　朝目覚めて一番に美少女の笑顔が目の前にあるというのも、抱き枕の楽しみのひとつだ。

　「朝から晩まで目ン玉開きっぱなしかよ恐ろしい」などと贅沢を言うものではない。

　でも、顔のやたらでかいキャラだと、けっこう怖いのは事実だ。

　おれは毎朝の習慣で寝起きの口臭を気にする必要もないままに真っ先にエクリプスの唇へ唇を重ねようとするのだが、いつもならほんのわずかに口角を上げた微笑を貼り付けているはずの彼女の口が、なぜか今朝に限って半開きになっている。

　気のせいか、すうすうと細い寝息まで聞こえてくるようだ。大きな目も閉じられていて、長い睫毛を伏せている。

「あれ？」

　寝ぼけているのだろうかと違和感を覚えて身体を起こそうと身じろぎすると、何やら手足が柔らかくてほんのりと温かみのあるものに触れていることに気付く。

　繊維のなめらかさとは違う手触りと、綿にこもった熱とも異なる人肌の温みがある。明らかに、凹凸をつけた抱き枕（平面に描かれたもの）ではない立体感があった。

「ほおおおおおおおおおおお！」とおれが思わず絶叫して飛び退ると、「ふぇっ!?」とアニメキャラのような声を上げてエクリプスが両目をぱっちりと見開いた。

「だだだ抱き枕が、人体化した！」

「え、抱き枕って何のこと……いやあっ！」

　上体を起こしたエクリプスは、あたりの様子を見回してから自分の姿を確認して悲鳴をあげた。やっぱりアニメキャラみたいな声だ。

「見ないでくださいっ」と両腕で肩を抱いて女の子座りにこちらを上目遣い、泣きそうな顔になっている。そりゃあ、小さなリボンが付いた白のパンティのほかには第1、第2ボタンが留められたワイシャツだけという格好は恥ずかしいだろう。枕の絵柄としてなら見慣れているけど、さすがにこれは刺激が強い。しどろもどろになりながら、ひとまずそこらへんに雑に畳んであったパーカーとジャージの下を「それ着といて」と彼女に押し付けて、おれは事態を把握するためにトイレに入って引き戸を閉めた。

　衣擦れの音を聞きながら、便座に座って沈思黙考する。いや、しようと試みた。朝起きたら抱き枕の美少女が人間の美少女になっていた――深く考えようとしてもさっぱり意味がわからない。

「あの……着替え終わりました。ありがとうございます」

　扉の向こうからの声を落ち着いて反芻してみると、エクリプスのキャラクターボイスを担当している若手女性声優の笹竹綾香そっくりのハイトーンである。しかもネットラジオなどで聴かれる本人の素に近いものではなく、キャラそのもの。作ったような声音で自然にしゃべっている。

　トイレから出て、部屋中の窓や玄関の鍵に異常がないことを確認し、改めて六畳間の真ん中に敷かれた布団の上でびくびく震えてこちらを警戒している少女に目を向ける。

「な、なんでかすかは知らない間に見知らぬ男の人と一緒に寝てたんですか？　あなた、連続婦女誘拐殺人犯とかでしたら、かすかを綺麗な身体のまま楽に死なせてくれますか？」

「かすか？」

「かすかは、私の名前です」

「深夜徘徊と家宅侵入とコスプレが趣味の不審人物、かすかさんですか……」一人称が自分の名前っていうのもだいぶ痛い。

「かすか、不審者じゃありません！　あなたのほうがよっぽど、それっぽい……」

「おい、狭い部屋にがんばって揃えた四〇インチ液晶テレビと三画面のＰＣモニタとアニメＢＤ棚とラノベ棚とフィギュア棚を順番に怪訝な目で見やがって。おれの生活とひいては人生のすべてなんだぞ……。あ、その洗濯カゴの中身だけは見ないで」

「きゃっ、なんですかこれ!？　裸のアニメの女の子が印刷された布がいっぱい」

　やめろよ、おれの好きなアニメキャラの顔でそんなどん引きした表情しないでくれ。

「だめだ。やっぱりこれは夢だ、ちょっと寝直そう、おやすみエクリプス」

「ととと突然抱きつかないでください！　なんですか、その一緒に寝るのが当然でしょって感じの膨れ面、本当に人呼びますよ。って誰がアニメキャラなんですか……ちょっと、パシャリっていきなり写真撮ってどうする気ですかってひゃああああああ！」

　スマホで写真を撮って見せてやると、かすかと名乗った少女は驚愕をあらわにおれの好きなアニメキャラ（エクリプス）の顔面を怪奇漫画風に皺くちゃに歪めて甲高く叫び出した。アニメではこんな叫ぶシーンはなかったな。

「夜中に女の子をさらって、アニメキャラそっくりに整形手術するなんて……お家に帰る途中で突然気を失ったかと思えば、こんな、ひどすぎます」

「道端で気絶して、気が付いたらおれの部屋で添い寝してたってこと？」

「あなたと添い寝なんて、悪夢のような光景を思い出させないで下さい。ああ、そうです、遊んでたら夜遅くなっちゃったので急いで帰っていたら、ご近所で有名な開かずの踏切につかまっちゃったんです。そのときもやっぱりぜんぜん開かなくて、待ちきれないから遮断機をくぐって走ったらヒールが線路のへこみに引っ掛かっちゃって、それから強い光を浴びて列車のブレーキと警報機の音がぐわんぐわんと」

　ぐわんぐわんね……って、お前それ死んでね？

（※3.11 改稿）