第16話 幸せショコラ時間(5)

 翌日、お昼過ぎ。

 扉前に「クローズド」の札がかかったショコラトリー・ココペリの厨房は、壮絶な修行の場となっていた。銀の台には失敗したカカオマスの入ったボウルが幾つも並び、雪子を見守る千代と蘇芳の目の下には黒々としたクマができている。

「キミヲハナシタクナイ! ヒトメボレダッタンダ! キミノパパヲコロス!!」

 壮絶な形相で、雪子がボウルに愛の言葉を唱える。残念ながら、台詞は棒読み中の棒読みなのだったが、千代たちはそこは目を瞑ることにした。

 カカオマスを優しくヘラで混ぜ、雪子がスプーンでチョコレートをすくいあげる。

 雪子は唇を引き結ぶと、鼻から溜息を逃す。

 横から味見した千代も、その表情は複雑だ。

「微妙な甘さですね……」

「やっぱり棒読みだから……なんでしょうね」

 雪子がしょんぼりと項垂れる。その姿が溶け落ちかけた雪だるまに見えて、千代は慌てた。

「と、とりあえず、お昼ご飯にしませんか。朝ご飯も結局食べずじまいでしたし、お腹が空いては戦はできぬとも言いますし」

「これじゃ、ダメだ」

 と、千代の言葉を遮って、雪子はパチンと両頬を叩いた。力強い目で顔をあげる。真っ白な頬が、赤く滲んでいた。相当な力で叩いたようだ。

 困惑する千代の前で、彼女はチョコがたっぷりと入ったボウルを抱えた。それを口元へ持って行き――

「ちょ、雪子さん!? 失敗したチョコレートを全部飲むなんて……!?」

 彼女は、ヘラで周りを綺麗にしながら、最後までカカオマスを口中に流し入れた。

 そうやって次々と失敗したボウルに唇をつける。

 やがて、見ている方が胸焼けするほどのチョコレートを飲み終えると、雪子はポケットからハンカチを取り出し、丁寧に口元を拭った。

「私は職人です。チョコレートを無駄にすることは許されない」

 真摯な眼差しで、空になったボウルを見つめて、彼女は言った。

「この不味さを踏み台に、甘くて美味しいチョコレートを作らなければならないんです。あの男から彼女たちを取り戻すために」

 そう一言呟いて、彼女は千代と蘇芳に目を向けた。

「暫く、一人にしてくれませんか」

 言って、頭を下げる。

「わ、分かりました」

 千代と蘇芳は大人しく引き下がる他無かった。

 千代たちにできることは、全てしてきたつもりだ。あとは、雪子自身が乗り越えるしかない……



 二週間ほど神社に引きこもり、ボードゲームをやったりして時間を潰していた二人は、久方ぶりにショコラトリーを訪れることにした。

 出不精が再発して神社から出るのを頑なに拒否する蘇芳を引き摺り、千代はココペリへ向かった。

 と、その歩みはお店から数メートル前で止まった。

「あれ? お店、前より人が入ってませんか」

 千代の言う通り、お店の前には人が列を為していた。

 蘇芳も目を瞬かせてその列を見た。

「本当だ」

 その列は女性ばかりで、何故か手にデジカメを持っている。時折、黄色い悲鳴も聞こえてきた。

 千代と蘇芳は訝しげに思いながらも、その列に並んだ。

 十五分ほどして、やっとお店に入ると……

「やぁ、神様。それに千代ちゃん。お久しぶり」

 超絶イケメンの店員が満面の笑みで迎えてくれた。背丈は一七〇センチほどだろうか。小さな頭部をさらさらの短髪が覆い、つんと尖った鼻に赤い頬、愛嬌のある二重の目元のその人には、どことなく、デジャビュを感じる。声もどこかで聞き覚えがあって、千代は首を傾げた。

「え、えぇーっと……どちら様でしたでしょうか」

 問うと、その人は大げさに肩を竦めた。

「忘れてしまったのかい? 私たち、一緒に熱いロマンスを楽しんだ仲じゃないか」

「はい?」

 それでも分からない千代に業を煮やしたのか、その人はフッと溜息をついた。

 それから顔の角度斜め四十五度をキープして、千代を流し目で見ると、その人は優美な動きで長い前髪を手で横へ流した。

「雪子です」

「ゆっ、雪子さん――!?」

 千代は大声を上げて飛び退った。

 店内を回っていた客たちが訝しげに千代たちを見る。

「ほ、本当に、雪子さんなんですか」

 千代は慌てて声を潜め、問いを重ねた。

「他の誰と間違えたのかな。罪深い人だね」

 雪子は、千代の顎を人さし指で持ち上げると、クスッと笑った。少女漫画的に、背景に百合だとかの花がわっと咲く。

「等身まで変わってる」

 蘇芳の指摘に「花まで背負ってます!」とすかさず千代は付け加えた。

 雪だるまのように可愛らしかった雪子が、道を歩けば女性が振り返るような美青年風女性になっているとは誰が予想できただろう。

 千代があたふたすると、雪子は少しだけ寂しげに笑うと言った。

「君のために私は変わったんだよ。マイスイートハニー」

 千代が惚けて声も出ないでいると、

「雪子さーん!」

 客の一人が黄色い声を飛ばしてくる。

 雪子は慣れたようにウィンクして手を振り替えした。と、

「きゃああああ!」

 彼女だけでなく、その周り一帯の女性陣が顔を赤くして卒倒しそうな勢いで悲鳴をあげた。

「せ、性格まで変わってる……」

 千代は半口開けて、変わり果てた姿の雪子と客を交互に見た。

 それから、何度か客と雪子のやりとりを遠巻きに見ていた千代は、ホッと安堵の溜息をついた。

「こ、この様子だと、太らない甘くて美味しいチョコレートはできあがったみたいですね」

 蘇芳に言うと、ハッと顔をあげた雪子が気まずそうに俯き加減になる。

「そうなのかな……?」

 蘇芳が空いていた椅子に腰掛けると首を傾げた。

 やがて、行列の客が一旦切れたところで、クローズドの札をかけた雪子が慌てて千代と蘇芳のところまでやってきた。

「神様、千代さん。お待たせしました」

「雪子さん! チョコレートは……」

「食べて貰えれば……分かると思います」

 千代が声を弾ませると、彼女はふっと哀愁漂う笑顔を浮かべてみせた。

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