでゆったりとした呼吸と心拍だけに気を留める。自分が誰よりも身長が低くて体重がどれくらいあって出身はどこで何という町のどの辺りに誰と住んでいて日中はどこにいて食べ物は何が好きでいくつ趣味を持っていて友達からは何と呼ばれているかなど関係なくなる。

 自分は今覚醒しているとわかっている時、瞼を開けると見えるのは、自分が最後に眠り始めた場所だ。今その場所はルームメイトで大学の先輩の絵梨子と一緒に住んでいるアパートの自室だ。外泊しない限りどんな朝も同じ風景しか見ることができない。自分の右足の延長線上にある勉強机の上には古本屋で買い漁った後ページを一枚も開かずに放ったらかしにされているヴィトゲンシュタインやニーチェやアレントと仰々しく書かれた本の背表紙が見える。枕元には食べようと思ってそのままにされていた絵梨子が出張先で買ってきた明太子味のポテトチップスがある。左側に壁があって圧迫感がある。何かポスターでも貼っておこうかと毎朝思うが、結局一年以上何も貼らずにいる。手が届くところに置かれたスマートフォンは充電済みだ。アプリを開けば外の世界がいくらでも身近になる。

 SNSでしか面識がない人の自慢話や、大っぴらには言えない内容をネット上に匿名で懺悔するように書いたのであろう投稿や、完全に別人のようにセルフプロデュースして万人受けするようなことを書き連ねているだけの中身のないかっこいい台詞が毎分毎秒量産されている。そんな世界で自分の言葉を自信を持って言えるのだとしたら、それはどんな文章になるのだろう。どんな人間の目に触れても問題視されないが、かと言って、誰か特定の人に向けたわけでもない文章。舞は《今日は三時までに先生に草稿を送る。あと少し手直ししたら終わりにしよう》という文章がタイムラインに反映されたのを確かめ、ベッドに寝転がったまま、ジャクソン・ポロックの絵がプリントされたクリアファイルを手探りでベッドの脇にある鞄から取り出す。

 卒業論文は自分の頭に乗せたリンゴに矢を射るようなものだと毎日自分に言い聞かせている。一節一節を書き進めると、書いた言葉がそのまま自分の頭上に戻ってくる。下手をしたら自分の体に刺さる。

 ベッドの上に座ったまま紙にシャーペンを走らせる。消しゴムで消した消しカスが紙の上の平らな地表から滑り落ちていく。要らなくなったものはさっさとどけないと続きを書く際に邪魔になる。勢いよく息を吹きかけても、消しカスに命が宿ることはないから、舞は思いっきり消しカスを吹き飛ばした。

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