第8話 怨敵

 ヴェローナ総督府の敷地内に設けられた迎賓館は、ドミナによる建築文化の例にもれず二十世紀前半のアール・デコ形式を踏襲して造られている。外面はほとんど白色ということもあり、昼の間は建物よりも庭園の方が栄えて見えるが、日が暮れると立場は逆転する。庭園の照明は全て消され、宵闇の中でガラスを通して漏れてくる光だけが周囲を照らすようになるのだ。

この時、光が空に向かわず、館の正面玄関とロータリーのみを厳かに照らし出すよう設計されている。無論警備のし難さという欠点はあるものの、そこは大量に警備兵を動員することで解決していた。暗視スコープを着けた者がうろついているというのは風情が無いということで、彼らの服装は黒一色であり、窓辺に近づくことは禁じられている。

 時刻は宵、一足先に館へ着いた貴人たちが玄関前の階段で談笑している。館の設計者の意図通り、その中身の美醜はともかくとして、紳士淑女の着ている色とりどりの衣装は花や装飾の代わりに館を飾りたてていた。もちろん中には、衣装を衣装として着こなし、背景を背景として封じ込めてしまえるような美貌を持った者も何人かいる。

 そんな彼らの目下の話題は、エルピス・ラフラを海賊の魔の手から救った青年貴族に関することだった。

ドミナの船を襲う凶悪な海賊たちの話はこれまでたびたび上がっていたが、ヴェローナの要人中の要人、サヴァス・ダウランドの愛人にまで手を出そうというのはあまりに大胆である。しかもそれが後一歩というところまで行っていたというのだから、貴婦人たちにとっては眩暈のするような話であった。だが、それと同時に、エルピスを救い出した青年貴族がどのような人物なのかということについての関心も高まるばかりだった。

 曰く、ローランやランスロットのような古き良き騎士道精神の持ち主であるとか、シラノ・ド・ベルジュラックのように誠実ではあっても美男ではない人物であるとか、あるいはドン・キホーテのような道化師かもしれない、と。騎士の空想は人の数だけあったわけだが、共通しているのは青年に対する興味である。

 そんな中、玄関前に停まった車から渦中の人が降りてきた。彼は慇懃な仕草でエルピスの手を取り、目が見えない彼女を階段まで導く。親密だが馴れ馴れしい印象は受けさせない完璧な所作だった。だが、注目を集める要因は何よりも、構図の中心にいる二人の容姿がどちらも極めて優れていた点であろう。確かに青年の顔立ちは端整という以上のものではなく、それだけなら誰の印象にも残らない。しかし、憂いを感じさせる表情や艶めかしい所作が青年の魅力を何倍にも高めていた。また、この場に集った紳士の大半は黒を基調とした衣装を着ているが、この青年ほど黒という色が似合う者はいないだろう。髪の色といい、青い瞳といい、変装した悪魔が人界に降り立ったかのようだ。

 エルピス・ラフラは、そんな魔的な印象を相殺する存在だった。青年と全く対照的な白いドレスは、古代ギリシャの衣装にインスパイアされたデザインで、身体のラインを損なわずかつ拘束しないという絶妙な仕上がりになっている。ともすると腕や肩が露出しているのは破廉恥にも見えるかもしれないが、エルピス自身の纏っている清浄な雰囲気は下品などという要素と対極の所にある。その場に居合わせた幾人かは、自身で陳腐な連想だと自覚していたが、古い絵画の世界から抜け出してきた女神のようだと思わずにはいられなかった。

 そんな二人の組み合わせはあまりに絵になりすぎていて、背景すら取り残されている感がある。彼らが姿を見せた瞬間、凪が訪れたかのような静寂が辺りを包み、次いで、色とりどりの扇の後ろから洩れるざわめきが幾重にも重なり広がっていった。

 二人はその中を臆せず進んでいく。腰が引けているのは、むしろ先に着いていた人々の方で、果たして自分がこの二人の前に立って釣り合うのだろうかという自問を各々せずにはいられなかった。

 その硬直を解くかのように、エルピスは声をかけられずにいる若い淑女達を前に柳腰を折った。

「皆様、ごきげんよう」

 彼女に微笑みかけられた少女が顔を真っ赤に染めた。皆、見たところ十代後半か二十代前後といったところで、態度にも初心なところが見え隠れしている。

「こ、こんばんは、エルピス様! ご無事なようで何よりです……!」

「わたくしも、エルピス様のお船が海賊に襲われたと聞いたとき、眩暈のする思いでしたわ!」

「本当に恐ろしいことで……」

 エルピスはたちまち少女たちに取り囲まれた。隣で見ていたリュカは、単にそういうポーズをとっているだけかと思ったが、いかにも世慣れしていない少女たちに高度な芝居は出来ないだろうなと考え直した。ここに来る道中もエルピスからあまり期待はしないでほしいと言われていたので、実際の様子を見ると少々面食らうリュカであった。もちろん、そんな戸惑いは一切表情に浮かべていない。

「皆様、御心配をおかけして申し訳ありませんでした。こうしてまた再会出来たのも、スペルの導きと幸運の積み重ね、そして、こちらのエドガー・ドートリッシュ卿の御力によるものです」

 リュカは少女たちに向かって名前を名乗り、あまり真面目になり過ぎないよう意識しながら頭を下げた。あくまで礼を損なわない範囲ではあるが、礼ばかりを重んじても相手を委縮させるだけだ。ことに、こういう世慣れしていない女性の前では。

 赤面する少女たちを尻目に二人は階段を上っていく。

「意外ですね、貴女の印象はそれほど悪くないようだ」

「若い方からは、分不相応なほど親切にしていただいております」

「何か理由があるのですか」

「ええ、まあ。些細なことですが」

 当初、リュカは彼女の目が見えないために気遣いを受けているのだろうと思っていたが、招待状を見せて会場に入るなり、再び彼女が人々に取り囲まれたのを見て考えを改めた。どうやら彼女には別のカリスマがあるようだ。

「ラフラ嬢、そちらの方は?」

 彼女を取り囲んでいた紳士の一人がリュカに視線を向けた。それ以前から興味は向けられていたのだが、皆接触する機会を窺っていたのだ。

「こちらはエドガー・ドートリッシュ卿、わたくしの命の恩人です。今夜の会で皆様に御紹介できるよう、わたくしから総督にお願い致しました」

「はじめまして。エドガー・ドートリッシュと申します。お見知りおきを」

 温和な微笑を湛えたまま、求められた握手に応じ、質問を返しながら、内心では形式的にならざるを得ない自分に辟易していた。頭の中でカーリーがあくびをかいている。

(御苦労様)

 まったくだ、とリュカは小さく呟いた。

 だが、こうでもしなければ届かなかった。

 人ごみが割れ、満面の笑みを浮かべた一人の男が歩いてくる。他の男性と同じ黒いタキシードだが、体格が一回り大きいためやや威圧的である。肥満しているわけではなく、程よく鍛えられていることが見て取れた。歳は五十前半くらいだが、顔に刻まれたしわのせいか年齢以上に貫録が出ていた。一歩ごとの歩き方からリュカに手を差し出す動作まで全てに自信が満ち溢れている。その右手の薬指には、粒の大きい、見事なイエロー・ダイヤモンドをあしらった指輪がはめられており、握手を求められた者は嫌が応にもその輝きを目にしなければならない。

「よくおいでくださいました、エドガー・ドートリッシュ卿とは貴方ですね!」

 その場に居合わせた者の中で、最も客観的な立場にいたのは間違いなくカーリーだった。彼女はリュカの頭の中から、親愛の情と薬指の力の象徴を一緒に突き出しているこの男を冷静に観察していた。

 男の姿や態度はカーリーの記憶の奥底に眠る父親の姿と重なって見えた。容姿がどことなく似ていることもあるが、それ以上に政治家的なけばけばしいフレンドリーさが鼻につく。だが、その裏に父ほどのどす黒い邪気を感じるかと言えば、そうでもなかった。彼女の父親の場合、私的な場ではエゴイスティックな本性が顔ににじみ出ていたが、目の前にいる男からはそこまで邪気を感じない。女が化粧をするように、素顔を少しだけ誤魔化している。良くも悪くも俗人というのが、カーリーの抱いた印象だった。

 一方、そんな俗人に対して、彼女の宿主の胸中は穏やかではなかった。多大な努力を払い、頭蓋に鉄の釘で縫い付けた仮面が剥がれそうになるのを堪えていた。顔には先ほどまでと全く同じ微笑を浮かべているが、顔がやや蒼白になることまでは御しきれなかった。幸い、誰の注意も引かないほど些細な変化ではあったが。

 復讐の対象がすぐ目の前で不用心に立っている。湧き出る暴力衝動を必死で抑え、右手が相手の首に伸びそうになるのを自制し、リュカは握手をした。

「ええ……初めまして、サヴァス・ダウラント総督」

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