Case12 羊の波

 相棒の男と東地区を歩いている最中、シンシア・フォーチュンは突如立ち止まり、頭を押さえながら辺りをきょろきょろと見渡した。怪訝そうな顔で目の前の男は彼女を見やる。くすんだブロンドの、猫を思わせる目をした若者だ。黒い革のジャケットに、アダマントのサーベル、浄化法人の人間だ。

「どうした?」と聞いた彼にシンシアは、「ここのわたしは浄化法人に入っているのか……」と呟き、さらに訝しげな顔を浮かべる相手に「なんでもない」と答え、再び二人は歩き出す。

 融合したこの領域の自分の記憶から、彼は感知係のリック・カーターと分かった。最近入社した、自分と同じ異領域からの来訪者だ――もっとも彼は領域渡りではなく、元いた場所から不慮の事故で流されてきたのだが。

 到来するなりこうして、この領域の自分に融合したシンシアとは違い、元々ここにいたリック・カーターが、今もどこかに存在しているはずだ――異領域からの漂流者が自分自身と遭遇するケースはまれにあり、それはたいがい不吉なこととされる。生き別れの双子。気にしない者も多いが、過去にはイドラへの拒絶反応でおかしくなった来訪者が、その領域の自分を殺害したことすらあった。しかしリックは適合率の高さゆえか、さしたる拒絶反応もなさそうだし、このまま巡邏官として順調に生きていくだろう。

 ふと空を見れば、この領域には月が三つあった。

 一つは本来ここに存在している実体の月。

 そして、背後にはそれが歪んで映し出された、巨大な虚像。

 さらに、少し離れた場所にある、どこか違う領域の蜃気楼。夕暮れの空に浮かぶそれらは青く美しい。

 リックは、自分の故郷にはもうひとつ月が浮かんでいたと言っていた。

 シンシアの訪れた中で、四つも月が存在する場所は多くない。

 月の数と、そのうち実体がいくつ、虚像がいくつという割合は、領域を特定する上で大きな手がかりになる。イドラはどうやら月が好きなようだ。古代より月が狂気の象徴とされていたのも頷ける話だ。


 黒鳥通りの向こう側は更地になっていて、巨像が一体安置されている。腕組みをした猫が腰をかがめている、って感じのシルエットで、真鍮製か何か。そういうデザインの、百メートルくらいのでかさのものが、何もない一区画に聳え立っている。

 なぜそんなことになったかというと、ドイル狩猟長だかヒューム大佐だか、災禍指定者がここいら一体に発生した怪異を吹っ飛ばしたのだが、そのあとすぐにあの巨像が出現して、中心点を浄化するのに手間取っているのだ。普通、災禍クラスの人が動いたらイドラは完全に消し飛ばされ、まっさらな状態になるものだが、まれに跡地に強力な怪異が宿ることがある。その場合、なまじゼロのところに入り込んだもんだから、通常の怪異より強固で、片付けるのに手間がかかる。あの巨像もだいぶ前から、警備隊と浄化法人が合同で浄化しているそうだ。具体的にどこでなにが行われているかは分からないけど。

「銀炎のやつらが言う『まずはレモン汁をかけるよ』ってのは一体なんだ?」巨像の前を横切りながらリックが聞いた。

「何かの嚆矢において呟く、合図のようなものだよ。かつてデレキアに独白官吏スティーヴという聖人がいて、彼は飲み屋で必ず食物にレモン汁をかける習性があった。から揚げのみならず大根サラダとかピザとか、下手をすればビールにも入れていた。だからひどく嫌われてて、皆がやがて彼を揶揄して、『まずレモン汁だな』って宴会の最初に真似するようになった。そのうち酒宴のみならず、あらゆる出来事の開始時にそれを唱えるようになったんだ」

「どういうことか由来を聞いてもまったく分からないな」

「彼らの言葉はおおむねそうだよ。とにかくその人物は神聖だった。重要なのはそこだよ。とはいえ昨今は、あまりに本来の意味とかけ離れた場合にもお構いなしで、神聖語句を乱用する信徒が多すぎるから、論理性回帰運動が興りつつあるようだ。『レモン汁をまずはかけるよ』は手元にレモンと料理があるのときのみ、『すっかり氷河期だぜ』は氷河期が到来したときにのみ使うという具合に」

 言ってから、これは他の領域の話だとシンシアは気づいたが、リックが特に反応しなかったので、そのままにしておいた。

 そのうちに日が沈んで風が吹いてきた。巨像の向こうで三つの月は一際眩しく輝いている。リックは頭を押さえ、月からのイドラが濃く頭痛がすると言った。シンシアにはそれが錯覚に思えたが、それでも彼はひどく忌々しい顔をしていた。


 時計屋は高い天井の建物だった。中は薄暗く、金持ちの屋敷みたいな感じだった。あらゆる場所に時計が無造作に置かれている。壁にはずらりと柱時計が並んでいるし、そこらじゅうに置時計があった。壁に掛けきれない柱時計や鳩時計が階段にあって、そのいくつかは止まっていた。時計のすべてに値札があり、ここが偏執的な住民の住む奇怪な館ではなく商店ということを思い起こさせる。

 時計屋の主スミス氏はまだ若かったが、老人のようにしわがれた声で喋った。

 彼に案内されて、問題の部屋に入ると、そこには夥しい数のスプーンでできた大きな馬があった。複雑に組み合わされたそれらは固定されておらず、少しの衝撃で崩れてしまうそうだ。しかも馬の全身には蝋燭が乗っかっていて、それが溶けていくに従ってバランスが変わり、いずれは自動的に崩れるようになっている。馬が崩れると馬鹿でかい音が館全体に鳴り響く。そして、数分後には元通りになる。こんな邪魔なものは早めにどうにかしてほしいとスミス氏は言った。

 リックはさっそく目を光らせた。

 中心点は遠かった。目の導きに従って二人は地下街へ入り込む。

「この領域はコントラストがどぎついな」リックは独白するように言った。「明るい場所は目がくらむくらいに明るくて、暗い場所はとことん暗い。人がいる場所は最悪なくらいの人口密度で、そこから少し離れると人っ子一人いない。バランスが狂っている。それを誰も気にしないようだが」

 確かに地下街は大勢の人で溢れていた。大半は酔客だ。次いで、曙光連の学士が多い。通路の両側には奇怪な商品を売る出店が並んでいる。ここいらには生物のミイラを扱う香具師が多いようだった。トカゲや蟲、その他、なんだかわからない言語で説明書きがしてある多足の生き物、人間じみた哺乳類のものも多かった。何に使うのだろうとシンシアは思った。食用か呪術用だろうか。

 英雄の肖像を売っている商人がいた。数々の伝説的なイドラ浄化者が並んでいる。ラヴジョイ長官、オズワルド皆既蝕祭官、ラプタニアのアレクシアことシェーファー大尉、〈逆手のジェラルド〉、〈デイブレイカー〉。

「オレのところとこっちじゃ、あの人の名前の由来がだいぶ違うようだな」朝日に照らされる曙光連の初代書記長の絵を見てリックは言った。恐ろしく長い黒髪の、眼鏡の女性だ。「こっちだと彼女は三百年前のデレキアで、朝日が昇らないっていう怪異を駆除したから、その名で呼ばれてるそうだが。オレのところでは夜明けの探求で、『あの朝日が昇るのは自分の力のおかげだから』っていう戯言をよく言うので〈デイブレイカー〉って話だった」

 いずれにしても怪人物ヴィヴィアン・ドーソンがそのあだ名で呼ばれ始めたころ、既に全土から王都の怪異を見ようと、物好きたちが集まっていた――彼らが曙光連を名乗り始めるのにそれほど時間はかからなかった。同時期、大犬を退けたエヴァ王女と婚約者のレイモンド・ルーグナッグが浄化隊を結成。〈放蕩息子のアル〉ことアル・クックがギャングたちを纏めて怪異を狩り始め。ローギルの神託を得た教皇アレクサンダーが、ジュリエット一世を最高司祭兼〈銀の炎の使途〉の主に任命する。そして王国軍のマイルズ元帥は感知者モンク大佐に命じて、対イドラ部隊を結成、デレキアの警備に当たらせた。

 すべては三百年前に始まり、王都から全国へ各団体は広がり、イドラによる怪異とともに大陸全土を掻き乱した。


 地下街の奥に人形店があった。そこで売られているのは不気味な人形だ。目があるべき部分には穴が二つ穿たれているだけだ。背中のぜんまいを巻くと、どういう仕組みになっているか分からないがとても嫌な音がする。人間が首を絞められたときに出すような、虫が潰されるときに発するような、搾り出すような音だ。単にぜんまいが錆付いているだけじゃこんな悲鳴みたいなのは出てこないだろう。他人を陰鬱な気分にさせてやろうという、人形職人の強い意志を感じる。

 店主はずっと笑みを浮かべている高齢の婆さんで、延々、それらの人形のねじを巻き続けている。リックが、この店の人形のうちいくつかが中心点になったので、持ち出させてもらいたい、なんなら買う、と言うと、婆さんは口をでかく開けて笑い、無料でいいと言った。「じゃあお言葉に甘えさせてもらおう」というので、リックは三つの人形を持ってその場を後にしようとする。するといきなり婆さんが、人形が発するのと似たような叫び声を上げ、手に斧を持って、信じられないくらいの速度で走って追いかけてきた。

「あんた、いいって言ったじゃねえか!」と抗議しながらリックとシンシアは逃げた。地下街の上層へ戻ってきたが、しつこく婆さんは追いかけてきて、通行人や香具師を斧で切り、大騒ぎになって、二人はなんとか地上へ戻ることができた。

「あんなとこ、二度と行かないぞ。あの人形が欲しくなってもよそで探すさ」


 夜明けを待って、歩道橋の上から、殺到する白昼羊の群れに人形を投げ落とした。シンシアには、夜明けなのに白昼羊がいるというのは極めておかしなことに思えた。しかしリックはあまり気にしておらず、メロンパンにメロンが入っていないように、白昼羊も夜明けや夜中にも現れる存在なのかもしれない。

「疲れた。ろくでもない月光がやたらと沁みるよ」太陽が昇ってきているが、未だに幻影の月が色濃く照っている。ため息を吐きながらリックは、「オレはもう帰って寝る。あんたはこれから、どうするんだ?」

 シンシアは少し考えて、「まだしばらくここにいる」と答えた。


 それで時計店の馬は消滅したが、その日のうちに人形屋の婆さんは百人以上を殺傷し、白昼羊は正午になるころには町全体を覆い尽くし、日没くらいに遅ればせながらやって来た災禍指定者が、いくつかの区画ごと消し飛ばした。後日リックは双月会の集まりで、羊が大暴れした記念にラム肉を食べる会を開こうと提案したが、受け入れられなかった。

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