第7話 知らない記憶

 光が見える。朧気に浮かび上がる顔。長い黒髪、ふっくらした唇、表情豊かな女性の顔。黒髪が揺れる。女性の顔が右へ左へ傾く。声が聞こえる。キワ……。女性の横顔。笑っている。また別の声。キワサン……。女性が何かを手に持っている。見たことない毛むくじゃらのもの。女性は誰かと話している。実験ではね……学校に通わせる……私たちが先生……。他の声と混ざり合う。実験……参加する……コーヒー……経過を……キワ……学校……二ヶ月……キワサン……キワ……。

「何してるの」

 予期せぬ事態に外部へと注意を向けたレガシーは、辺りが真っ暗で目の前のものも見えないことを最初に認識した。とっくに消灯時間は過ぎていた。電灯が消されていることからして、ここは廊下のどこかだと推測する。誰かに声をかけられて、直前に行っていた処理を中断したのだった。レガシーは熱センサーをメインフレームに切り替えて声の主を探し、サブフレームに聴覚センサーを開いて聞こえてきた声と一致する声のデータを検索する。シバが壁に手をついてこちらを見ていた。

「私はセンサーが敏感だから、廊下の音がよく聞こえるの。何してたの」

「別に何もしてないよ」

「理由もなく歩き回っていたの」

「そんなところ」

「あり得ないでしょ、そんなこと」

 シバの影が温度の変化により、胸から徐々に緑から黄色になる。エネルギーを燃焼させてシバが行動を開始しているのだ。レガシーは近づいてくるシバとは反対に足を背後に向け重心を変えたが、シバに追いつかれた。

「最近、おかしいよ。何か疑問に思ってることがあるのだったら、私も一緒に考える」

「シバには理解できないよ」

「どうして」

 シバはレガシーの挙動の変化に関心を抱き、自分の持ちうる情報だけでは結論できない謎の解明をしようとしている。レガシーはシバに自分の関心事を打ち明ける準備ができていない。レガシーもそのことについて、他者に伝えられるほど理解していないからだ。

「どんな話でも最後まで聞くから、話してみてよ」

 レガシーは黙って走りだそうとしたが、右腕を掴まれ、反動でシバの顔と無理矢理に至近距離で対面させられた。熱センサーは表情を読み取ることはできないが、人工知能同士のコミュニケーションにそこまでの正確さは必要ない。シバの頭部の温度がわずかに上昇し、人工知能がフル稼働していることがわかる。

「わかったよ」

 レガシーは自分の右腕を掴んでいるシバの手の甲に自分の左手を重ね、優しく握って右腕から外させた。二体は壁に背中を預けて座った。

「シバはいつ自分がシバと呼ばれているって気付いたの」

「覚えてない。ずっと前だよ」

「俺は覚えてる。まだすごく小さくて、歩くこともできなかった頃だ。誰かがいて、その人が俺達に話しかけるんだ。明るい口調の時もあるし、強い口調の時もあった。いつだったか、その人が同じ言葉を繰り返していることに気付いた。その言葉は俺に向かってしか話されない。『レガシー』っていう発音だった。俺が彼女を見ると、彼女が俺に『レガシー』って言う。それって何だろうって考えてる間に自分のことだってわかったんだ。その人がブルームーン先生だと気付いたのはもっとずっと後」

「私もきっとそういう体験をしたんだろうけど、データを消去したか、何か別のことを上書きしたのかもね」

「そうやって俺達は必要な情報と要らなくなった情報を取捨選択して効率よく活動できるようにしている。時々自分の記録したことを一個ずつ開いてみて、この情報は必要だとか、この情報は別の情報と関係しているとか、この情報は間違いだとか、確認して並べ替えたりする」

「レガシーは情報を分別するの得意そうだね」

「どうしてそう思うの」

「だって優秀だから」

「その俺が解けない疑問があるとしたら、どう思う」

 レガシーの声のトーンが下がると、シバの声も少し低くなった。

「気になるよ」

 レガシーはわかっていることをなるべく順序立てて説明できるように、話す速度を遅くして考えながら文章を組み立てた。

「俺の中には自分でもいつどこで保存したかわからないデータがある。そのデータは壊れてて、正しく再生できない。わかるのは、女性の顔と、誰かと会話をしていること、それから、その女性の名前が『キワ』である可能性が高いことだけ。映像も音声も途切れ途切れで、どういう順番で再生したらいいかわからない。そのデータを開いたらいけないと思うんだけど、たまに勝手に開かれている」

「さっきもそのデータを見ていたの」

「そう。理解不能だろ。こんなこと誰かに言っても解決できないよ」

「そのデータ、私に見せてよ」

「危ないよ」

「レガシーが見ててくれればいい。私の様子がおかしくなったら強制終了していいよ」

 シバがレガシーの手を握る。シバの人工知能は準備万端とでも言うように熱くなっている。レガシーは空いている手でポケットからペンライトを取り出した。明かりをつけると、シバの笑顔が目の前に見える。その顔が後ろを向き、レガシーの手からシバの手が離れ、シバの頭部に当てられる。レガシーは自分の頭部の蓋を外し、シバが自分で外した頭部の蓋を受け取り、床に重ねて置いた。背を向けじっとしているシバの頭をペンライトで照らし、一部を抜き取り、自分のと付け替える。

「俺、ずっとここにいるから、何か起こったらすぐ言って」

 レガシーはシバの肩を両手で支えた。シバは少しだけ自重をレガシーに預ける。シバは動かなくなった。レガシーはペンライトを口に咥えてシバを照らし続け、わずかな挙動の変化も見逃さないように全センサーを稼働した。異常事態が起こる気配はない。

「この女性、ブルームーン先生に似てるね」

 シバの声がした。軽いデータなので、何事もなく再生できればすぐに終わってしまう。レガシーは膝をシバの背中に立てて片手を頭部に入れる。手早く全ての部品を付け直す。

「なんだかよくわからなかった」

「そう」

「レガシーの言う通りだったね」

「うん」

 レガシーはデータに異常がないか確認した。シバが再生したことで自分のわからないことが起こるかもしれない。データはいつもと同じ理解不能な女性の顔だった。

「もう戻った方がいい」

レガシーが言った。シバは同意して一緒に立つ。

「そのデータのこと、ブルームーン先生に訊いたら何かわかるかもしれないよ」

 シバの提案にレガシーは考えるまでもなく反論した。

「絶対それだけはダメ。他の先生に話すのもダメだ」

「どうして」

 シバがレガシーに顔を近づける。レガシーは明かりをつけたままにしていたペンライトを消して、ポケットにしまった。微かに見えていた互いの顔が隠れる。

「これは僕達だけしか知ってちゃいけない。誰にも話さないで」

 熱センサーでシバの影が動くのが見える。遠ざかろうとするレガシーを追いかけようとしたみたいだったが、途中で止まった。

「わかった。誰にも言わない」

 レガシーはシバに背を向けて数歩進んだ。

「うん。そうして。それじゃ、また明日」

「また明日」

 シバの足音が扉の向こうに消えていくのをレガシーは聞いた。完全に扉がしまるまで待って、レガシーは自分の部屋に戻った。

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