刃の章 刃の娘について

 ──世界は微睡む。月は雲隠れ、星は散り散りに、街の灯は薄暗い。

 そんな場所を一人の娘が歩いている。夜の街に融けた黒髪は無造作に結われ、癖毛なのか立ちあがる一束の髪が如何にも特徴的で、いやしかし、中肉中背、凡庸な顔立ちは他に何処にでも有る一般人のそれ。だが違う。一際異彩を放つのは、娘の手に握り込まれている。磨きこまれたそれは少々ひしゃげており、否が応にも使いこまれていると分かってしまう。

 そう、つまり。この娘、鶴城真也ツルギマヤは所謂『』である。


 鶴城真也は殺人鬼である。生まれ落ちてから二十と余年、その身体は血を吸って生きている。

 ツルギが初めに殺したのは記憶の限りでは仔猫であった筈だ。にぃにぃと親の愛を求めて鳴くその姿が愛らしくて愛らしくて堪らなくなって殺した。

 手口も未だに覚えている。酷く華奢な頸をギリギリと締めあげて、軽く捻ってやれば、あんまり呆気なく事切れたことが不思議で堪らず、同じような手口で何匹か殺していたと思い出す。

 思えば当時よりイキモノの生死というモノに貴さというものを憶えた記憶がない。成程、やはり己は生まれついてのヒトゴロシのようだ。


 閑話休題。兎角、イキモノを殺す事に躊躇いのないツルギがヒトを殺す事に目覚めたのはそう遅くはない。初めて殺したのは確か、中学時代の恩師であった。

 と言うには皮肉だが確かにツルギには彼を恩師というより他にない。何故ならば、彼の男はツルギという殺人鬼が「殺人鬼」になったきっかけなのだから。

 当時、義務教育期間真っ只中のツルギは例に漏れず退屈な義務教育に縛り付けられていた。元よりその手の団体行動には不向きであり、また積極的に他人と関わることはしないツルギが、学校という閉鎖空間で異端として扱われるのは当然と言える。

 ツルギは孤立していた。それを本人は気にしていなくとも。

 謂わば一般的にいう『虐め』とやらを受けていたのだろう、と今になってツルギは思う。当時の自分は退屈で心が死んでいて、そんな事は漫画の世界よりも現実味がなかったけれど。さて、現実味がなかったとはいえ、どうしようもなくそれは現実で、痛みや何かがなかった訳では無いのだ。

 ツルギが本格的に「拙い」と思ったのは彼女がいうところの「恩師」が虐めに加担してきたところから始まる。

 彼にとってもツルギという存在は余程排除したかった問題児だったのだろう。それも、今のツルギに言わせれば「致し方のない事」だ。誰とて、異質は排除したくなるものだろう。それが自分に害になるならば、尚更。

 そして閉鎖社会で少ない大人が加わったとなれば雑兵達クラスメイトの士気は鰻登りだった。

 暴行が日常のルーチンに加わった辺りで、漸くツルギの鈍い危機感が警鐘を鳴らしたのだ。このままでは殺される、と。

 はて、殺されると一口にいうが、それがどういう事なのか。それを当時のツルギが理解していたかというと答えはいまいちイエスとは言い難い。ただ、それでもない頭を絞りに絞って熟考した。

 少々話は変わるが鶴城真也という殺人鬼はプライドがバカ高い。チョモランマも各やという高プライドは己を貶める行為を許さない。

 して話を戻すと、詰まる所、それは彼女のプライドをいたく刺激した。曰く、己を殺す事に快楽を覚える彼等に殺されるということは、嘗て己が手に掛けた小動物と同じまで貶めると言うことだからだ。

 鶴城真也という殺人鬼は感性こそ歪んでいるが善悪感を持ち合わせぬ訳では無い。これまで手に掛けた小動物達に憐れみは覚えるし、また己の行為を正当化したりはしない。己は正しく悪であったし、これからもそうあり続けるだろう。だがどうだ? 今まさに己を殺そうとする彼に、彼らに、その自覚は在るというのか?

 ツルギから言わせれば、きっとそんな覚悟は無いのだろう。ツルギを屠った現実を受け入れず、みっともなく言い訳をして、己の正当化を謀るだろう。

 それはあんまりに、ツルギにとっては赦し難い悪徳であった。

 だから、その男がツルギの小さな身体を突き落とそうとしたその瞬間に、伸ばされた腕を強く引いて突き落とした。精神衛生に良くない音が響いたのを聞き届けて、潰れたトマトのようなその肉塊を見下ろして、そうしてにんまりと笑う。

 ──嗚呼、人の死とはあんなに呆気なく、あんまり美しい。


 程なくして、男性教師の死のごたごたに紛れてツルギは学校を辞めた。幸か不幸か、親というものがないツルギを諌める者は居らず、それからというもの、己が最も美しくヒトを殺せる武器を探すことに明け暮れた。ある日は鈍器を、ある日はワイヤーを、暗器も刃物も試して、そうして見つけたのがそれだ。

 その短刀は恐ろしいほどツルギの掌に馴染んだ。

 由来は守刀でありながら人の血を多く吸った曰く物らしい。だがそれをツルギに渡した其奴はようよう納得したようだった。

 健全にヒトを殺す為に依頼を受けてより縁があるその男は魔術師だという。どうも堅苦しい理論を並べ立てる癖がある、学者気質の彼の言うことは要約するとこういう事だ。

 ──『ツルギ』というその名に込められたまじないと、ツルギ自身の『斬る』という。それらがそもそも『刃を振るう為の人間』という宿命付であり、またその短刀に与えられたをより強めた結果だという。

 小難しい事はともかく、成程、人と人だけではなく人と武器にも相性とはあるらしい。

 だからその武器はとっておきになった。最も美しくヒトを殺せる武器を振るうならば、最も美しく飾りたいヒトに使うべきだ。だから、二十になるまでその武器を、人に振るうことは無かったのだけれども。


 そして。そして、そして出会った。

 平凡な男だった。取り立てて目立つところもなく、ただぬるま湯のように暖かく優しい男だった。ツルギのことをただの女の子と呼ぶ、普通の男だった。恐らくそれを恋と呼ぶのだろう。ツルギにとってその男は特別で、ただ不幸にも彼は殺せば死ぬ、只人だった。

 或いは彼に、ツルギと同じような異常があれば、もっと永く生きたかもしれない。けれど、そうであれば、ツルギは彼を殺さなかっただろう。皮肉をいうならばそれは、いわば悲恋である。

 ツルギが己の素性を明かし、その刃を向けたその時、男は薄く微笑んでいたと思う。真実はもう血色の闇の中で、確かめる術はないのだけれど。

 ただ、ツルギの記憶の中での彼は、ツルギの好きな笑みを浮かべて、そうしてツルギに喉を掻き切られた。


 ツルギにとって、最初で最後の愛だった。


 鶴城真也の本当の武器はその短刀だ。けれど彼女は、次に誰かを愛するまで、懐のそれを振るうことはないだろう。


 ──鶴城真也は殺人鬼である。

 存在証明の為に人を殺し、愛する為に刃を振るう。そう生きるしかない、殺人鬼である。


 だから今宵も、誰かの血を求めて夜の街を歩いていく。

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