出題編1. 救いを求める声

 話は昨日の放課後へさかのぼる。

 図書室でたっぷりと時間をつぶしてから、誰もいなくなった教室へ戻る。

 十八時になる五分前。ぼくは自分の机の上に腰かけ、彼女が来るのを待つ。

 

「時間通り来てくれたのね」


 黒板側の扉から姿を現したのは黒川千夏ちなつ。クラスの同級生。化粧っ気のない整った顔立ちが夕陽に照らされてさらに際立っている。


「アナタの言ったとおりだったわ」


 ぼくは無言で首肯する。

 今日、ぼくがここにいる理由は、ある言葉を彼女から引き出すためだ。


「私個人としてはこのまま現状を維持するというのもやぶさかではないのだけれど。ええ、もちろん私なりに努力はしてみるわ。でも―――」

「結局のところ、この領分に関してはキミは無力だと思うよ。キミがについて素人だとかそういうこと以前の問題だ」


 彼女は人の気持ちがよく分かる。分かりすぎてしまう。だからこそ、今回、彼女自身に降りかかっている問題は彼女には向いていない。


「キミは人を傷つけられないから」


伏し目がちになっていた彼女に対して追い打ちをかける。でも、すぐさま反論してくるあたり彼女は強かった。


「そんなことないわ」

「そんなことあるね」


 キミはそういう人間だよ。だれかを傷つける位だったら、進んで自らが傷を負おうとする。かすり傷だから平気って顔をしてね。でも、キミのその「過剰な優しさ」はときに自分の首を絞めている。 


「……私の筆箱の中には常にカッターナイフが入っているわ」


 そう言って鞄から筆箱を取り出そうとゴソゴソし始めた彼女。

 物理的に傷つけるのはやめてほしい。


「安心して。半分冗談よ」

「残り半分が何なのかは聞かないでおくよ」


 彼女はかすかな笑みを浮かべたような気がした。


「……キミって冗談とか言うんだな」

「前にもっとをしろ言ったのはアナタでしょう」

「情報の伝達に齟齬が生じているようだから訂正しておこう、中身のない話をしろなんてぼくは言っていない。をしろと言ったんだ」


 たしかに、クラスメイトが休み時間にするたわいない会話のほとんどに中身は無いのかもしれない。しかし、そこには人間が社会的な生活を営むために必要不可欠な栄養素が含まれており、欠乏すると人格に重大な障害が生じる。


「何が違うのかしら」

「日本語の機微を感じ取ってくれ」

「アナタってときどき難しい言葉を使うわね」


 「機微」のことだろうか。たしかに、ぼくらの年代の日常会話で出てくることはなかなかない言葉ではあるかもしれない。


かい。……些細な違い。なんかと思ってくれればいいけれど。ぼくらにとって馴染み深い言葉に言換えることもできるかな」

「何かしら」

「ワビサビ」

「馴染み深いって一体なんなのかしら」


 冗談だよ。

 残念ながらぼくは茶道にも華道にも明るくない。


「ぼくならキミを助けられるよ。今の段階なら、それほど時間もかからないと思う」

「ちなみに私の置かれている状況をひと言で表すならならどんな感じなのかしら」

「控えめに言って、の一歩手前」

「思っていたよりも酷いのね」


 でも、まだ間に合うよ。

 気持ちの整理がついたのか、彼女は制服の袖をぎゅっと伸ばした。そして、ぼくが欲していた言葉をその口からやっと出してくれた。


「アナタ―――伊達くん。悪いけれど、ちょっと頼まれてくれるかしら」

「お安い御用さ。ただ、ぼくの名前は伊達じゃない。高崎だ」

「あら、でも―――」

「伊達はアイツが勝手に言ってるだけだ」

「名前まで偽物だったのね」

「これに関してはキミが勘違いしていた、それだけだろう」


 彼女のほっぺたはわずかに膨らみ、「不服である」と主張していた。彼女は考えるようなそぶりを見せながら、そういえば、と質問してきた。


「よくよく思い返してみれば、アナタが苗字で呼ばれることってほとんどないんじゃないかしら」

「言われてみれば。たしかにそうかもしれないね」


 友達はもちろん、担任の先生にも苗字では呼ばれていない。ぼくの苗字が活躍する場面といえば半年に一度、クラスの係決めのときに係が決まった人の名前を黒板に板書するとき、それからひと月おき位に周ってくる日直くらいか。今日は黒板の右隅にひっそりと佇んでいる。


「なら私があなたの名前を伊達だと勘違いするのは至極当然だということよ。この勘違いの責任は私にはないわ。むしろアナタの周囲の人々に責任を負わせるべきよ」


 責任――彼女の言う「責任を負わせる」とはいったいどういう意味を持つのだろうか。「どんな責任だよ」というような言葉を喉から出る一歩手前で飲み込むと、彼女との会話が始まって初めての間隙が生じた。


「…………そうね、具体的にはをのんでもらおうかしら」

「針千本と微妙にイントネーションが違った気がするのは気のせいだよね。一応言っておくけれど、まるまるチクチクしてるお魚も、いつもいつだって攻撃力を十二分に発揮できるフォルムをしているわけじゃないと思うんだ」


 生臭くぬるぬるした物体をのませるというのは、約束を反故にしたときの罰として適切なのか判断しかねる。彼女の唇がわずかに動く――


「…………踊り食い」


 やっぱりお魚の方だった。

 冗談だよね。と目で訴えかけるが彼女はぽつりとつぶやいた。


「私、縫い物は苦手なのよ。ミシンを上手に使えたためしがないわ」


 からミシン針を連想するのか。ぼくだったら手縫いに使う縫い針やまち針が真っ先に思い浮かぶ。


「じゃあ高崎くん―――」


 本題へ戻ってきたようだ。彼女はぼくをまっすぐ見つめて続けた。


「私に憑いている幽霊をどうにかしてくれるかしら。もちろん、それなりの―――」

「お安い御用さ」


 間、髪を入れずに彼女に応える。ぼくの中で、既に話はついていた。彼女は助かるべきだ。そこに損も得も、対価も代償も介入する余地はない。


 これが彼女と結んだ最初で最後の約束になった。

 後からよくよく思い出してみると、ぼくも彼女の目をみつめていた気がする。まっすぐ射貫くような目が何かを訴えかけているようで印象的だった。





 

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