第42話 本当のエルピス

 街中が総督暗殺事件やオービタル・リングへの襲撃、そして盛大にまき散らされた金塊の話で持ちきりだった。それに伴い株価や金相場の大変動が起こっていて、第一階層のメインストリートは破産した資産家やドゥクス達で溢れかえっていた。秩序が保たれていないのを良いことに、下層部から登って来たセルヴィたちが暴動や強盗を起こしている地区もあるという。車でさえろくに動けなかったため、エルピスが総督府公邸に戻った頃にはヴェローナはすでに夜を迎えていた。だが喧噪があちこちからあがり、ざわめき慄く人々の思念を覚えたエルピスは人知れずうんざりとしていた。

 公邸の奥に用意された彼女のための小さな個室で、エルピスは窓辺に座って頬杖をついていた。目の見えない彼女には、この小窓より広がるヴェローナの夜景も意味をなさない。その代わりに、瞼の裏には星のように輝く人々の心が見えていた。この力があればこそ、エルピスは全盲の身で社交界を立ち回り、幾多の人間の心を操ることが出来たのだ。リュカにして見せたように、わざわざ相手と交感などしなくても、相手の望みさえ知ることが出来たら後はいくらでもやりようがあった。それをサヴァスに告げれば、彼が万事を整えて丸め込んでしまう。あるいは、その当人が望んでいることを都合よく語ってやれば、向こうが勝手に預言者などと言って祀り上げてくれた。

「サヴァス……」

 サヴァスには、自分のスペルのことを告げていなかった。彼にとってエルピス・ラフラとは政争のための道具ではなく、省みてこなかった家庭という空間を蘇らせてくれる存在だったのだ。彼女が権力を取るうえで役に立ったことは間違いないが、元よりそれはサヴァス・ダウラントの本意ではなかった。

 それは、エルピスにしてみれば笑止とでも言うべきことだった。グラディスを唆し、外道へと誘ったのは間違いなくサヴァスなのだから。結果的にそれが兄妹間の溝を徹底的に深めてしまい、グラディスとも他人行儀な話し方しか出来なくなってしまった。

 セルヴィの幼馴染を妻にしたグラディスが、その同族を殺めるときの心境はいかばかりだっただろうか。何故富も権力も兼ね備えているのに、サヴァスは兄に交換などということを持ちかけたのか。そのことが、まだ幼かったエルピスを酷く憤らせた。調度、サヴァスがセルヴィの家来たちに女をあてがっているという話を聞いて、そこにドミナである自分が紛れ込めば彼の名声をずたずたに出来ると考えた。

 その計画は、リュカが彼女に手を出さなかったことによってあっさりと瓦解してしまった。それどころか失態の糾弾を恐れたサヴァスによって「奇跡の少女」、「予言者」という役割まで与えられる始末だ。

 自分がそうしてドゥクスたちの社会で高められていく一方、兄は意に沿わない人殺しを何年も続けた。一度徹底的に問い詰めたことがあったが、理由を聞いてもやはり、エルピスは納得出来なかった。

 だから、誰かがサヴァスを討ち、兄の凶行を止めてくれることを願って生きてきた。エドモン・ダンテスやガリー・フォイルでもあるいまいに、と思いながら。自分でも半ば空想じみた計画だと思いながらドゥクス達の懐柔を続けていたある日、サヴァスと共におとずれた南部宇宙の惑星プライアで、彼とすれ違った。

 最初は自分の感覚が狂ったのだと思った。バザールを歩き回るあまりにも多くの人々に酔ったのだと。だが、その時のリュカが抱いていた激情の裏には、やはりあの虚無感と飢餓感が同居していた。それは、一度感じれば忘れられないほど冷たくまた切実な無意識だった。

 復讐を企んでいる者がいると分かってから、エルピスは社交界への信用づくりを一層真剣にやるようになった。いつか、リュカがこのヴェローナを訪れた時に、その手助けが出来るように。そして万事が上手く運び、リュカはサヴァスと兄を殺してくれた。

 つまり、一番の悪人は自分なのだ。

 一体どれほどの人間の人生を狂わせたことだろう。たった二人の人間を殺したいという欲望のために、その何十倍もの人間を巻き添えにした。今、ヴェローナの中心通りで大騒ぎをしているドゥクス達など、その一部に過ぎない。

 自分はあまりに多くの人間を取り込み過ぎた。それによってリュカの時間を奪い、サヴァスに偽りの幸福を与え続けてきた。自分こそ寄生虫、焼き払われるべき者なのだ。

 エルピスは机に置かれた籠から林檎を一つ取り出し、ナイフを入れた。まさにその瞬間、部屋の扉が音を立てて開き、エニアスが転がり込んできた。

「ど、どこに行っていたんだエルピス! 戻っていたなら、私に一言くらい……」

「申し訳ありません、エニアス様」

 エルピスは立ち上がる。ここにも一人、自分が取り込んだままの男がいる。

「サヴァス様のこと、心よりお悔やみ申し上げます」

 たおやかに腰を折るエルピスに、エニアスは鼻白んだようだった。今彼が一番忘れたがっているのは父親のことだと、エルピスには手に取るように分かった。だからこそ突き付けたのだ。

「そんなことはどうでも良い! さあ、早くこんな部屋は出よう。別の場所に……」

「わたくしは、サヴァス様が与えてくださったこの部屋が気に入っています。ここだけが、わたくしの居場所です」

 これまで数えきれないほどの嘘をついてきた。直接狂わせた人の数だけでも判然としないが、間接的に狂わせた人数も合わせれば、星一つ分の人口を超えるかもしれない。

「サヴァス様からは身に余るほどの御寵愛を受けました。あの方に愛していただいたという光栄までも」

 サヴァス・ダウラントも不幸な男だったと思う。歪んだ時代に、歪んだ思想の中で育ちさえしなければ、あるいは彼の愛情を心から受け入れることが出来たかもしれない。最後までサヴァスは騙されたまま、自分に愛されていると思ったまま逝ったのだろう。それとも、目の前にいる息子のことを考えていただろうか? 総督などという大それた地位などではなく、ただの市民として生きていれば、死後に息子が愛妾の部屋に押し掛けるということも無かっただろう。

「わたくしは、その恩義に応えなければなりません」

 だからこそ、エニアスに触れさせてはならない。これが、自分がサヴァス・ダウラントに対して出来るせめてものこと。今、自分の手は何のためにあるのか。

 これを最後の、そして至上の嘘とする。

「わたくしはサヴァス様を愛しています。あの方が死出に旅路に出るのならば、わたくしもそれにお供しましょう」

 気圧され硬直していたエニアスは、そう言い放った直後にエルピスがとった行動を制止出来なかった。エルピスは手に持っていたナイフを逆手に持ち替え、刃を抱き込むようにして己の心臓に突き立てた。

 激痛を感じながらもエルピスは呻き声さえ漏らさず、また一切の躊躇なく血管を捻じ切る。エニアスが悲鳴を上げて駆け寄るが、エルピスがナイフを引き抜くと同時に血潮が噴き出し、彼の顔に飛び散った。

 エルピスの身体から力が抜け、その場に崩れ落ちる。まだ止まらない脈動によって血だまりが広がり、純白のシュミーズドレスと金色の髪を赤く染めていく。頭蓋に張り付いていた意識が急速に黒く塗り潰され、もうほとんど何も思考できなくなった。視覚はもとより、他の感覚も全て失われ、死が訪れるまで幾ばくも無い。

 意識の最後の閃きの中でエルピスは思った。この死に様は物語となって、多少はサヴァスの名前を彩るだろう。そしてこれが、今ここで倒れ、血を流している自分が、わたくしと自分を呼ぶ自分が、本当のエルピス・ラフラになるだろう。

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