第14話 幸せショコラ時間(3)
翌日、銀光りするボウル、タッパ、泡立て機などの機材に囲まれた清潔な厨房に、一同は集まった。
さすがにいつもの格好で神聖なそこへ入るわけにはいかず、蘇芳も千代もこの日ばかりは二人ともシェフコートにサロンをまき、頭には丈の短い帽子をかぶった出で立ちだ。
台の上には一つのボウルがあった。
そこには、すりつぶしたカカオマスにココアバターとスキムミルクを加えたものが入っている。本来ならば砂糖を加え、ヘラでゆっくりとかきまぜるのだが……これから加えるのは『甘い言葉』。
雪子はごくりと喉を鳴らしてボウルを見下ろしてから、蘇芳と千代を見ると力強く拳を握った。
「私なりに甘い台詞を考えてみました」
二人は静かに耳を傾けた。
雪子は幾度か深呼吸を繰り返し、頬を丸く赤く染めてから、思い切ったように口を開いた。
「向こうのインストラクターの人より、チョコレートの方が甘いですよ」
「うん。インストラクターは人間だからね。チョコの方が甘いよね」
蘇芳が真顔で頷く。
千代の頭から帽子がずり落ちそうになった。
手応えを感じなかった雪子は、慌てて次の言葉を口にした。
「向こうのインストラクターの人、実は性格悪いんですって!」
言って、今度こそ! と、雪子は小さな目を輝かせて千代と蘇芳を見た。
千代は帽子を直した格好のまま硬直した。
蘇芳は指先で顎を掻いた。
沈黙が落ちる。
雪子が目に見えて狼狽をし始めた。千代はそこでやっと申し訳なさそうに口を開いた。
「雪子さん、それは甘い台詞って言うか、悪口……」
雪子が愕然とする。
千代は、愕然とする雪子に愕然とした。
と、スプーンですくい取ったカカオマスを味見した蘇芳はうん、と頷いた。
「まぁ、食べやすくて良いけど」
千代が横から同じようにカカオマスをすくい上げる。
それを口に運んだ彼女は即座に口元を抑え、うずくまった。
「し、舌が、ひりひりします……」
辛いような苦いような……甘くてうっとりするような品物では断じてない。
「これでは……」
雪子が沈痛な面もちでうつむく。
と、
「あ、あの~」
絶望的な空気が落ちた時、千代がうずくまったまま手をあげた。
「私も考えて来たんです……聞いてもらえますか?」
「是非、お願いします」
水の入ったコップを持ってきた雪子が頭を下げる。
千代は水を口の中で転がし、一息ついて台にコップを置くと、雪子と蘇芳を見渡し自信ありげに胸を張った。
そうして、口を開いた。
「小さくて可愛いね!」
鼻息荒く、蘇芳と雪子を見る。
二人の目が点になった。
「あ、あれ? 反応薄いですね。じゃあ」
千代は慌てて続けた。
「良い子だね! どうですか」
「それ、甘いの?」
蘇芳が首を傾げる。
「何言ってるんですか、甘いじゃないですか……え、甘いですよね? じゃ、じゃあ……『君の元気は、周りを明るくするよ』! どうですか!」
「うーん」
蘇芳の首を傾げる角度が大きくなる。
雪子も不思議そうな顔だ。
千代はむきになった。
「『オレ、ちっちゃい子好きなんだ!』」
「それは変態だ!!」
蘇芳と雪子の声が重なる。
肩で息をする千代は、二人を見やるとしょんぼりと項垂れた。
「だ、ダメですか」
「ダメと言いますか……」
雪子が微妙な顔をする。それから、蘇芳を見た。
蘇芳は真剣な表情で千代に尋ねた。
「誰かに言われたこと?」
「いえ! 自分で考えてきました!!」
意気込んで言う。
雪子は小柄な千代から目を反らして、呟いた。
「全部、自分に向けた言葉…………」
蘇芳が千代を見る。その目はどことなく悲しげだ。
「な、何ですか、その目は!!」
千代が肩を怒らせると、蘇芳は鼻頭を指先で抓んで、涙を堪えるように目を閉じた。
千代は顔を真っ赤にした。
「じゃ、じゃあ、蘇芳さまだったらどう言うんですか?」
「えぇ……?」
「さぁさぁ。甘い台詞! 言ってみてください」
千代が攻め寄ると、蘇芳は明らかに戸惑った。
「いや、僕は……そういうのは」
「さぁ! さぁさぁさぁ!!」
千代は蘇芳を壁際まで追いつめた。
両手を前に拒んでいた蘇芳は、千代のいつにない厳しい眼差しに、だらだらと冷や汗を流し出す。
「蘇芳さま!」
「いや、でも」
「蘇・芳・さ・ま!」
「…………うー」
やがて、絶対に避けることはできないいと悟った彼は、千代の肩をなだめるようにたたくと、着物の襟元を正した。
「あー、ゴホン」
わざとらしく咳払いし、雪子と千代を交互に見やる。
それから、けだるげな表情を一転させ、紳士な様子で、彼は千代に向き直った。
「僕のために……モーニング珈琲、煎れてくれないかな」
何度目かの沈黙が落ちた。
雪子が呆れかえったように、口を半分開く。
千代は真顔のまま蘇芳を見た。その喉がゴクリと鳴った。
「さ」
千代は、瞬きもせずに蘇芳を見てから、へにゃりと相好を崩した。
「さすがです、蘇芳さま……」
「甘いですか!? どっちかっつーと、寒い部類でしょう!?」
雪子が驚愕する。
千代はぶんぶん首を振った。
「いいえ! 萌えました!! 照れました!!」
「嘘ぉ! どうなってんの、この子!?」
驚愕する雪子に、蘇芳はフッと前髪を払ってみせる。
雪子はこめかみに青筋を浮かべた。
「これ以上ないくらいのドヤ顔に、これ以上ないイラ立ちを感じてるんですけど」
が、仕方がないので、雪子はその言葉をカカオマスに語りかけてみた。
「…………『僕のために……モーニング珈琲、煎れてくれないかな』」
ボウルを優しく包み込み、優しくさすりながら……
やがてスプーンですくい取り、口に運んだ雪子は、眉根を寄せて、唇を引き結んだ。
「言葉にするのが難しい微妙な味です」
千代も真似してスプーンを差し入れた。
そうして、雪子に頷くと付け足した。
「しけったお煎餅食べてる時の気持ちになりますね」
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