第16話 父と子

 翌日、サヴァスの居る総督府公邸に向かう最中、カイルはリュカから異様と言っても良いほどの緊張感を感じ取っていた。目を閉じ無人車のシートに深々と身体を沈めているが、ひじかけに置かれた手が微かに震えている。時々大きく息を吐くことがあり、その度に車中の重苦しさが増していくようだった。

 公邸の前に着き、ドアボーイが扉を開きに寄って来るまでの間に、リュカはカイルに言った。

「ここで何を見ても、絶対に騒ぐんじゃないぞ。お前は黙って見ていれば良い」

 でなければこれだ、と言ってリュカは腰に吊るした電気鞭を叩いた。いざとなればそれで気絶させるというのだ。

「何があるんだよ」

「口で言っても伝わらないさ」

 公邸の大きな両開きの扉をくぐると、三十メートル四方のエントランスが広がっていた。床は一面大理石で、見下ろすカイルの顔が映るほど磨かれている。正面には二回へ続く大階段があり、真紅の絨毯が敷かれている。カイルは、あの絨毯ならシノーペで使っている部屋が丸々包めるだろうな、と思った。

 だが、エントランスの装飾は意外にも少ない。造形はそれぞれ洗練されており、シックな印象を与える。目を引く派手なものは二つ、天井に吊るされた水晶の城かと思うほど巨大なシャンデリアと、階段の横、凹字状のエントランスの奥に掲げられた二枚の絵であった。

 右奥に掛けられた絵には『抑圧』、左奥に掛けられた絵には『解放』というタイトルがつけられている。前者は写実的な手法で労役に就く人々が描かれており、後者は未来派的な斬新なタッチでクルスタの雄姿が描かれている。

 カイルの目を引いたのは左側の絵で、地表から夜空に向かって飛び出そうとしている構図が、なぜか強く印象に残った。見たことの無いタイプの機体だが、それ以上にスペルの表現の仕方が気になる。以前リュカが使って見せたスペルは、円形というはっきりとした形をとって顕れていた。だが、絵の中のクルスタは炎を纏っているかのように、金色の光によって包まれている。

 とりあえず、絵だからそう表現しているのだろうということで片づけた。サヴァス・ダウラントが階段の上に現れたからだ。傍らにはエルピス・ラフラともう一人、礼服に身を包んだ少年が立っている。

「ようこそおいでくださいました、ドートリッシュ卿!」

 左手でエルピスの手をとり、空いた右腕を広げ、歓待の意思を露わにしつつサヴァスが階段を降りてくる。リュカの一歩後ろで立っていたカイルは、外した手袋を持っている左手が握り締められているのを目にし、そして、リュカの憎悪の対象がヴェローナ総督であるに違いないと確信した。

「お招きにあずかり光栄です、ダウラント閣下」

 握手に応じる彼の声はとても温和で、好青年ぶりが板に付いている。その裏に強い憎しみを抱いていることなど微塵も感じさせない。そのことがカイルには恐ろしく感じられた。自分がもし誰かの復讐の対象になったとしても、こんなタイプだけは絶対に相手にしたくないと思った。

 リュカがエルピスの手にキスをするために身をかがめた時、その向こう側に立っていた少年とカイルの視線がぶつかり、「あっ」と声をあげそうになった。先日マヤを轢きかけたあの少年だったからだ。

 だが、少年がカイルに対して見せた反応は完全な無感動だった。カイルは、彼の脳内から自分とマヤの顔が完全に忘却されていることに気付いた。

「失礼ですが……そちらは?」

「息子です。さ、挨拶を」

 半ば押し出されるようにしてリュカの前に立ったエニアスは、父親がそうしたのと同じように握手をして、ほとんど呟くような声で名前を名乗った。

「食事を用意させてあります。どうぞ、こちらへ」

 サヴァスに促され一行は食堂へと導かれた。と言っても、無論呼ばれたのはリュカ一人だけで、カイルとマヤは立って見ているだけである。サヴァスの目には、二人の存在などまるで入っていないようだった。

 食堂の内装は、壁紙もテーブルクロスも白色で統一されていた。窓枠や絵の額縁には見事な金細工が施され、床には模様の描かれた木板が敷き詰められている。テーブルの上には銀製の食器が配置され、折り畳まれたテーブルナプキンが置かれていた。

 最初にサヴァスが上座に座り、彼から見て右側にエニアス、エルピスの順で着席する。リュカは左側に座らされ、エニアスと対面する形になった。

(へえ、意外だね?)

 カーリーの言葉に、リュカは内心で頷いていた。夜会の時の様子から、サヴァスのエルピスに対する入れ込み具合は相当のものだと感じていたから、当然彼女を上座に座らせるだろうと思っていた。ところが、その位置には自分の息子を座らせている。

(でも、あのふくれっ面じゃねえ)

 エニアスがこの会食を心底面倒だと思っていることは、一目瞭然だった。

 子供だからな、と見切りをつけ、リュカもエニアスに対する注意をほとんど払わないことにした。

 一方、リュカの後ろに立たされたカイルの胸中は、面倒という点でエニアスと完全に一致していた。彼らは料理を食べられるのでまだ良いが、自分はただ見ているだけである分、一層退屈で惨めかもしれない。

 食事が始まると、サヴァスはリュカに対して矢継ぎ早に質問を繰り出した。

「ヴェローナに来られるのは、確か初めてだったとか」

「ええ。船乗りとはいえ、まだ宇宙に乗り出してからそれほど月日を重ねたわけでもありませんので。しかし、初めておとずれる場所はどこでも楽しいです」

「尋ねるのが少々怖くはありますが、ヴェローナは貴方にどうお見えですか?」

「素晴らしい星です。どこもかしこも娯楽に溢れていて、非常に愉快です。しかし、いずれ飽きるでしょう。私は楽しさや平和だけが人生の全てとは思いません。なのに、ヴェローナはあまりに平和で、整い過ぎています」

「ハッハッハ……成程、総督の身にある者としては、貴方の満足のいくような社会にしてはならない、ということですな?」

「ええ」

 カイルは、リュカがサヴァスをおだてるのを聞いて複雑な気分になった。「平和で、整い過ぎ」た社会をサヴァスがどのように実現しているか、昨日目の当たりにしたばかりなのだから。リュカがそれに気づいていないわけがない。一体こいつはどんな気持ちで喋っているのだろう、とカイルは思った。

 カイルにはリュカが所々で嘘を言っていることが分かる。冒険譚そのものはリアリティがあって矛盾も存在しないが、ドミナの視点とセルヴィの視点とでは世界は全く異なる。ドミナを憎む彼が、その視点に立って何かを語っていること自体がそもそも奇妙だ。嘘をつくことが苦手なカイルは、何故リュカがこうも簡単に嘘をつくことが出来るのか分からない。

 こんな具合で、サヴァスはリュカがこれまでしてきた冒険について積極的に質問を出していった。それに対してリュカが答え、サヴァスやエルピスが相槌を打つという形になっている。カイルにとって意外だったのは、サヴァスが儀礼としてではなく、純粋に興味を持ってリュカの話に聞き入っていることだった。権力者というともっと堅苦しくて余裕の無い人種なのだろうと思っていたが、サヴァスからは生き急いでいる感じが見受けられない。今の地位に完全に満足しているようだ。無論、すでに比類ないほどの地位を獲得しているからかもしれないが。

喋り手になれば食事も滞るものだが、それを差し引いてもリュカはほとんど手を付けていない。サヴァスに口に合わなかったのかと問われると、リュカは答えた。

「いえ、結構な味です。ですが私は、少量の食事に慣れ切っておりまして」

「ヴェローナ中で噂になっておりますわ。貴方の身代に比して、食事があまりに質素すぎると。カゾーラン夫人がずいぶん困惑しておいででしたよ」

 以前、夫人とリュカの仲介役を買っていたエルピスが苦笑交じりに言う。

「事前に話しておくべきでした。もし私よりも先にお会いすることがあれば、昼食は非常に美味であったとお伝えください」

「ええ。繊細な方なので、なるべく早く伝えておきます」

「それで、どうして食事を少量にとどめられるのですか? 差しさわりがなければ、後学のために御教授願いたいですな」

 そう言って、サヴァスは笑いながら腹を撫でた。

「くだらないことですよ。操船に付きっきりだからです。私の船は少々旧式でして、ずっとブリッジに居てやらないと人工海流の制御装置に衝突しかねません。となると、テーブルについて、食前酒を呷ってからスープを啜って、とやっているわけにはいきませんよ」

「船員を雇ったりはされないのですか? 何でしたら、ヴェローナの船員協会に紹介状を書きますが」

「御厚意には感謝しますが、結構です。私は独占欲の強い男ですので、船の舵を誰にも渡したくないのです」

「船乗りのプライド、というわけですな」

「そうですね。そうなります」

 その時、それまでずっと会話に参加せず黙々と食事を続けていたエニアスが口を開いた。

「そんなに宇宙の生活が好きなら、なんで地上に降りてきたんです?」

 嫌なら来るな、という真意をほとんど隠すことなく言ったエニアスに、サヴァスの表情が険しくなる。しかし、彼の叱責が飛ぶ前に、リュカは悠然とした態度のまま返答した。

「どうしてもやりたいことがあったからさ、エニアス君。それが何とは言えないがね」

 リュカを睨みつけていたエニアスは、暖簾に腕押しとでもいうようなリュカの態度に苛立った。正面からまともに取り合おうとしない態度が、彼の父親と重なって見えたのだ。サヴァス・ダウラントもエドガー・ドートリッシュも、自分を一人前のドゥクスとして扱っていない。でなければ、「君」などと付けて呼ぶはずがないのだ。

 ましてや隣にはエルピスが座っている。彼女の前でこれ以上子ども扱いされたくはなかった。

「へえ、ずいぶんやましいことなんですね」

「まさか。むしろ正反対だよ」

 リュカが微笑を浮かべる。エニアスにはそれが嘲笑に見えた。

「そういうなら、教えてくださっても良いんじゃないですか」

「エニアス!」

 それ以上の追求はサヴァスが許さなかった。有無を言わさぬ態度に気圧されたエニアスは、ナイフとフォークを皿の上に投げるようにして置き、具合が悪いと言って席を立った。

 その時、一瞬だけカイルとエニアスの視線が合った。カイルは何も言葉を口にしていなかったが、表情は「それは格好悪過ぎるぜ」と語っていたし、事実そう思ってもいた。熱湯に放り込まれた水銀温度計のように、エニアスの頭に血が上ったが、サヴァスに睨まれたままではどうすることも出来なかった。

 ほとんど叩き付けるようにしてドアが閉められる。それと同時に、サヴァスが大きな溜息をついた。完全に反射的な行動だったのか慌てて取り繕おうとしたが、あきらめ、苦笑しつつかぶりを振った。

「申し訳ありません、みっともない所をお見せしました。愚息には、あとできつく言っておきます」

「いえ、どうかお気になさらないでください」

 朗らかな表情を浮かべてリュカが言う。サヴァスは数秒の間彼の表情を見据えてから口を開いた。

「……少し信じられませんな。貴方とあれの歳が、六つしか離れていないとは。私には、貴方が少年だったころの姿というのが想像できません」

 サヴァスがそう言った途端、リュカが哄笑を上げた。

 その唐突さにしばらくの間カイル、サヴァスのみならず、彼に長く付き従っているマヤでさえ茫然となった。

「失礼!」

 一言でピタリと笑い声を止めるも、異様な空気は持続した。サヴァスが沈黙の中に踏み出す。

「……何か、お気に障りましたか?」

「いえ。私にも幼年時代はあります。少々特殊でしたがね」

 リュカの言葉には、まだ笑いがこびりついていた。

 彼が水を飲む間に、サヴァスはホストとしての表情を再構築した。

「そのお話はぜひうかがいたいものですね。貴方の出自と合わせて……無礼を承知で言いますが、少々貴方について調べさせて頂きました」

「結構です。それで、何か分かりましたか?」

 微笑を浮かべたままリュカが聞き返すと、サヴァスもまた、同じような表情で首を振った。

「いいえ、ドートリッシュ家という家名については、何も分かりませんでした。あくまで西部宇宙内での調査結果ですので、他の領域の情報を細かく調べれば、あるいはちゃんとした結果が出たかもしれませんが」

「そうでしょう。古いこと意外に取り柄の無い家ですので」

「どのような由緒があるのか、良ければお聞かせ願いたい」

「承知しました」

 リュカがドートリッシュ家の成り立ちについて話している間に、皿が下げられ、デザートのアップル・タルトが運ばれてきた。サヴァスとエルピスがナイフを入れる一方で、リュカは一切手を付けず紅茶を啜った。

「家紋は、クローバーですか。どのような意味がおありで?」

「クローバーの花言葉は復讐です。いえ、もちろん物騒な意味であることに変わりはありませんが、これは私の先祖が革命戦争時に掲げていたものなのです」

「なるほど。つまり、かの統一政府に対する復讐、という意味ですな?」

「もちろんそれもあるでしょう。ですが、シロツメクサは種類によって花言葉が異なるので……私の家の家紋は白なのですが、エルピス様なら分かるのでは?」

「確か、約束、私を想って……ではありませんか?」

「その通りです。元々雑兵だった私の先祖が、どこか名のある家の娘と大恋愛の末結婚したため、こんな花言葉を持った紋章を取り入れたと伝えられています。ドゥクスになれたのは、家と家の格差を少しでも埋めるための配慮でしょう。それから細々と続いた以外には、取り立てて記述するようなこともなく……実際、私が家督を継いだ時に遺されたのは、あの古い船だけです」

 無論、リュカが語ったことはほとんどが嘘である。だが、ドートリッシュ家そのものは実際に存在する家名であり、計画の初期段階で浮浪者同然のドゥクスから買い上げていた。社会からは完全に忘れ去られた家であるため、その経歴にどのような肉付けがなされていたとしても、気付ける者は皆無だろう。

「そう言われる割には、ずいぶん潤っておられますね。いえ、別に嫌味というわけではありませんよ?」

「閣下が嫌味を言わねばならない相手など、ヴェローナには居ないでしょう……ええ、私の財産についてですか。宝島で掘り出したと言ったら、信じていただけますか?」

 今度はサヴァスが笑う番だった。

「貴方の場合、そう言われても信じてしまえますね! 宇宙のあちこちを回り、奇抜な方法で富を蓄えていくとは、まるでシンドバッドだ」

「確かに有名な船乗りですが、あまり縁起の良い名前ではありませんね。七回航海して、その全てで難破している」

 カイルの目には、サヴァスが心底会話を楽しんでいるように映った。実際彼はリュカとの会話を楽しんでおり、その冒険譚が本当であると心から信じていたのだ。たとえ嘘であったとしても、笑い話として受け止め楽しむだけの度量がある。

 ただ、そこに若干の影がちらついているのが、カイルには分かった。リュカやマヤの瞳に宿っている澱みのような暗さではなく、ごくありふれた、日常の範囲内の影ではあったが。

「実に興味深い」

「喜んで頂けたようで。私も話した甲斐がありました」

「ええ。以前、夜会でもお話したように、私は若い人ほど旅をするべきだと思っています。歳をとってからの旅行も良いのですが、なまじ知識や先入観がある分、自己の偏狭な枠内で事象を片づけてしまう。若い頃ももちろんその危険性はあるのですが、感性が若い分、いくらでも内面を変化し得る可能性もあるのです」

 歳をとってから自己を変革させるのは難しいですからな、とサヴァスは言い添えた。

「私も様々な体験をしてきました。宇宙を旅することは過酷ですが、社交界が与えてくれる以上の楽しみや発見があります」

「まさにその点です。私が言いたいことは。息子にも何度も言い聞かせてきたのですが、私の言葉など軽んじるばかりで……そこで、貴方の体験を通して、少しでも旅をすることの意義を悟ってほしかったのですが…………」

 その時サヴァスが見せていた表情は、苦笑にすらなり切れていないほど悲しげだった。

 カイルは何故か、息苦しさにも似た痛みを覚えた。サヴァスに対する同情などではなく、その感情は自分自身へと向けられている。

 彼にしては珍しい、嫉妬という感情だった。

 カイルはその感情を言語化出来なかった。その源泉は、彼にとって原初的なものであり、心の奥底、記憶の澱みに沈殿していたからだ。だから胸の痛みも何故感じているのか分からず、人知れず戸惑っていた。

「もっとも、非は私にあるのです。仕事にかまけてばかりで、父親としてあれに接してやることがなかった。母親も早くに逝ってしまって、甘えられる相手がいなかった」

「…………」

「申し訳ない、御客人の前でする話ではありませんでした」

「いえ」

 気にしていないとでも言うように、リュカは軽く会釈した。とはいえ、それでトーンダウンした場の空気が盛り上がるわけでもなく、依然妙な緊張感が漂っていた。その緊張をほぐすように、エルピスが進言する。

「サヴァス様、もうお皿を下げても良いのではありませんか?」

「ん? ああ、そうだな。では、場所を移しましょうか?」

「分かりました」

 食堂を離れ、一行は公邸の東館へと移動した。二時間ずっと立ったままだったカイルは、短い距離とはいえ足を動かせて良かったのだが、このあとまた長話を聞いたままでいなければならないと思うと辟易する。

 会話の内容がもっと劇的なものであったなら、聞いているだけでもそれなりに楽しめたかもしれない。だが、サヴァス・ダウラントが口にする言葉は、それが西部宇宙の主が話しているとは思えないほど平々凡々である。ヴェローナであろうがシノーペであろうが、あるいは東西南北どこの宇宙であろうが、どこででも聞くことが出来る父親の悩み。その普遍的な問題からは、たとえヴェローナ総督であろうと逃れることは出来ないのだ。

 だが、カイルは少しだけ安心した。昨日リュカに、ドミナの街で過ごしてみてどうかと問われた時、彼らも自分たちと同じ人間に見えたと答えた。サヴァス・ダウラントの姿を見ていると、自分が吐いたその言葉は間違っていないと思える。

 それは、あまりにも甘い考えだった。

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