第13話 幸せショコラ時間(2)

 そう言ってから、雪子は俯いたまま店の前のジムを指さした。

「お客様の大勢が、あそこのジムに通い始め、チョコレートには見向きもしなくなってしまったんです」

「ダイエットブームでお客さんをジムに取られちゃったってことですか」

 千代が問いを重ねると、雪子は首を振った。

「ダイエットじゃありません。あの男にです」

「お、男……?」

「インストラクターの男ですよ。みんな彼に恋しているんです」

 雪子は唇を振るわせて、窓越しにジムを睨めつけた。

 一汗掻いて気持ち良さそうにした女性たちが団体で出てくる。それを見送る、背の高い一人の男……

 千代は目を瞬いた。

 確かに格好良い青年だ。

 年の頃は二〇代前半だろうか。背は一八〇センチほどはあるだろう。

 引き締まった肉体の上に、少し幼さの残る顔が乗っかっている。ハーフかクオーターなのか、顔の造りは彫りが深い。綺麗に染められた茶色の髪は緩くウェーブがかかっていて、二重の目が好印象の青年だった。

 雪子は見取れる千代の視界を遮るように、店のロールスクリーンカーテンを引き下ろした。

「糖質と脂質さえなければ、私のチョコレートがあんな男に負けるわけはない。そんなチョコレートを作ることができれば、彼女たちは私にまた笑顔を見せてくれる……」

 雪子は手を組み、そこに顎を乗せて、重苦しく言った。

 千代は首を傾げる角度を大きくした。

「え、えーっと、要するに……?」

「女の子の笑顔不足で、死にそうです」

「なるほど。男に取られた女性たちを、取り返したいと」

 蘇芳が一言でまとめてくれる。

「はい」と雪子が頷くのに、蘇芳はうーんと唸った。

「これは……チョコレートを太らなくしただけじゃ解決しそうにないなぁ。毎回神通力を使いに来るわけにもいかないし……」

「砂糖を、何か別の甘いものに変えられませんか」

 テーブルに手をつき身を乗り出して、雪子が問う。

「人工甘味料もてんさい糖もダメなんです」

「うーん」

 蘇芳が唸る横で、千代も顎に手をやった。

 と、

「ひらめきました!!」

 千代は言って、手を上げた。

 二人の視線が集まる。

 千代の胸が高鳴った。彼女は少しだけもったいつけてから、ニヤリと口の端を持ち上げた。

「愛情を甘くしたらどうでしょうか。ロマンチックじゃありませんか?」

「愛情?」

 蘇芳と雪子の声が重なる。

 千代は頷いた。

「よく言うじゃないですか。愛情込めて作りましたって。その愛情に物理的な甘さを付けたらどうかな、って思ったんですけれど」

 蘇芳が目を瞬かせる。やがて、「いいね!」と手を打った。

「千代ちゃん、賢い!」

「えへへへへへ」

「で、ですが、具体的にどうすれば……」

 盛り上がる二人とは対照的に、雪子が困惑した様子だ。

 蘇芳は続いて浮かんだ自分の考えに満足そうに言った。

「それなら甘い言葉を囁いたら良いじゃない」

「甘い、言葉……ですか」

「そう。チョコレートに愛してるよ~とか大好きだよ~とかそう言葉をかけることで愛情を込めるんだよ。どうかな」

 雪子の眉根に深い皺が刻まれる。

「さあ。やったことがないから」

「そんなに難しいことじゃないですよ!」

 千代が両の手のひらを合わせた。

「それじゃ、早速」

 蘇芳がノリノリで席を立つと、雪子に手を翳し、にゃむにゃむと口の中で呪いを唱え始めた。

 すると、小さな光が現れ、パンッと破裂した。

 雪子がきょとんとする。

 満足そうに雪子を見た蘇芳は、よろけるままに椅子に座り込んだ。

「蘇芳さま!」

 千代が駆け寄ろうとするのを手で制して、彼はぐったりした様子で椅子の背もたれに身体を預けると、仰向いて深呼吸を繰り返した。

 頬を汗が伝う。

「だ、大丈夫ですか」

「ああ、僕は平気。いつものことだから気にしないで」

 雪子の気遣いに、蘇芳は顔の前で手を振った。

「これで、君の甘い言葉に力が宿ったよ」

 口だけで笑うと言った。

 雪子は意味が分からないと言うように眉根を寄せる。

 蘇芳は自分の珈琲を雪子の方へ押し出すと口を開いた。

「言っても分からないだろうから、この珈琲を使って実験してみようか」

「実験、ですか」

「この砂糖もミルクもいれていない珈琲を君の言葉が甘くするんだ」

「そんなことが……」

「カップに手を触れて、囁いてみて」

「囁く?」

「愛してるよ、とか何でも良いから甘い言葉を」

 千代が興味深く見つめる先で、雪子は躊躇いがちにカップに手を添えた。

 疑わしげに珈琲を覗き込み、ごくりと喉を鳴らす。

 そして、

「あ、愛してるヨ。――こうですか?」

 蘇芳に命じられるがまま、言葉を口にした。

「棒読みな感じが気になるけど、まぁ、そんな感じ。続けてみて」

 雪子は唇を舌でしめらせると、蘇芳に命じられるがまま口を開いた。

「大好きダヨ、綺麗ダネ、……あ、あとは、愛してるヨ……は、もう言ったっけ」

 言葉が浮かばないのか、彼女はうーんと唸ったまま難しい顔をし始める。

「まぁ、もういいでしょ」

 黙り込んでしまった雪子に、蘇芳は肩を竦めた。

「さ。雪子さん。飲んでみて」

「は、はい……」

 蘇芳に勧められるまま、雪子は恐る恐るカップを唇に運んだ。

 そして。

「あっ」

 と、声を上げて、信じられないと言う風に珈琲を凝視する。

「確かに、甘い」

「本当ですか!?」

 千代が身を乗り出すと、雪子は微笑してカップを示した。

「飲んでみますか」

「是非!」

 カップを受け取り、千代も珈琲に口をつけた。

「本当だ! ちょっと……甘い?」

 甘いと言うには、何とも言えないものだった。

 砂糖よりはオリゴ糖の甘さに近いと言うか、水で薄められたような感じだ。ぼんやりしていてこくがなく、さらりとしている。

 千代が微妙な顔をするのに、雪子も頷いた。

「申し上げにくいのですが……この甘さじゃ、チョコレートは美味しくなりません」

「それは、君の甘い言葉に心がこもっていないからだよ。同じようなことしか言っていないし」

 ぐてん、と椅子の背もたれに頭を預けて蘇芳が応える。

「いろんな言葉をかけてあげるとどんどん甘くなるってことなんですね!」

 千代は目を輝かせると、雪子を見た。

「雪子さん。さぁさぁ、もっとお声かけを!」

 これで太らないチョコレートの完成だ。

 願掛けコンプリートはもとより、実はそんな夢のようなチョコレートが出来上がったのがかなり嬉しかったりする。さっそく取り寄せようと千代は心の中で強く思った。

「雪子さん?」

 千代が希望に胸を膨らませる一方、雪子の顔面は白を通り越して青くなっていた。

「…………う、うあ」

 ダラダラと冷や汗までも流し始める。

「あ、あの、雪子さん、一体どうし――」

「す、すいません。何も浮かばない」

 ぎゅっとエプロンの裾を握り閉めて、雪子はそう絞り出した。

「え」

「甘い言葉と言われても……」

 酷く困惑した様子でポケットから手ぬぐいを取り出し、汗を拭う。

 千代は唇に手を当てた。

「そんなに難しく考えなくても良いと思うんです。例えば、素敵な男性に言われてみたい言葉とか……」

「ないです」

「あ! じゃぁ、女性たちに伝えたい言葉は? 笑顔が大好きって言ってたじゃないですか!」

「それだったら」

 雪子は小さな目を刮目すると、再び珈琲に向き直った。

 カップを割りそうな勢いで握り閉め、睨めつける。そして…… 

「ダイスキダヨ、キレイダネ、アイシテルヨ……」

「雪子さん、それ全部さっき言った言葉ですけど!? しかもさっきより棒読みですよ!! もっと心を込めて」

 千代がすかさず言うと、雪子ははっと顔を上げた。

 それからほとほと困ったように顔を歪めてぼやいた。

「無理、です」

「何でですか!?」

「恥ずかしい」

 言って、雪子は両手で顔を覆って項垂れた。

 千代は思わず席から立ち上がった。椅子が後ろに倒れて、けたたましい音を立てる。

「ま、まさか、雪子さんって口べたですか!?」

 雪子はコクリと頷いた。

 しーん、と沈黙が落ちる。

 蘇芳が頭を抱えて、顔を横に振った。

 千代は、唇を噛みしめて雪子を見つめると――

「そういうことでしたら……」

 雪子の手を握ると、力強く宣言した。

「大丈夫です。私たちも協力します!!」

「し、しかし……」

 千代は白い歯を見せて、ニカッと笑った。

「大・丈・夫・で・す!」

「は……はい」

 千代の剣幕に気圧されつつ、雪子はぎこちなく頷くしかない。

 太らないチョコレート。何て甘美な響きだろう……

 千代は本気でそのチョコレートを求めていた。

 それに……蘇芳には後がない。

 何としても、太らないチョコレートを完成させなければ。

 大丈夫、と千代は心の内で自分を励ました。

 会話は慣れれば良い。

 甘い言葉は知識として頭に詰めれば良い。

 不可能なんてないはずなのだ!

「一緒にがんばりましょう、雪子さん!」


 この時、千代は何とかなると思っていた。

 この時までは。

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