螺旋の夢

すずね ねね

✳︎

螺旋の夢




 あなたは、全身に嫌な汗をかいて飛び起きた。つい今まで見ていた、夢のせいだ。

 どんな夢を見ていたのか……その輪郭をとらえようとすればするほど、夢の形はあなたの中から溶け落ちていく。

 悪夢だったことは間違いがないのだ。心臓は早鐘のように鳴り、ベタつくシャツは不快を誘う。あなたは喉の渇きを覚え、キッチンへ向かった。

 古いフローリングが軋み、6畳ほどの寝室から出る。それだけで、どこか不気味な。言い知れぬ不安感が襲ってくる。

 薄暗い室内を慣れた足取りで進み、キッチンに足をふみ入れる。そういえば、明日は可燃物の日だと思い出しながら、冷蔵庫を開け放つ。

 あなたはペットボトルのお茶を飲み下すと、少しだけ汗が引いていくのを感じた。

「なんだっていうんだ」

 静かな室内に、あなたの声が響く。夢の内容は思い出せないのに、あなたは毎夜悪夢にうなされ目を覚ましていた。

 リビングテーブルに腰掛け、深い溜息を落とす。電子時計の無機質な光を確認すると、午前5時を告げている。

 テレビをつけると、いつものニュース番組が始まった。あなたがぼんやりとテレビを観ていると、玄関の方でカタンという音が聞こえた。

「今日は早いな」

 あなたが購読している新聞を取ろうと、腰を浮かせ玄関を見た。

「え……?」

 一瞬、あなたの視界に人影が見えた気がした。瞬きをした瞬間には消えていた。あなたは再び暴れ始めた心臓を落ち着かせようと深呼吸し、玄関の電灯をつけた。

 オレンジ色の光に照らされた玄関には、誰も立っていなかった。

「なんだ、気のせいか」

 寝不足だから、とあなたはわざとらしく口に出すと、気を取り直して郵便受けに右手を突っ込んだ。

 あなたの右手に、べちゃりとした生温かいものが触れた。水っぽいそれは、なんともいえない不快感をあなたに想起させる。

「ひっ……」

 郵便受けから手を引き抜き、あなたは喉が詰まったような小さな悲鳴を上げた。右手にべっとりとついていたのは、真っ赤な液体だった。

「い、イタズラ……!」

 あなた自身に言い聞かせるような言葉は、無理やり間口を開いた郵便受けによって裏切られた。

 あなたは悲鳴をあげることすらできず、郵便受けの中身を凝視する。

 左手だ、とあなたは思った。少なくとも人間の、大人のものだ。その手首から先が、真っ赤な血を滴らせ、あなたの家の郵便受けに入っているのだ。

 左手で郵便受けを閉じようとして、あなたは気がついてしまう。

「おれの、ひだりて」

 あなたの意識は、そこでぷっつりと途切れるのだ。



✳︎



 あなたは、全身に嫌な汗をかいて飛び起きた。つい今まで見ていた、夢のせいだ。また悪夢だ。

 あなたはこうして、もう何日も悪夢にうなされていた。夢の内容は様々だ。大抵あなたが恐ろしい化け物に食い殺されたり、何かに追いかけられて死に掛けたり。

「これも、夢か」

 真っ白な部屋だ。見覚えがあったが、どこでかはわからない。何故こんなにも悪夢を見るのか、あなたは記憶の隅を紐解こうとした。でも、何故かいつもうまくいかない。靄がかかったかのように、あなたの一部が思い出すことを拒否するのだ。

 念のため、左手を確認する。ちゃんとついていた。あたりまえだ、悪夢なのだから。

 あなたは満足したように頷くと、ゆっくり身体を起こした。

 部屋にはベッドと椅子が一つのみ。あとはあなただけ。壁も天井も真っ白な部屋だ。

「目が覚めたの?」

 急に声をかけられ、あなたは悲鳴を上げた。確かに部屋にはあなた一人だったはずだ。

「だ、だれ」

 彼女は微笑んでいるだけで、質問に答えてはくれない。真っ赤な着物を着た、日本人形のような彼女は、あなたを安心させるように抱きしめる。

 あなたは恐怖に震えながら、その手を振り払うことができない。

「なんで悪夢ばかり」

「知らない方がいい」

 彼女の紅い唇が、舌舐めずりをする。その蠱惑的な仕草に、あなたは我を忘れて彼女を押し倒した。

 現実離れした彼女を征服する優越感に、あなたは恐怖が薄れていくのを感じる。こうすべきだ、と全身が震えた。こうしていれば、何も恐ろしくはないのだと。あなたは確信にも似た気持ちで彼女を抱く。

彼女もまた、それを微笑んで受け入れる。

 あなたが感動に打ち震えていると、シーツの上に不自然な影が見えた。大きなハサミのような。

 あなたが肩越しに振り返ると、彼女が立っていた。手には大きな裁ちバサミ。はっとして、あなたが組み敷いていた彼女を見下ろす。

「うっ……げぇ」

 あなたは沸き起こる吐き気を我慢できずにぶちまけた。あなたが愛撫し口付けていたのは、彼女ではなかった。腐り、溶け、悪臭を放つ死骸だ。口の中に違和感を感じたあなたはもう一度盛大に吐いた。大量の蛆が吐瀉物の中で這い回り、あなたは何度も吐いた。

「思い出した?」

 彼女が微笑む。しゃきんしゃきんと、裁ちバサミを動かす音が聞こえる。

「もうやめてくれ……」

 あなたは消え入りそうな声で呟く。若い頃の、ほんの出来心だった。

 初詣の帰り、晴れ着に身を包んだ彼女がいた。無理やり茂みに引き入れ、あの日もこうして組み敷いた。たまらなかった。泣き叫ぶ様がますます征服欲を刺激し、あなたは何度も彼女を汚した。

「あなたは何度も夢を見るの」

 しゃきん、と音が響き。あなたの天地が逆転する。見上げた先で、彼女があの蠱惑的な笑みを浮かべていた。



✳︎



 あなたは、全身に嫌な汗をかいて飛び起きた。つい今まで見ていた、夢のせいだ。

 何の夢だったかは、最早思い出すまでもなかった。あなたは暗い部屋で一人、毛布を握りしめ震えていた。

 あの日から、毎日悪夢を見る。許してくれと何度も懇願した。泣き叫んだ。だが、その願いは聞き入れられることはない。

「螺旋の夢」

 彼女の呪詛の声が響くようだ。あなたはこうして、二度と逃れられない彼女の夢にとらわれる。

「もう、殺してくれ」

 あなたの声は、闇に吸い込まれていく。しゃきん、と遠くで音が響く。これさえも夢なのかと、あなたは知らず涙を流した。音が大きくなる。あなたは、あの蠱惑的な笑みで見つめられれば拒めないのだ。何度もあの日を再現し、そして彼女に嬲られまた目を覚ます。

 永劫の牢獄に囚われたあなたと彼女のお話。

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