第9話 ドミナとセルヴィ
リュカが怨敵と相まみえ、憤怒が顔に出るのを抑えている一方で、カイルは尿意を抑えていた。ホテルに残っても退屈だから二人にくっついてきたが、着いたら着いたで、車の中で待っておけと言われた。マヤは持参したジッドの『田園交響曲』を黙々と読み進めていたが、私物など何もないカイルは居心地の悪さを誤魔化すためにひたすら水を飲み続け、今に至る。
彼なりに緊張していたことも原因の一つかもしれない。一緒に乗って来たドミナの女性の美貌に圧倒され、ずっと身体を硬くしていた。先日初めてマヤのようなあか抜けた少女を目にしたカイルにとって、エルピス・ラフラが自分と同じ人間とは思えなかった。これが貴種と劣種の差なのか、と愚にもつかないことを連想したほどである。
カイルは迎賓館の周りをぐるぐると歩き回っていた。とても「トイレを貸してくれ」と言って入っていける雰囲気ではないし、そもそもカイルにとって、トイレの有無そのものは些細な問題だった。
建物の裏手に配電盤や給水器が密集した区画がある。目立たないよう隠れて建てられているが、一応建物に近い場所ということで警備の兵士も立っていない。カイルはそこまでいくとチャックを下ろした。
撃たれたりしねえかな、と思ったりもしたのだが、頭を吹き飛ばされるようなことはなかった。代わりに、後ろから軍靴の音がゆっくりと近づいてきた。瞬間的に股間が縮みあがったものの、ライターの蓋が開く音を聞いて緊張が解けた。
用を足しながら振り返ると、ちょうど赤い光点が口元から離れたところだった。暗いため細部までは分からないが、がっしりとした体格の男であること、式典用の華美な軍服を着ていることまでは判別出来た。
「……おいオッサン」
「なんだ坊主」
「あんた貴種だろ、中で吸ったって誰も文句言わないんじゃないのか?」
服装から相手がドミナであることは何となく察していた。それでもこんな気安い口調をかける気になったのは、相手が「貴」の一文字の印象から大きく外れていたからだ。それに、暗がりでよからぬことをしているという妙な共犯意識が働いたせいかもしれない。
「中は堅苦しくて駄目だ、御婦人方にも睨まれるしな……坊主、お前も結構大胆だな。劣種のくせにこんな所で立ちション敢行するなんて」
「劣種が小便しちゃ悪いかよ」
「いや、ズボンに染み作るよかマシだな……」
カイルが切り上げると同時に男も吸殻を地面に落とした。わずかな時間しか経っていないにも関わらず、ほとんど根元まで灰に代わっていた。
何食わぬ顔でカイルはその場を離れた。ロータリーの辺りでマヤのいる車に戻ろうとしたら、続いて出てきた男に呼び止められた。
「坊主、暇か?」
「あん? 見ての通りだよ」
そう答えて振り返った時、カイルは初めて男の姿を確認した。
隣に立った時から分かっていたが、光の当たるところでみると、改めて男が堂々たる体躯を持っていることが分かった。巨躯と言っても過言ではない。身長は二メートルを軽く超えており、真紅の布地で織られた礼服は特注品であろうが、それすら窮屈そうに見える。彫の深い顔立ちで、少し鼻が大きいという印象を受けた。声から老けていると想像していたが、思ったよりも若い。三十路か、それより少し手前辺りだろうか。精悍な感じがする。
それでも全く威圧的に見えないのは、人好きのする垂れ目のせいだろう。自然にしていても笑っているように見えるので、笑って立っていると、かえって顔がくしゃくしゃになって怖い。炎のようにたっぷりとした金髪のせいで、カイルはまるで、動物園の気の抜けたライオンみたいだと思った。
「そりゃ良かった。ちょっと待ってろよ」
一旦男は迎賓館の裏に消え、五分ほどしてから片手にバスケットを提げて戻って来た。
「腹減ってるんじゃないか? どうせだし、ちょっと付き合えよ」
ちゃんと手を拭けよ、と言いつつ男は濡れた手拭いを投げて寄越した。
当然のことながらカイルはその誘いを断ろうと考えた。得体のしれないドミナには近づかないのが、セルヴィの生きる知恵である。しかし一方で、男が何か悪さをしてくるような人間にも見えなかった。何より花壇の淵に座った男が取り出したサンドイッチはとても美味しそうで、心惹かれなかったと言えば嘘になる。
一人で受け取るのは危険かもしれない。だが、サンドイッチは食べたい。カイルは折衷案を採った。
「せっかくだし、もう一人連れてきて良いかな」
「おう、好きにしろ」
そういうわけで、マヤを呼んだ。
意外にも彼女はあっさりと動いてくれた。セルヴィにドミナの誘いを断る権利などありはしない、目をつけられないのが一番なのだ。
「うろうろしているから絡まれるのよ、どこ行ってたの」
本当のことを言うわけにはいかないから、適当にお茶を濁してマヤを連れ出した。手拭いを貰っておいて正解だと思った。
カイルがマヤを連れて男の所に戻ると、すでに男はサンドイッチを頬張っている。二人を手招きした男は、カイルの隣に立っているマヤを認めて、意外そうな表情を作った。
「何だ、可愛い子を連れてるじゃないか」
まあ座れよ、と男は促した。カイルが男の右隣に座り、そのまた右隣にマヤが腰を下ろす。
「お嬢さん、良かったらこいつを敷きな」
男は懐から取り出したハンカチを差し出した。マヤがびくりと肩を震わせ、「恐れ多いことです」と言った。ドミナの持ち物を尻の下に敷くというのは、無礼を通り越して万死に値する。男が良いと言っても、ほかのドミナに目をつけられればどうなるかわからない。彼女の立場に思いを致した男は、申し訳なさそうな表情でハンカチをしまった。
「そうだな、すまない。君の立場ではそうだろう。俺が無思慮だった」
「いえ……」
「でも、そう身構えるのはよしてくれ。別に取って食おうってわけじゃないんだから、な?」
そう言って、男は人好きのする笑顔を見せた。つられてマヤの表情も和らぐ。
男が持ってきたサンドイッチは不恰好で、見た目はとても上品とは言えなかったが、具はぎっしりと詰まっていた。パーティーの余りの食材を拝借して適当に挟んだだけである。それから男は紙コップと水筒を取り出し、紅茶を注いで渡した。暗いので色はよくわからないが、芳香にはブランデーの香りも混ざっている。
いただきます、とマヤが言う隣でカイルは早々にサンドイッチに齧り付いていた。大口を開けて食いつくカイルと、小鳥が啄むように少しずつ食べていくマヤの姿は対称的で、男は顔を綻ばせた。
「どうだ、美味いか?」
「はい」
「そりゃ良かった。ところでお嬢さん、ずいぶん品が良いな。その服も板に付いている」
「恐縮です。えっと……」
「グラディスだ。君は?」
「マヤ、といいます。こっちはカイル……グラディスさんも、誰かの付き人なんですか?」
警戒を緩めたマヤは尋ねた。グラディスは苦笑して「まあ、そんなところかな?」と答えた。
「立場上はそうなんだがね。今日は一応、招いてもらっている」
そういうとグラディスは懐から招待状を取り出して見せた。
「来ても良いって言われても、貧乏だからね。あの中に入っていくなんて、それこそ恐れ多いことさ。招いてくれた人に挨拶だけして出てきたよ」
サンドイッチを平らげたカイルが口を開く。
「勿体ねえなあ、折角だからただ飯食ってくりゃ良かったのに」
「ヒヒッ、違いない! でも、俺も大人だからな。そうそう気ままにただ飯食らいとはいかないさ。もう一つあるぞ」
「食う!」
「少しは遠慮しなさいよ」
「構わないよ、お嬢さん。俺が作ったわけじゃないし、子供は食える時に食っとくもんだ!」
見た目も性格も全くばらばらの三人が、花壇の仕切りに並んで座り、サンドイッチを食べている光景は奇妙なものだった。馬車や車の前で談笑したり、黙って突っ立っているだけの従者たちも、視線の隅では三人を捉えて離さなかった。マヤもその視線を意識しているので、調子に乗ったカイルが何かとんでもないことをしでかさないかと気が気でならない。
それに、グラディスに対しても完全に気を許したわけではなかった。いかに彼が親しげに接してくるといっても、ドミナは信用出来ないという考えが彼女の意識に染みついている以上、仕方のないことではある。
いつ、何がきっかけで豹変するか分からない。それこそカイルの無遠慮な発言が引き金となる可能性もある。
「貴種には貧乏な奴はいないと思ってた」
「カイル!」
「良いさお嬢さん。実際、俺は貧乏だからな? 取り繕っても仕方がない」
グラディスは呵々と笑い、紅茶を呷った。茶葉よりも酒の香りの方が強い。
「貴種だからと言って、皆が皆裕福でいられるわけではないさ。御覧」
グラディスは右手の掌を二人の前に差し出した。そこに小さな光が生まれ、菱形の薄いガラス片のような形状をとる。カイルは、生身の人間がスペルを展開しているのを初めてみた。
「これだけ薄い盾でも、銃弾だろうがミサイルだろうが何だって防ぐことが出来る。昔はサイコキネシスって呼ばれてたんだっけか? 至天教の教義じゃ、人類が進化した結果だと言うが……」
彼が握り拳を作ると、スペルの盾は光となって霧散した。
「でも、俺たちにスペルを出すことは出来ないんだぜ? やっぱり、それを持ってるってだけでも、俺たちとは全然違うじゃないか」
カイルは今一つ釈然としなかった。グラディスが貧乏だからと言っても、やはりスペルがあるのならドミナの社会には受け入られる。「実際、あんたは招待状を貰ってるじゃないか」そう言うカイルに対し、グラディスは「当たり前だ」と返した。
「そりゃ、実際に俺は貴種だからな。俺たちにはスペルがあって、お前たちには無いという明確な線引きがある」
でもな、とグラディスは続ける。
「いくらその社会に受け入れられたとしても、そこが社会である以上、必然的に貧富の差、身分の高低は現れてくるものさ。結局スペルってものは、人間が続けてきた社会という法則さえ打ち破ることも出来ない偏狭な力に過ぎない、俺はそう思うよ。実際、俺は見ての通り皺くちゃの礼服を着なきゃならないし、こんな華やかな場所に連れてこられても戸惑うばかりだ。となると、貧乏に貴種も劣種もありゃしないって思うだろ?」
グラディスの表情はあくまで穏やかだ。しかし、その奥には自嘲や皮肉、そして決して多くは無いが、確かに混ざっている妬みの色が透けて見える。貧しいということ、人に使われるだけだということの惨めさを知っている者の表情だった。元々、そういう顔を見慣れているカイルだからこそ、見抜けたことだった。
カイルの脳内に、先日リュカに言われた言葉が立ちのぼる。
『そう、強者だ。他人から時間と利益を搾取している者を、そう表現しないでどうする?』
すぐ隣に座っている男の堂々たる体躯を見ると、とてもこの男が搾取される側、弱者であるとは思えない。だが、実際にはそうなのだと彼自身が告白している。
「貴種だって、貴種が生まれる前から存在してきたシステムからは抜け出せないでいるんだ。誰か一人が裕福になれば、百人が貧しくなる。いつだってそうだった。こんな有様で、人類は進化したって言ったところで、虚しいだけだろう?」
ドミナとしてはかなり過激な発言である。もちろん押し殺した話し方をしているので二人以外に聞こえることはないが、カイルもマヤも、ドミナとしての尊厳をこうまで蔑ろに出来る者は見たことが無かった。
「……そりゃ、そうかもしれないけどさ。卑屈になるだけなんて、情けないぜ」
「言うなあ、坊主」
グラディスは苦笑し、もう一度コップの中身を呷ってから立ち上がった。カイルのぼさぼさの髪の毛を押さえつけるように、ぐりぐりと頭をなでまわす。彼の手はグローブのように広く、ほとんど鷲掴みにされているような格好になった。カイルは煩わしげに頭を振るが、よけいに髪が乱れた。
「そう言うのなら、言葉には責任を持てよ?」
楽しかったぜ、と言い残し、グラディスは門に向って歩いて行った。呆気にとられたマヤが呟く。
「……変な人だったわね」
「ああ」
カイルは指に残ったソースをぺろりと舐めとった。それを見咎めたマヤが「汚いわ」と窘める。渋々、カイルは布巾を使った。
花壇を離れ、車に戻ろうとした時だった。
グラディスが去った門の方から、大型車が猛烈な勢いで突っ込んできた。無人車ではプログラミング上禁止されているような速度だ。従って、マニュアル操作ということである。
いずれにせよ、こんな所で出すには非常識な速度だった。
カイルの二歩ほど前を歩いていたマヤは、突っ込んでくる車よりも、強烈なライトの方に反応してしまった。思わず手で光を遮ったのだ。車の勢いも、ブレーキを掛ける気が無いことも分からないでいる。
カイルはマヤの腕を掴み、グイと引き寄せた。姿勢が崩れたことに加え、マヤの体重を引き受けたことでカイルはその場に尻餅をついた。
車は何事も無かったかのように通り過ぎ、音を立てて停車する。中から降りてきた若いドゥクス……カイルと同い年に見える少年は、二人を歯牙にもかけず、慌て、かつ苛立ちながら階段を上っていく。
「おい、人を轢きかけてそれかよ!」
そう怒鳴った瞬間、腕の中でマヤは、ビクリと身体を震わせた。
その怒鳴り声は、完全に反射的に出たものだった。つい数分前までグラディスのような男と一緒にいたせいかもしれない。
少年は盛大に舌打ちして、腰に手を伸ばした。懲罰用の電気鞭に手をかけたのだ。
この時になってカイルは、自分が一線を超えてしまったことに気付いた。しかし、ドミナをその気にさせてからでは手遅れである。
「馬鹿……っ」
マヤがつぶやく。巻き込んではならないと思ったカイルは、彼女を突き飛ばそうとした。が、やめた。一旦は鞭に手をかけていた少年が、懲罰の意志を無くしたからだ。時間を惜しんだのである。無論カイルを赦したわけではなく、「下賤の者が、私に口をきくな!」と言い捨てていったが。
カイルもろとも懲罰されることを覚悟して、ギュッと目を閉じていたマヤが、恐る恐るといった様子でその背中を追う。水を掛けられた猫のように固まっていた身体が、少しずつ緊張を解いていくのが生地越しに分かった。
二人は揃って安堵の溜息をついた。そしてお互いに、言葉で確認こそしなかったが、一度はあれを受けた経験があるのだということを悟った。
「あれだけは、食らいたくないよな」
「そうね……」
「立てるか?」
カイルが問うと、マヤはそっけなく「大丈夫」と答えた。服の埃を払いながら立ち上がり、少しバツの悪そうな表情を作る。
「その……ありがとう」
言うなり、彼女は顔をふいとそむけた。照れ隠しなのだろうが、建物から漏れ出ている程度の光でも分かるほどに、耳の先端が赤くなっていた。出来れば顔を見て言ってほしいな、とカイルは思ったが、迂闊な所を見せたあとに、こんな意地っ張りな少女が素直な態度をとるということは困難なのだ。これで精いっぱいの誠意なのである。だから少しもやもやする一方で、可愛いな、とも思うのだった。
「どういたしまして」
「…………うん」
耳に掛かった髪を人差し指で掬うと、マヤは歩いて行ってしまった。その歩幅はやや広く、コツコツと地面を叩く音は、いつもよりもさらにリズミカルだった。
カイルには分からないことだが、マヤが早足だったのは、迂闊な所を見られたこと、カイルに借りを作ってしまったことを恥じただけではない。
彼がドゥクスの少年に向かって、すぐさま抗議の声を上げた瞬間、恐怖ではない何かが胸中に沸き起こった。その感情は一瞬で電気鞭への恐怖に変わったが、あの一瞬だけは、確かに驚きに似た何かを感じていたのだ。
その感情は、しいて言うなら喜びに近い。だが、なぜそんな感情を抱いたのかという不可解さが気にかかり、彼女の足を速めたのだった。
そんな彼女の後姿を見ていたカイルは、やれやれと苦笑しつつ肩をすくめ、迎賓館の方を見た。あの少年に対しての憤りは、一応あるにはあるのだが、自分でも驚くほど小さなものだった。憤りよりも、むしろいつも通りのドミナの姿を見たことに安心するのであった。
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