殺人性愛情忌憚
猫宮噂
当たり前に平和で、当たり前に物騒な世界のこと。
「あーあー、こりゃひでぇ」
遺体を拝んだ先輩刑事の一言に、仁那唯(ニイナユイ)は先ほど目にした惨状を思い出し蹲る。散々吐いて胃の中は空っぽだというのに込み上げる熱いモノは収まる様子が全く見られず、えずきながら胃液を吐き出す。不愉快な酸味が喉をジリジリと刺激した。
「おいニイナ、着任早々『コイツ』に出くわしちまったのは不運だとは思うが、これでそんなに弱っちまったら他のは到底見てられねぇぞ」
──なんせこのホトケさんは『殺人鬼』のヤマでも、どっちかっつうと綺麗なほうだからなぁ。無精髭の目立つ顎を摩りながらそう宣った先輩に、ニイナは改めて気が遠くなった。
『殺人鬼』と呼ばれる人間達がいる。文字通り、人を殺す為に生きているような存在。この世界ではそれはありふれた身近な危険であり、或いは天災のような不運の象徴だ。
この世界の何人がそういう者であるかは分からない。普通の人間にそういう狂気が紛れて、この世界は成り立っている。
そして、そんな物騒な世界で、ニイナは生きている。
ニイナはごく普通の一般家庭で生まれ育った。うだつの上がらない会社員の父に、口煩い母と小生意気な妹。そんな何処にでもある家族に囲まれて、ごくごく普通に成長し、ひどく平凡な少年時代を過ごしていた。
ごく普通、という表現は非常に危ういモノだとニイナは思う。ちょっとした均衡の崩れが致命的になり、あっという間にあたりまえの景色が崩れ、まるで何も残らない。
ニイナの家族に起きた崩れは、この世界では珍しくもなんともないことだった。けれどニイナユイという人間が崩れ去るには充分過ぎる崩壊だった。
ニイナが当たり前に高校生であったある時、妹が死んだ。三つ下の妹は生意気盛りで、殊更ニイナに噛み付いたものだ。その朝にもくだらない喧嘩をしたばかりであり、ただいつものように、帰ってからどちらともなく会話をして当たり前に明日を迎えるはずだったというのに、帰ってきたニイナの妹は切り刻まれて小さく小さくなってしまった。
ニイナの妹は、殺人鬼に殺された。
それからというもの、ニイナは必死になって勉学を重ねた。この物騒な世界では刑事という職業に大きな特権が与えられている。例えばそれは給金や手当であったり、また身を守るための発砲許可であったりする。故に、その競争率たるや並大抵ではない。血反吐を吐くような思いで、漸くニイナも刑事になったのだ。
「──っぅ、すみま、せん。もう大丈夫です」
フラフラになりながら先輩刑事の元に駆けつけると、彼は俄に苦笑する。「無理するな」という気遣いの台詞にもう一度「大丈夫です」と応えて、検視記録に目を通す。
(原型を留めぬ程に殴り潰された頭部。その他裂傷等の類はなし。争った形跡や抵抗した形跡などもなく、財布や携帯などの遺品に不備はなし──)
読み返すだけで気分が悪くなる話だが、先輩刑事はもはやこういったものは見慣れているらしく「派手にやらかしたなァ」などと嘯いている。
「まあ、お前も可哀想に。初めて見るホトケさんが『刄』のものだとはね」
「……ヤイバ?」
「殺人鬼818号。通称『刄』、なかなか長くこの街に住む殺人鬼でな。定期的にこうしてボコボコに撲殺を仕出かしてくれるって訳だ」
あー、ヤレヤレ。溜息を吐いた先輩刑事は現場に集まった警官たちに号令をかける。刄が出たぞ、どうせもうこの辺には居るまいが、目撃証言は徹底的に洗え! そんな叫び声を遠くに聞いたニイナは、ブルーシートに包まれた遺体にそっと視線を向けた。 もう物言わぬその遺体の、ブルーシートからはみ出た白い足がいつかの妹と重なった気がして、いやそんなことは無いと頭を振る。履き潰された黒いパンプスから視線を逸らして前を向けば先輩刑事が軽くその頭を小突いた。
「そんなに気張るな、ニイナ」
なあに、今日は一杯ひっかけて帰ろうや。そんなありふれた上司と部下のような言葉を交わしながら、この世界の日常は通り過ぎていく。
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