第6話 記号
ロビーで待っていた二人を伴って、リュカは第二階層にある繁華街へと向かった。主にルジェ階級の者が利用している階層だ。ホテルのあった第一階層にも飲食店は存在するが、セルヴィの客が席についても誰も給仕はしてくれないし、そんな所に連れていくドミナもマナーがなっていないと見做される。
その点、ここ第二階層ではドミナに混ざってセルヴィの富裕層やベラートルも混ざっている。居心地の悪さこそあるものの積極的に排除されることはない。
とはいえ、カイルにしてみればその居心地の悪さが辛かった。リュカの後ろを歩いているので周囲は使用人だと思ってくれているようだが、誰もが首をかしげている。恐らく、隣を歩いているマヤと比べておどおどし過ぎているせいだろう。彼女は堂々としたもので、他人の視線にも全くひるんでいない。単純に来慣れていることもあるのだろうが、それ以上にリュカに対する信頼があるからだ。彼が前に立って歩いている限り、自分に危害が加えられることはないという安心感があるのだ。
(別にどう思っているわけでもないけどさ)
男として、少し悔しいような気もするのだった。
「ここでいいかな」
小さなカフェの前でリュカは立ち止まった。第一階層のようなオープンカフェではないが、十分に品を感じさせる作りだ。
古風な木製の扉をくぐるとコーヒーや料理の香りが漂ってきた。一応、マヤの手によるスープとパンを食べていたカイルだが、あれだけで年頃の少年の食欲が満たされるわけもなく、嗅覚を刺激された身体が情けない音をたてた。
三人は店の奥にあるテーブルに案内された。若い男のウェイターが先導したが、言葉はリュカにしか向けず、二人には露骨に嫌悪感を示してくれた。乱暴に置かれたコップから水が跳ね、理不尽な妬みを含んだ視線が向けられたのをカイルは見逃さなかった。短気さ故に思わず立ち上がりそうになったが、マヤに足を踏まれ、渋々浮かせた腰を椅子におろす。
「気分悪ィ」
「私がこれから行くところでは、どこだってそうだろうさ」
「私?」
察しろ、と言わんがばかりに、再度マヤに足を踏まれた。
「時にカイル、ドミナとセルヴィの見分け方は分かるか?」
先ほどまでと異なる、やや高慢そうな声音でリュカは喋っていた。貴種、劣種という砕けた言葉を使わず、ドミナ、セルヴィと堅苦しい表現をしている。
「そりゃあ、貧しそうななりの奴は大体劣種だろ」
「なら、こういう所で働いている奴はどうだ?」
「え?」
カイルにはドミナの居住区で働くなどという発想が最初から存在していなかった。それだけに、リュカの質問に不意を突かれてしまった。
「例えば、あのホテルのフロントマンはドミナだな。それも筋金入りだ」
「何でそう言い切れるんだよ」
「簡単だ。お前たちと全く視線を合わさなかっただろ? いや、合わさないというより、最初からお前たちの視線なんて無いも同然だろうな」
「それってあれか? 貴種の女は、劣種の男の前で裸になっても恥かしがらないって聞いたことがあるけど」
下品な喩にマヤが咎めるような視線を向けるが、カイルは意に介さなかった。
「その話はさすがに誇張だが、認識は間違っていない。今の世界では、貴種としての矜持が強ければ強いほど、自分が人間とは別のものだと思い込んでいく傾向が強いんだ。特に、至天教の教義に忠実な者ほどな」
EHSの成立とほぼ同時期から存在している至天教、あるいはソアロジーとも呼ばれるそれは、ドミナの世界の根底に広がる思想的バックボーンとして存続し続けてきた。皇帝不在の帝国を支えるには、彼らにとってどこまでも都合の良い権威が必要だったのだ。
至天教の基本的な教義をまとめるなら、以下のようになる。
一つ、ドミナとは宇宙への進出に伴って現れた人類進化の必然である。
一つ、ドミナがドミナたり得る条件は、スペルの有無ただそれのみである。
一つ、一旦生を終えたドミナは、また別の場所、別の時間でドミナとして再誕する。一度ドミナとして生まれてくるということは、魂の不滅が約束されることと同義である。
一つ、スペルとは生命の躍動であり、従ってドミナとは「生きたる人々」である。反対にスペルを持たないセルヴィは、環境の大変化にも関わらずその生命を飛躍させることの出来なかった人々であり、即ち不能者であり死者である。
一つ、ドミナの使命とは全人類を高みへと導くことであり、また自身も至高天へと向けて飛翔することである。
多少過去の宗教に関する知識があれば、至天教の教義が様々な宗教のキメラであることに気付くのは難しいことではない。極端な選民思想はユダヤ教を、転生の思想は仏教の影響が見て取れる。
しかし、至天教の特異性として転生思想とアセンションとが入り混じっている点が挙げられる。これらは本来相容れないもので、論理的に考えると不自然極まりない主張だ。さらにアセンション、つまり昇天思想の部分にはキリスト教のアイデアのみならず哲学やオカルトまで導入され理論の強化が図られている。カーリーに言わせれば、前者は個々人の不安を取り除くための麻酔のようなものであり、至天教の思想的エッセンスは後者に集中しているのだという。無論、宗教とは人を慰めるためにあるものだから、リュカがカーリーの見解を知っているとしても大っぴらに言うことは出来ないのだが。
「あのフロントマンにとって、お前たちは最初から眼中に無かったわけだ。一方で、あのウェイターはお前たちの顔を見ていただろう? 認識の範囲内にはいたということさ。それどころか、優しい御主人様に昼食を奢ってもらえるのだから、多少妬むのも仕方がない」
「そんな勝手な理由で妬まれたって迷惑だ。俺は好きでこんな所にいるんじゃないんだぞ」
「ああ、すまないな?」
全く悪びれずにリュカは言った。時々語尾が疑問形のように上がってしまう癖がリュカにはあったのだが、人によってはより一層馬鹿にされたような気分になるらしい。カイルもそのうちの一人のようで、むっとした表情のまましばらくリュカを睨みつけていたが、今さら恨み言を言っても仕方がない。
「だが、あのフロントマンも、結局私自身を見ていたわけではない。私が着ている服、身に着けている物、そして動作。そういった記号が指示しているものを見ているわけだ」
「それって単純に、外面だけ見てるってことじゃないのか?」
「では、その外面というのが何を意味するか答えられるか?」
「そりゃあ、金を持ってるとか、そういうことだろ」
「それも一つの答えだな。五十点。もう少し考えてみろ。マヤ、お前もだ」
考え事をすると腹もいい具合に減るだろう? とリュカは付け加えた。しかし、普段から物事を真剣に考えたりしないカイルにとって、こういう哲学的な話題は拷問に近い。
一方、マヤにとってはそれほど苦痛ではないようで、しばらくその綺麗な唇を摘まんでから指を離した。
「時間、ですか?」
「その通り」
照れたマヤは顔を赤くして俯く。横目でそれを見ていたカイルは、こんな表情も出来るのだな、と少し意外な気持ちだった。
「で、時間と外見がなんで結びつくんだ?」
「例を一つ見せよう」
リュカは懐から手帳とペンを取り出し、例の流麗な筆致でエドガー・ドートリッシュと書いて見せた。
「自分で言うのは少々厚かましい気がするが、私は字が上手い」
「いきなり何だ」
「まあ聴け。私も昔からこういう技術を持っていたわけではない。綺麗な文字が書けるということは、裏を返せば文字を書く練習をしているということだ」
「そうだろうな」
「そして、たかが文字の書き取りの練習が出来るということは、そういうことに費やす時間を持っているという証拠になる。そもそも、現代では肉筆などほとんど役に立たない。公文書の九割が電子化されてやりとりされている時代だ。昔ながらのサインや押印など、時代錯誤も甚だしい。はっきり言って無駄でさえある」
「じゃあ、なんで」
「そんなことをするのか? 簡単だ。暇を持て余しているからさ」
もっとも、私はそこまで暇ではないのだがね、とリュカは付け加えた。しかし、多くのドゥクス達が暇を持て余していることは事実である。彼らはその持て余した時間やエネルギーを、多くの、実は好きでもない趣味に注入するのだ。それは芸術鑑賞であり、宗教的献身であり、賭博であり(これには本心から楽しんでいる者も多いだろう)、そして狩りである。
「ドゥクスに時間が有り余っているのは、言ってしまえば働いていないからだ。労働という時間と体力の消費を他人に押し付け、利益の果実だけを貪ることが出来る立場にいる。手を油や土で汚すことは全く好ましいことではなく、強者としては悪行であるとさえ言える」
「強者……」
「そう、強者だ。他人から時間と利益を搾取している者を、そう表現しないでどうする?」
カイルは頭の中で、彼の言った強者という単語を反芻した。粗野な環境の中で育ってきたカイルにとって、強さとは単純に腕力や武器への練達、クルスタの操縦技能だった。その武力としての強さがあるから、ドミナを相手に略奪も出来るのだ。
そんな先入観があるが故に、リュカが言って見せた強者像というのは、このヴェローナで営まれる生活よりも、これから出てくる料理よりも想像し難いものだった。だが不思議な実感がある。具体的な姿は全く想像出来ないが、収奪されている図というのは容易に頭に浮かんだ。
「もちろん、他人を働かせることが悪だとは言わないし、雇う側が雇われる側に対して必ずしも搾取の悪意を持っているとも言わない。それはある程度仕方のないことだ。でなければ、お前たちにトランクを運ばせた私は、お前たちから時間と体力を搾取しようという悪意がある、ということになってしまう。もちろんそんなつもりは全くない」
「分かっています、エド」
「ン……話を戻そう。あのフロントマンは、私が書いたサインを見て、私がどれほど労働から遠く離れた存在か、言い換えれば、いかに自分の行うべき労働を他者に押し付けているか読み取ったということだ」
「だからって、皆が皆、そうってわけじゃないだろ? たまたま上手く書ける奴だっているだろうし……」
「そう。それが記号の危うさだ。だが使わざるを得ないし、人間はそう易々とその見方を捨てられない。不便だな?」
そして、そんな記号の間隙にこそ、リュカの付け込める隙があるのだ。
「外面、記号、強者……」
カイルは小さく呟き、そして、船のなかでリュカに話を持ち掛けられた時のことを思い出した。そういえば、あの時もリュカは搾取という言葉を使っていた。
簡単に言えば、奪うこと。だが、奪うことの本質というのは簡単には言えない問題なのだ。時間と、利益と、体力と。自分の父親は、まさに全てを奪われ尽くして死んでいったのかもしれない。もう顔も憶えていないが、そのあまりの不憫さ、悲惨さに、少しだけ心が痛んだ。
が、そんな一時の感傷も、料理が運ばれてくると吹き飛んでしまった。ウェイターの手つきが若干乱暴なことも気にならない。そういう大雑把なところやさばさばとした部分が、カイル・ラングリッジという少年をこれまで生かしてきたからだ。無論、リュカが言った小難しい話もとうに吹き飛んでいる。
一枚のプレートの上にバターライス、子羊の包み焼、サラダが整然と並べられている。また、皿に注がれて運ばれてきたスープは、偶然にもマヤが作ってくれたのと同じコーンポタージュだった。
バターライスからは香ばしい匂いが立ち上っているし、サラダも色とりどりの野菜が綺麗に盛られていて視覚的にも楽しむことが出来る。だが、やはり目を引くのは主菜の子羊の包み焼だろう。パイ生地に包まれた羊肉は六等分にカットされていて、上からソースがかけられている。ソースはフォンドボーをベースに使ったもので、デミグラスソースほど濃くはなく、きつね色のパイ生地とよく馴染んでいた。当然香りも抜群で、数種類の香辛料やハーブの匂いがカイルの食欲を刺激した。
「遠慮するな。食べなさい」
促されずとも、すでにその気になっていた。
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