Case21 天地創造から昨日までの間

 初めに無があった。


 光と闇は未だ分かたれておらず、時は流れることなく淀んでいた。


 やがて〈築き上げしもの〉が〈永劫の歯車〉を廻し、時が動き始めた。


 そして、光と闇が彼の神によって無より放たれた。


「戻りすぎたな、天地創造時点まで来ちまった」無精髭を伸ばしっ放しにした、三白眼の男がぼやいた。「やっぱ酔っての逆行はだめだ。腹の中のもんまで逆行しちまいそうになんな……まあいいか。久々にカリーヤとダガスの喧嘩を見ていこうか……いや、巻き込まれたらまたアイヴォリーの野郎を怒らせることになんな。数万年離れた時点から再生するのは本当にきついってんで、この前ぶん殴られるとこだったからな」

 逆行者スヴェインがしたミスは想像以上に大きかった。なにしろ、昨日に戻ろうとして宇宙の始原まで来てしまったのだから。

 再度気合を入れて、かなり先まで飛ぼうとする。ところが、ゴミ箱に向けて丸めた紙屑を投げたら手が滑ったように、また妙な地点へ着地してしまった。


 夜明け前、荒野のさ中。廃墟に近い城塞で、汚れた格好の軍勢を前に、女騎士が演説している。

「諸君! 危機だ。未曾有の危機だ。世界の終わりと言ってもいいだろう。ロバート神託王でさえ、この状況を打破する名案は得られぬだろう。敵は五千の廃液馬だ。我が国土を、饐えた臭いの泥濘で汚そうとしている! だが! だが、あの悪鬼たちに対する我が軍勢はどうだ? どんな有様だ?」

「ろくでなしの集まり」群集から声が上がる。

「寄せ集め」別の声。

「はみ出しものたち」自嘲するかのように。

「場違いな弱者ども」しかし、恐怖はそこになかった。

「そうだ。まさしくそのとおり。ああ、我等は弱者かも知れぬ。間抜けかもしれぬ。滑稽かも知れぬ。その通りだ。だが――」

 騎士は右手で旗を掲げた。白旗だ。

「勇者だ。逃げることをしない、愚かしく、しかし勇ましき者たちだ」

 左手で松明を掴むと、騎士は旗に火を着けた。

 舞い飛ぶ火の粉を散らす風とともに、朝日が昇ってきた。

「我等は逃げない! 空から百人の〈塞ぎ込みのフレデリック〉が降って来ようとも! 千杯のワインがウェスタンゼルス中央公園にぶちまけられようとも! 万の狼が自分の尻尾を追いかけようとも! 百億回ジュリエット二世が市庁舎を爆破しようとも、我等は折れぬ! ニューノール南西部のニガヨモギの茎のように折れぬ! ミストラルビール本社の立地のように的確に! セントクローディアの白昼羊のようにしなやかに! あからさまなアルバトロスが羽ばたくとき、どの口も閉じられてはならぬのだ! 突発性偶蹄目が黄昏に混沌を招くなら、我等は真夜中にイフリットと盛り場で眠りこけようではないか!」

 一同は鬨の声を上げ、拳を突き上げた。それは紛れもない、不屈の戦士たち、英雄たちであった。

 そしてまるで頌歌のように、あまり売れなかった炭酸飲料のCMソングが奏でられた。

 それはスヴェインの時代から五十年ほど前の、銀炎師団内の独立部隊〈炎旗兵団〉結成の光景だった。あの女騎士は暴勇のラプタニア人、聖エレオノーラのはずで、記憶が正しければこのあとここにいる全員を、地面に埋まっている爆薬で吹き飛ばして単独で逃亡し、廃液馬は全部、当時の狩猟長〈矢継ぎ早のマギー〉に駆除されるはずだ。

 これはまずいとスヴェインはひとまず荒野へ走り出した――酔ってふら付きながらも全力で。CMソングが三コーラス目を数えた辺りで、予想よりもはるかに規模の大きい爆発があり、城塞は吹っ飛んだ。この功績によってエレオノーラは聖人に列せられ、今でも幾分か美化された像がデレキアの大聖堂に、右手に燃える旗を、左手にダイナマイトを持った姿で立っている。

「やっぱローギル派の聖人になるようなやつは皆イカれてんなあ。さて、あとちょっと先まで飛ぶ必要があんな。行ってみるか」


 ニューノールの喧騒の中に降り立ち、今度の移動は無事、目的の場所と空間へ到達できたように思えたが、雰囲気は少しばかり違っているようだった。捨てられた新聞の日付から、五年ほど前に来てしまったとスヴェインは知る。

 とりあえず喉が渇いたので喫茶店にでも入るか、と歩いていると、

「おいあんた、危ないぞ!」という声、そして背後から多足のでかい蟲が高速で突っ込んで来た。後ろ向きのままでスヴェインは跳躍し、蟲の背中にアダマントを突き刺した。甲羅の隙間から刃は肉を貫いて、蟲は足をばたつかせて苦しんでいる。

「死なねえ程度にやった。早いとこ中心点を探して処理すんだな」駆けつけた巡邏官にスヴェインは言った。若い男で、言われたとおりに目を光らせ、そこらのビルの壁に剣を突き立てて蟲を消滅させた。

「助かったよ。俺の人生、予想外のひでえ出来事だらけだが、今回はいい方向へ向かったな」

「予想外?」

「ああ、それが俺に憑いたイドラの特性さ。特に食い物関係に顕著に出てて、毎回予想とは違う味なんだ。もう慣れつつあるがな」

 スヴェインは相手の顔をよく見て、

「髭を生やしてねえから分からなかったが、お前さんルークか?」

「いかにも俺はルーク・ラドクリフだが、あんたとどこかで会ったかな? 同業のようだが」

「いや、まだ会ったことはねえ、この時点ではな。それより仕事を手助けしてやったんだ、良ければ茶でも飲ませてくれ。支部はこの近くだろ? まだ仕事は残ってるか?」

「いや、終わりだがあんた、ずいぶん馴れ馴れしいな。まあ構わないが」

 この時代から三年ほど後、スヴェインはラドクリフと酒場で出会い、飲み仲間として愚痴を語り合う関係となっている。

 たどり着いた支部では今日、東地区の大隊長を務めるルイーズ・プリンスがいて、この酒臭い男はなんだとスヴェインを指して言った。

「ああ、仕事を助けてくれたんですよ。茶でも飲みたいっていうから連れて来たんです」

「あなた、どこの支部の人間? この近くかしら」いつものしかめ面でプリンスは聞く。

「そうですねまあ、近くですよ」スヴェインは出された紅茶を一気飲みして、「今は『プリンス隊長』でいいんですか?」

「今はって、わたくしが隊長に就任したのは結構前よ」

「いえ、その、まだ隊長なのかっていうことで」

「『まだ』ってどういうことよ、失礼な男ね。もちろんわたくしは隊長程度では満足しないわ。将来的には大隊長に就任して、この地区の処理効率をもっと向上させてやるのよ」

 実際は大隊長になってからは多大なストレスを抱え、顔つきがこの時代よりもずっと険悪なものとなり、部下には怒鳴り散らし、各支部の視察や、地区を丸ごと吹き飛ばすことで発散する体たらくに陥っているのだが。

「以前から言っているように、わたくしが昇進したら後任はあなたよ、ルーク」

「昇進の前に相棒を確保してほしいところですがね。単独任務だと色々手が回らなくて、今回みたいなことになりかねないし」そう言ってスヴェインに向かい、「まったく、俺もあんたみたく、昼間から飲んだくれていたいもんだ」

「その酒もお前の満足するものではねえだろうけどな」馴染みの酒場で一杯飲むたびに、ルーク・ラドクリフはどんどん愚痴っぽくなっていく。スヴェインにはそれが面白く、いい肴だ。

「それじゃあお茶どうもな、オレはそろそろ帰るよ。また会おうな、ルーク」

「ああ、いつかな」


 支部を出て時間移動して、駅の売店で新聞を見る。目的の日、つまりスヴェインにとっての「昨日」だった。

 しこたま酒を抱えて酒屋から出てくる男を、スヴェインは急襲し、酒瓶をすべて砕き、「おい、明日は出勤日だぞ、今夜は飲むんじゃねえ! 一杯だけのつもりが馬鹿みてえな酔い方するはめになんぞ」

「だからって瓶を割るこたあねえだろうが、この野郎」昨日の自分が怒鳴ってくるが、それ以上の音量で、

「お前のせいで二日酔いがひどすぎて、それをごまかすために迎え酒するはめになったんだぞ! その挙句天地創造時点まで逆行して、ようやくここに来たんだ。いいか、今度酒がらみで仕事に支障が出たらクビだってことを忘れんなよ、今日はもう寝やがれ」

「クソったれ、ならせいぜい悪夢を見るとすっか」割れた瓶を蹴飛ばし、昨日の自分は帰っていった。

 これで、今日に戻れば酔いは醒めているはずだ。そう考えてスヴェインはまた時間を移動する。

 すると自宅にいて、ベッドの上で大量の酒瓶に囲まれて、最悪な二日酔いの状態だった。

 どうやら昨日の自分が、当てつけのつもりで酒を買いなおし、飲みまくったようだ。

 時間移動の問題は――吐くために便所へ向かいながらスヴェインは思った――別の日の自分と喧嘩になっちまうことだな。そして、この話を愚痴るために、ルーク・ラドクリフへ電話をかけて、いつものバーへ向かった。

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