第17話 剥製

 EHSという国家の特異性は、国家というシステムが初めて二つのヒト属を有したという一点に集約される。この国家においては、差別は肌の色、言語、文化、ジェンダーによっては起こりえず、ただスペルの有無によって発生する。

 サヴァスが扉を開いた先には、ドミナとセルヴィは同じ生物ではないという現実が掲げられていた。

 部屋に踏み入った瞬間は、特に何も感じなかった。落ち着いた緑の壁紙や品の良い家具が置かれていて、静物画の中に踏み込んでしまったかのようだ。窓が無く、部屋の面積自体も狭いため圧迫感を感じる。調度品は置いてあるものの、日常生活のために使うものではない。人間が直接利用するのは、せいぜい机とソファだけだ。梁に掲げられた様々な剥製がこちらに迫ってくるようだった。鹿、狼、熊、猪、人間、獅子…………。

 カイルの目は一点に釘づけになった。見間違いでないかと何度も目を瞬かせるが、それは依然、そこにあった。

「この部屋に他人を入れることは少ないのですが、貴方も狩りに参加したことがあるなら、入る権利がある」

「…………」

 ほんの三メートルほどの所に立っているサヴァスの声が、まるで宇宙の果てから鼓膜にたどり着いたのかと思うほどに遠く感じる。ふとリュカの後姿を見やると、彼は何も言わずに小さく頷いただけだった。

 その時リュカが振り返らなければ、カイルは「リュカ」と口に出して言っていたかもしれない。それが無理やり押しとどめられたのは、彼の顔と壁に掛けられた剥製の人物の類似点に気付いたからだ。

 似ているのだ。到底他人とは思えないほど。

 カイルは正面からその人間の剥製を見据えた。腰骨の辺りから上だけを切り取られ飾られていて、まるで大昔の帆船に掲げられた船首像のようだ。少年だったのか、顔の輪郭はやや幼く中性的な印象を漂わせているが、その造形はあまりに整い過ぎていた。目や耳の位置が少しもずれずに配置されていることが遠目にも分かる。どのような処理を受けたのかは分からないが、肌や唇の張りは一切失われておらず、まるで生きているかのように潤いを保ち続けている。髪は純白で、蝋細工のような肌に溶け込んでいる。

 しかし、あまりに人工的であった。最早物に過ぎないので当然かもしれないが、もっと根本的な部分で手を加えられているのだとカイルは直感した。生まれる以前からこういう顔になるように設計されたのだ、と。

 カイルはもう一度リュカの顔に視線を移す。髪は黒く、目には青いカラーコンタクトをはめている。本来の自分の姿に、別のものを重ねた姿。それが今のリュカなのだ。だが、年月を経ることで得てきた人間味とでもいうべきものがしっかりと宿っている。重ねた年月分の変化が、彼と剥製の少年とを一致させない。だが、造形そのものは紛れもなく同じだった。

「驚いているのかね?」

 最初、それが自分に向けられた言葉と気付かなかった。慌てて声のしたほうに視線を向けると、サヴァス・ダウラントがじっとカイルの顔を見つめていた。

 リュカでさえ意外そうな表情をしている。サヴァスという男が、ただのセルヴィであるカイルに声をかけることありえないと思っていたからだ。

 カイルは恐る恐る口を開いた。混乱で激発しそうな心を抑え、彼にしては丁寧な口調で。

「それ……本当に人間なんですか?」

「ああ。正真正銘、生きた人間だった。ただし劣種だったがね」

 サヴァスはセルヴィという言葉を強調して言った。カイルは、さらに追及する。

「何でこんなことをするんです?」

「彼が優れていたからだ。だから記念に残してある」

 まるで忠犬や名馬であったかのような口調である。

「……人が死ねば、焼いたり埋めたりするのが普通でしょう。皮だけ剥いで晒し者にするなんて酷すぎる」

「だから何だと言うのかね。そんなことを言い出すと、狐の毛皮で作ったコートや、象牙の印鑑を使っている者も残酷ということになってしまうが……」

「はあ?」

 いきなり何を言い出すのだ、とカイルは思った。なぜそこで、比較対象として狐の毛皮や象牙が出てくるのか理解出来ない。ぽかんと口を開き、険しく寄せていた眉根も緩んでしまった。

 だが、サヴァスもサヴァスで、顎鬚を撫でながら何か変なものでも見ているかのようだ。それこそ、吠えたてる子犬に困惑する飼い主のように。

「お、おかしいでしょ! 人間と動物が、なんで同列になるんだ!」

 彼がそういうと、サヴァスは合点がいったとばかりに表情を緩めた。そして、諭すような口調でカイルに語り掛ける。

「待て待て。どうやら私と君の間には、大きな認識の差があるようだ。いいかね、ドミナとセルヴィはそれぞれ別の生き物だ。我々はスペルが使えるという以前に、肉体の環境適応力が旧来のどの人類よりも優れている。無重力空間で長く過ごすと筋力や骨が衰えていくことは常識だが、我々と君たちでは退化速度に大きな隔たりがあることは科学的統計的に証明された事実だ。地面が無いというストレスに苛まれることもない。宇宙空間での交易なくして社会が成り立たなくなったこの世界で、これがどれほど貴重な才能かは君にも分かるだろう」

「だから何だって言うんだ。そんな奴くらい、劣種の中にだっていくらでもいる。見た目も言葉も同じなのに、何で目に見えないものを理由にして人を虐げるんだ」

「虐げるとは人聞きの悪い。我々は、ただ区別しているだけなのだが……」

 本当に理解出来ない、とばかりにサヴァスは首を傾げた。その仕草があまりにも自然過ぎてどこにも嘘や演技を見出せない。人一倍他人の嘘に敏感だという自信があるが、それ故、サヴァスの言葉は本意なのだと確信してしまった。

「区別って……それだけの理由であんたは、俺たちを犬かなにかと一緒にするのか、冗談じゃない! こうして喋ることも出来るし、意思だって持ってる。あんたらに好き勝手される謂れはないよ!」

「そういうことは、私に直接言うのではなくて、大通りで叫んできてはどうかね? 賛同者が現れると良いが」

「何!?」

「君に拍手を送る者がいないことなど、分かっているだろう。だから君らは犬以下なのだ。この五百年の間に、セルヴィが団結した大規模な反乱があったかね? どのような国家も、五百年も存続すれば必ずほころびが生まれてくるものだ。だが、EHSはこれまで存在したどの国家よりも巨大であるにも関わらず、いまだに一切の揺らぎを見せない。内乱の予兆すらない! 弾圧や圧政、それだけで説明がつくか。君たちが我々ドミナに対して完全に頭を垂れている証拠ではないかね?」

「そんなこと……なら、この場であんたを殴」

 最後までは言えなかった。抜く手も見せない速さでリュカが電気鞭を振るい、強制的にカイルの口を閉ざしたからだ。身体が内側から爆ぜるような痛みに、呻くことすら出来ず膝をつく。完全に倒れ伏す前にマヤが彼の身体を支えた。「馬鹿」と彼女が呟く声が聞こえたが、表情までは見えなかった。

「申し訳ありません、従僕が大変な無礼を」

「ふむ。いや、無理もない。同族がこのような姿になっていれば、動揺もするだろうな。それで一々噛みつかれるのでは堪らないが」

 自分に掴みかかろうとしたカイルが鞭打たれ、膝をついても、サヴァスは何の感慨も抱いてはいなかった。すでにカイルには興味が無いようだった。

「マヤ、そいつを連れて戻りなさい」

「……分かりました」

 力の入らない彼の代わりに、マヤは肩を貸す形で部屋から連れ出した。

「エルピス、すまないが席を外すついでに、彼女を外まで送ってやってくれないか。運ばせるのは、誰か下男か侍女にでもやらせよう」

「かしこまりました、閣下」

 彼女が立ち去る間際に、サヴァスは彼女の頬に軽く唇をふれさせた。エルピスが一礼し、飛び出された侍女が扉を閉めると、サヴァスはリュカにソファに座るよう促した。

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