鴉の章 暁に啼く鴉の事
意識が切れたのは一瞬。次にそれが浮上した時に感じたのは、生ぬるさと鉄臭さ。頬に触れればぬるりと滑り、よくよく見れば掌は握った脇差と共に真っ赤だ。
「──うげぇ、またやっちまった」
首を横に一閃、血まみれになって転がる名前も知らない何処かの誰かの死体を見下ろしながら、
扼沙黝羽という青年。黒い髪は不自然にならない長さで乱雑に整えられ、その隙間から覗くのは三白眼。フードパーカーを愛着し、猫背でいつもどこかうすぼんやりとした表情を浮かべていることが多い。それだけの青年だ。
──けれど、そんな彼もまたこの世界が誇る異常の一枠、殺人鬼である。
朝は来る。誰の上にも構わず、平穏と呼ばれる退屈な時間はやってくる。それは勿論、青年、ヤクサの上にも平等に。
定刻を告げる目覚まし時計の音が酷く忌々しい。脳を鼓膜から無遠慮にガンガン揺らされるようなこの音はどうにかならないものだろうか。いや、そういう音でもなければ寝汚い者達は目を醒まさないのだろうけれど。
ああとも、ううともつかない唸り声を上げて目覚ましを止めれば時間は朝の7時。支度を済ませ朝食を済ませれば、バイト先に赴くのには丁度具合のいい時間になる。しかし如何せん身体が重怠い。何があったかと暫し考えれば、昨日の記憶が蘇る。
そうだ、またやってしまったのだった。後始末に時間がかかった為に寝るのが遅かったことと、その疲労感を思い出せば、どっと身体から力が抜けた。仕方ない、今日はバイトを休ませてもらおうと電話を取る。
忙しいのか慌ただしい店長は口早に休みの了解の意を示すと、殆ど棒読みのような調子で「おだいじに」と吐き捨てた。心のこもらない「おだいじに」はこの現代の人間の距離を如実に示しているのだろう。無論、そんなことはヤクサには関係なんてないのだが。
そうなってしまえば今日は一日フリーだ。バイトという戦争に赴くには心許ない体調だが、動けぬわけではない。事の序に、本屋にでも行こうかと、玄関をくぐる。春の太陽が燦燦と煌めく街の景色は穏やかで仄かに喧騒を含んで、詰まる所これが平穏と言うのだろうと、ヤクサはぼんやりとそう思うのだ。
扼沙黝羽は殺人鬼である。だが生まれついてそう在ったわけではない。
そもそも殺人鬼というのは括りが大きく曖昧だ。生まれついて何かを殺さなければ生きていけない存在もいれば、後天的に人を殺すことに目覚めてしまう者もいる。ヤクサは後者だったというそれだけの話だ。
扼沙黝羽は、何処にでもいる普通の少年だったはずだ。いまいち記憶が薄いのは印象に残るような強烈な出来事はあまりなかったからかもしれない。ただ、ごく普通の家族に囲まれて、ごく普通に生きてきたのは、確かだ。
ヤクサがソレを知ってしまったのは、中学二年の時分であったと思う。例に漏れず思春期を持て余していた時期で、自分は何か特殊な力に目覚めたのだと不謹慎ながら僅かに心を躍らせていたのは苦い記憶だ。
その脇差は、父が買って来たものだった。古物収集と言う中々見ない趣味の父が一目で気に入ったというそれをまた、息子であるヤクサも気に入ってしまった。気に入ってしまったのが問題だった。
それからというもの、父の目を盗んで度々それを持ち出しては、人目につかない場所で振り回していた。重い鉄の塊は、不思議とヤクサに馴染んでいる。
丁度その頃、街では通り魔が話題になった。曰く、不定期に起きるその事件は、夜道ですれ違いざまに喉を掻き切られ殺されるのだという。奇しくもヤクサが脇差を持ち出した日付と事件の日付は重なっており、ヤクサは「己も気を付けねば」などと他人事のように考えていた。
そして懲りぬヤクサが脇差を持ち出したその日。それがヤクサの人生の岐路だった。
ふ、と意識が浮上した。居眠りしてしまったのだろうか、だが眠った記憶など無いのに。ぼんやりとした頭を覚醒させようと大きく伸びをして──気付いてしまった。
脇差が血に濡れている。
驚きのあまり脇差を取り落とし、慌てて拾い上げようとして。其処に倒れ伏した、見知らぬ女性の姿に戦慄した。
そうして、思い出してしまった。噎せ返るような血の臭いと喉を裂く感触、そして今までの通り魔事件が全て己の所業であったということを。
こうして、扼沙黝羽という殺人鬼は誕生した。
それ以来、その脇差は誰の目にもつかぬようにヤクサが隠し持っている。何度も何度もその刃で無意識のうちに他人を殺している。
それはもう止めようがないし、しでかしてしまった所業は帰らない。だからヤクサはせめて殺した後始末はきっちりとして、申し訳程度に手を合わせる。謝罪の心算はないけれど。
──扼沙黝羽は殺人鬼である。
だが生まれついてそう在ったわけではない。本来は平凡で平穏を愛する只人だった。
命を奪わずにはいられなくとも、それはずっと変わらない。
凡庸な青年が零した欠伸が、晴れた空に融けて消えた。
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