Case15 衛星調査官

 その領域のニューノールは巨大なドーム状の天井の中、迷路のように通路が入り乱れ、蒸し暑く、頭が割れそうなほどの騒音で満たされていた。機械類や生命体からの熱以外に領域そのものが放つ熱気が、いかなる換気装置、冷却装置をもってしても排除できず、都市に莫大な負荷をかけている。住民たちは常にオーバーヒート寸前で動きも異様に速い。犯罪者の数は他の領域に比べて、二倍以上にのぼる――もちろん他が低いってわけじゃない。そこが特異的なのは人口密度と建造物の乱雑さだけじゃなく巡邏官や猟兵たちの杜撰さもだった。彼らはほとんど仕事をしなかった。その刃を地面に投げ捨てて酒を飲んだり薬物を吸食したり。この領域には曙光連に当たる団体はなかった。設立者のヴィヴィアン・ドーソンならびに初期の学士たちは、連合を組む前に、夜明けの黒い大犬に魅せられ、その口の中に自ら飛び込んだからだ。警備隊もない。その指導者になるはずだったモンク大佐は、クーデターを企て、デレキアの王宮で王自らに首を刎ねられ死んでいる。そうした混乱の中、怪異をろくに止める者もおらず、王都はまるごとひとつの巨大な建物の中に飲み込まれ、やがて大陸全土もそうなってしまった。すべての道路を壁と床とドアが埋め尽くし、空は天井が覆った。神が死んだのもそのころだ。ローギルがすべての神格を簒奪したとき、なにか致命的なエラーが起こり、神は生まれることなく、イドラ界へ姿を消した。

 あとには膨大な怪異の数々と、巨大な屋敷と化したリンダリア大陸が残り、三百年間、外部からの立ち入りはなく、事実上の鎖国状態だった。そこにあるのは悪漢と怪物ばかり。

 異様な要塞と化した大陸内部では浮浪者そのものの住民が汗だくでうろつき、怪異を糧として生きていた。人口が多すぎて定期的に食料を確保することが困難であり、共食いを選択しない人々は自らの周囲を最も多く満たす怪異を主食とした。たまに猟兵や巡邏官が仕事をした場合は、その砕けたイドラを人々は直接経口摂取する。もちろんそうでない場合が多いので、アマチュアの人間が闇市場で購入した薬液や刀剣で怪異を駆除し、それを食べたり売ったりした。怪異を狩るものたちは警察も兼ねており、大抵無為に住民を剣で貫いて報酬に変え、薬物やアルコールを買い、もう少しまともな人間は屋敷の上層の、多少なり衛生的な場所で放蕩にふけっていた。

 他所に比べると人々はあっさり死に、しかしすぐにどこからか補充された。他所では修復・蘇生担当の特務官が成す仕事を、都市そのものが果たしているかのように。もちろん元通りになることは保証されず赤の他人が家族になったりなんてのは日常茶飯事だった。しかし、都市が濃いイドラに染まっているぶん、他の領域のように、個人にバカげた怪異が付与されたりはし辛いので、そういう意味では平和だった。

 あるとき領域渡りの調査官がここに飛来した。彼はこんな汚い場所に来訪したという意味では運が悪かったが、やって来てすぐに死ななかったぶん幸運ではあった。

 通常、領域渡りは到達と同時にその場所の自分と一体化するのだが、この場所の彼は既に死んでいたらしく、もとの領域の肉体がそのまま到来した形となった。

 そこは汚い一室だった。調査官は室内を見渡して、スラム街の特にひどい場所へ来たのだと思ったが、それはこの領域の平均的な様相だった。壁は錆や血、カビなどが付着し、汚水が染み出している。何らかの害獣の死骸が半ば液化した状態で床にいくつも転がっている。注射器、ナイフ、人骨なども散らばっているし、おまけに絶え間なく轟音がどこからか聞こえていて頭痛がする。とっととここから出ようと、べたべたするドアノブをつかんで、立て付けの悪い扉を開く。外は暑い空気が淀む下水のような場所だった。赤茶けた水が流れ、ひどい悪臭。不気味な蟲が絶えず壁や地面を這いずっているし、トカゲ、コウモリ、ナメクジなどもびっしりとそこらを埋めている。そいつらを踏み潰して進んでいると人がいた。ぼろを纏った老人で、手に杖を持ち、地面に生えたキノコを採って食べている。

「あの、すいません」調査官は彼に話しかけた。「出口はどこですか?」

「若いの、この先に進みたかったら十二桁の番号を言うがいい」

「あー、なんですって?」

「わしはこの階層の支配者だ。今日中に五体の生け贄を捧げなければならん」

「出口はどこかって聞いたんですが?」

「果報は寝て待て、棚から牡丹餅」

「ボケてるのか? 爺さん、ここはどこだ?」

「そう、慌てるでない。赤いくらげが十体、貴様の脳を狙っているぞ」

「話にならないようだな」

 もちろんそうだった。老人はきのこを食べ終えると、床を這いずって、急にぶっ倒れた。見ると、急激に爺さんの顔が白く染まっていくところだった。菌糸が根を張り、彼の顔にきのこが群生し始めていた。

「食ってはいけないやつだったな。食っていいやつが生えてるのかは知らんが」

 汚水の中を進んでいくが、熱気と蟲たち、心臓の鼓動にも似た機械音はいつまでも変わらず、むしろどぎつくなっていくようだった。

 なんて汚い場所なんだ、と彼は改めて思った。故郷のニューノール下層部じゃ、猟兵の仕事を3K――きつい、汚い、気が狂う、などと揶揄していたが、ここはどうも領域全体がそんな感じのようだ。とっとと仕事を済ませておさらばしたい、と彼は脇道に逸れ、少なくとも湿っぽくない場所を目指して歩いていく。

 ときおり馬鹿でかいネズミや蛆まみれの動く死体、巨大ウミウシなどがいたが、もともと汚れ仕事担当の猟兵だったので、顔を少し顰める程度ですべて駆除できた。

 狭い通路の向こうに光を見出し、そちらへ進んでいくと、巨大な縦穴に出た。デレク大王の巨像が余裕で納まるサイズで、壁には奇怪な植物が群生し、底には巨大な木々が繁茂していた。下水道を上回る熱気に調査官はふらついたが、ここから上へ出ようと思って、跳躍した。

 濃いイドラの影響下にあれば、適合者はワイヤーアクションみたいな卓越した動きができる。数十メートル上まで跳躍すると、反対側の壁を蹴ってさらに上へ跳んだ。途中で巨大なトンボの群れが飛び掛ってきたが、雑種刃バスタードで切り落とした。標本を採取して帰れば曙光連のやつに高く売れるかもな、と思いながら、調査官は跳躍を繰り返し、穴の上に出た。

 そこは都市を覆うドームの天井だった。そこも巨大な植物で覆われている。甘ったるい花の匂い、動く蔓、多足の蟲、それらが周囲を満たしていた。目的のものを見るために、調査官はさらに跳んだ。生い茂る梢を越え、景色が開けた。

 都市の屋根は地平線の彼方まで広がっていて、眼下の密林の最中に何か巨大な生き物が見え隠れする。空にもキマイラや巨大な鳥、竜種までもが我が物顔で飛んでいる。

 目的のものは嫌でも目に付いた。日没か夜明けか分からない、黄色く淀んだ常夏の空に、ただひとつの月が浮かんでいる。異様に大きく、緑色に淀んでいた。ここらの、イドラの影響下にある生物群が向こうにまで行ったのだろうか、と調査官は思った。月自体もイドラに蝕まれ、もはや元通りにはならないのだろう。あの月が自分の故郷に来たら、と思い彼はぞっとした。きっと領域全体へ悪影響が及ぶだろう。この地へは隔離処理が必要かもしれない。

 まあひとまず今は、自分はあの情報を記録して故郷へ帰るだけだ。

 再び屋根の上に降り立ったとき、彼を取り囲む影があった。六人の、銃を手にした若者達だ。着ているのは調査官と同じ猟兵の外套だが、彼らのそれは緑色に変色し、半ば腐っていた。両目は浄化法人の感知係のように緑色の光を放っているが、それは己の意思で宿したものではなく、強制的に編成意識状態へ突入させられる病状のようだった。どう見ても悪漢という彼らに調査官は、なんてこった、ここでも馬鹿なガキどもに迷惑をかけられるってのか、と悪態をついた。彼らは、金目のものを出せと告げ、調査官はそれに嘲笑で応えた。

「副業に強盗をやってるのか? あるいはそっちが本業か? ろくでもない領域にろくでもない犯罪者か。分かっちゃいたがひでえ場所だ。だがくだらん。撃ちたいならそうしろよ、間抜け」

 彼らはそうした。しかし、予想に反してその銃弾は一発たりとも、調査官に命中することはなかった。焦った彼らは続けざまに乱射するが、結果は同じだった。

「どうした……予想と違って驚いてるのか? 毎回自分の思い通り行くと勘違いしやがって……問題は確信だ。うまくいくって確信するのは危険だと理解すべきだ。俺もかつてはそうだった。食い物、部下、帰り道、健康状態、すべてが自分の予想とは違いイカれた状態で、馬鹿らしく放浪してたのさ。だが今は違う……自覚してからだ。うまくいくって確信するのは『傲慢』だってことをな……これは『啓蒙』だぞ」

 雑種刃バスタードで続けざまに二人を切り伏せ、残りが逃げるのを見て、彼らの背中に調査官は告げる。「うまく逃げられると思ったのか……自分の家に続く道が昨日と同じと確信するように。それもまた失敗する。死んで学べ」

 暴漢たちは茂みから飛び出してきた何かに一口で飲み込まれた。全身から黒い粘液を垂れ流す眼のない獣だった。おぞましいそれは調査官の知っているどの動物にも似ていなかった。四人の獲物を食い終えて、そいつは満足したのか悪臭を残して木陰へ消えた。

 ここにもう、来ることはないだろう。そう思いながら調査官は上天へ飛躍する。領域を越える門へ入り込むためだ。もう一度、緑色に染まった月を見上げ、彼は彼方へと消失した――月がこちらを見ている気がしたけど、それは気のせいと自分に言い聞かせて。


 問題はそのあとで、領域渡りは普通異世界の病原菌を持ち込まないように、気密室に帰還し消毒を行うのだが――過去には帰還後の調査官が無造作に雑踏をぶらつき、パンデミックを引き起こした例が何度かある――今回、ウィルスではないものを持ち込んでしまったと彼が気づいたのは、一週間くらいした後のことだ。夜道を歩いているときなんとなく月を見ると、明らかにサイズが大きくなっており緑色にぼんやりと濁っていた。あの灼熱の領域からなにかを持ち込んでしまったのだと理解したが、自分の仕業だとばれると問題になりそうだし、しばらくしたら消えるだろうと思ってそのままにしておいた。

 そうして都市の温度が上がり始め、人々は知らず知らずの間に熱狂に溺れていった。

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